あじさい公園と城址。
北条氏は下田城を小田原水軍の根拠地とし、玉縄衆の朝比