syuの日記・気まま旅

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八王子城址

2015-05-24 | 気まま旅

「高尾山」-明治の森・国定公園指定
八王子市南西部、関東山地東端に位置、中生代の堆積岩で山頂に「薬王院」・山岳信仰の山で、温暖体・冷温帯で、常緑広葉樹林と落葉広葉樹林がある。
東海自然歩道の起点ー小仏峠・陣馬山と相模湖など観光地。

JR高尾・私鉄京王線の「高尾駅」改札口に「大きな天狗のお面」


「八王子城主北条氏照」-1540-1590 妻は、大石定久の娘、武田勝頼と槍であわせている(滝山城三の丸)

1574年、には関宿城の簗田氏を攻略し、古河公方足利義氏の後見を務め、利根川水域を支配した。
1575年頃から陸奥守を称し、北条支城のみならず、小田原城の総奉行として働いている。
1576年から「陸奥守」を称するようになる。これは鎌倉幕府において、相模守、武蔵守に継ぐ重要な地位が陸奥守であったことを意識した名乗りと考えられる。1578年、上杉氏の家督争い御館の乱が起こると実弟・上杉景虎の援軍要請に応じた兄・北条氏政の名代として、氏邦と共に越後に出陣。
北条勢は三国峠を越えて坂戸城を指呼の間に望む樺沢城を奪取し、坂戸城攻略に着手した。
しかし上杉景勝方はよく守り、また冬が近づいてきたこともあって、北条勢は樺沢城に氏邦・北条高広らを置き、北条景広を遊軍として残置しての撤退を強いられた。景虎は翌年滅亡という悲運を辿った。
織田政権期には織田信長との同盟強化を望んだが、家中の反対意見と信長の横死によって充分に機能しなかった。
1582年6月、の本能寺の変で信長が死去すると、織田領の混乱を見て甥の北条氏直らと共に織田領の上野に侵攻し、信長の家臣滝川一益を破って
北条領を拡大した(神流川の戦い)。
信長死後を継いだ豊臣政権からは離れ、甲斐や信濃に侵攻した(天正壬午の乱)。
1590年、、豊臣秀吉の小田原征伐の際には徹底抗戦を主張し、居城である八王子城には重臣を置いて守らせ、自身は小田原城に籠もっているが、八王子城は上杉景勝、前田利家に攻略され、小田原開城後、秀吉から主戦派と見なされ、7月11日に兄・氏政と共に切腹を命じられ、死去した。享年51。

辞世の句は、
「吹くと吹く 風な恨みそ 花の春 もみじの残る 秋あればこそ」
「天地(あまつち)の 清き中より 生まれきて もとのすみかに 帰るべらなり」

没後、家臣中山家範の子孫である中山信治が供養塔を建造。(元八王子町3丁目に)八王子市滝山町にある少林寺は、氏照ゆかりの寺として伝わっている

1546年北条氏照が大石定久氏の養子に


北条三代氏康の子ー氏政(四代目)・八王子城主氏照・鉢形城主氏邦・韮崎城主氏規・上杉謙信養子に景虎、、、、、。

「鉢形城主北条氏邦」は、
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐の際には小田原城に籠もることに反対して大規模な野戦を主張し、居城の「鉢形城」に籠もって抗戦する。
しかし前田利家等の率いる大軍に攻められて降伏する。
戦後は利家の助命嘆願で剃髪することで一命を許され、能登津向(今の七尾)に知行1000石を得た。
慶長2年の1597年、加賀金沢にて57歳で病没したいる。
金沢で荼毘に付された後に、遺骸は武蔵正龍寺に移された。その時の大法要に集まった参列者はひと山を越える長さに及んだといわれ、かつての威勢と人望を偲ばせたと云う。
妻の大福御前は鉢形に残ったものの1593年、に病死したとも、自害したとも言われる。

1569年氏康、上杉謙信と和議ー氏照。大石から北条姓に復す


3代目北条氏康の長男が、4代目氏政、小田原城主
下総国府台で里見・太田連合軍を破っている。豊臣秀吉の上洛要請答えず征伐された。
父氏康は、氏政を「汁加減も判らぬ様では、北条家も終わりだ」山積の麦を見て「すぐ、麦飯を作れ、、」家臣から「ムギは、こき・こなし・ほし・
つきて飯にするもの、すぐには食べられない、、、」世間知らずを笑われている。氏政の首は、京一条戻橋にさらされたと云う。

1574年氏政(兄)・氏照が「関宿城(掲載していなす)」攻略
    

北条氏照は当初、大石氏の滝山城に拠っていたが、小田原攻撃に向かう甲斐国(現在の山梨県)・武田信玄軍に攻められ、その際に滝山城の防衛の限界を感じ、織田信長の築城した安土城を参考に石垣で固めた山城構築を行い、本拠を滝山城から移した。

1576年北条氏照「陸奥守」を名乗る。
    

滝山城は広大かつ多くの角馬出や内枡形を備えた近世的な平山城であったが、山城である八王子城に移ったことで氏照は、時代に逆行したとも言われている。しかし、八王子城は一般的な山城のような尾根と堀切を利用した縦深防御に加えて、侵入してくる敵に対しいたる所から側射をかける仕組みになっている。織豊系城郭と比較するとかなり独特ではあるが、より近世的な戦術を志向しているとも云う。

1582年氏照甲斐に出兵ー北条軍と徳川軍甲斐で対陣「若神子の戦い」
    

「八王子城合戦」
小田原征伐の一環として1590年の天正18年、7月24日(旧暦6月23日)、八王子城は、
天下統一を進める豊臣秀吉の軍勢に加わった上杉景勝・前田利家・真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められた。
当時、城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城内には、城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀らわずかの将兵の他、領内から動員した農民・婦女子を主とする領民を加えた約3000人が立て籠ったに過ぎなかったと云う。

諸説では、1582年頃八王子城築城?
  

豊臣側は前夜のうち霧をぬって主力が東正面の大手口(元八王子町)・北側の絡め手(下恩方町)の2方向より侵攻し、力攻めにより早朝には要害地区まで守備隊を追いやった。
その後は激戦となり1000人以上の死傷者を出し、一時攻撃の足が止まった。その後、絡め手側別働隊の奇襲が成功し、その日のうちに城を落とした。
氏照正室・比佐を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。
城代の横地監物は落城前に檜原村に脱出したが、小河内村付近にて切腹している。
八王子城攻防戦を含む、この小田原征伐において北条氏は敗北し、城主の北条氏照は当主・北条氏政とともに切腹した。
その後新領主となった徳川家康によって八王子城は廃城となった。

小田原城・韮山城の普請-1585年
    

発掘調査の結果、礎石を沢山つかった建物の跡や水路の跡、多数の遺物が出土。
礎石は土砂で被われ表面は芝生となっているが、今でも当時のまま、庭園部にある石の1つのみは戦国時代当時のもの。
虎口・石垣や石畳は当時のものをそのまま利用し、できるだけ忠実に復元されていると云う。
御主殿入口の冠木門は、当時の門をイメージし復元。
曳橋は、古道から御主殿へわたるために城山川に架けられた橋で、現在の橋は、当時の道筋を再現するために現在の建築技術で当時の雰囲気を考えて架けられたもので、実際の構造は、敵の侵入時に板を外したり、橋桁ごとスライドする大がかりなものであったと云う。
橋台の西側の石垣は、林道整備のため削られ移築。

1587年豊臣秀吉の侵攻に備える
    

「御主殿の滝」

落城時に御主殿にいた北条方の婦女子や武将らが滝の上流で自刃し、次々と身を投じたと言われている。
戦によって城山川の水が三日三晩血に染まり、麓の村では、この城山川の水で米を炊けば赤く米が染まるほどであったと伝えられる。
先祖供養にあずきの汁で米を炊いた「あかまんま・赤飯」を炊いて供養をする風習が現在でも続いていると云う。
赤飯供養はそれほど珍しいものではなく、北条氏の拠点である神奈川県の石上神社例祭では供物に赤飯を用いたり、他にも静岡県の蓮華寺など赤飯供養の風習は日本各地で続いている。
御主殿の滝の林道側には、高さ3m、幅10m程の小山が残っているが、元々は御主殿方向に繋がった土塁、現在は林道整備により半分以上が削られている。

1590年小田原開城・八王子城落城。
    

5男氏規(韮崎城主)は、徳川家康の竹馬の友・秀吉は、兄の氏政・氏照の介錯を氏規に命じている。

    

「朝遊山ー宗関寺」 曹洞宗の寺。

本尊 釋迦如来、 梵鐘(市指定有形文化財)、延喜年間開創
天慶二年朱雀天皇から領地を賜り勅願所として牛頭山神護寺とした。
北條氏照が八王子城を築き、永禄7年牛頭山を復興。天正18年落城翌年再興し朝遊山宗関寺に。現在地に明治25五年に移築している。

寺より西500m先に北條氏照墓地
    
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 。御主殿の滝
落城時に御主殿にいた北条方の婦女子や武将らが滝の上流で自刃し、次々と身を投じたと言われている。また戦によって城山川の水が三日三晩血に染まり、麓の村では、この城山川の水で米を炊けば赤く米が染まるほどであったと伝えられる。これが起因して先祖供養にあずきの汁で米を炊いた「あかまんま」(即ち赤飯)を炊いて供養をする風習が現在でも続いている[1]。尚、赤飯供養はそれほど珍しいものではなく、北条氏の拠点である神奈川県の石上神社例祭では供物に赤飯を用いたり、他にも静岡県の蓮華寺など赤飯供養の風習は日本各地で続いている。御主殿の滝の林道側には、高さ3m、幅10m程の小山が残っているが、元々は御主殿方向に繋がった土塁であった。現在は林道整備により半分以上が削られている。この土塁をダムにして

次回は平山城へ。

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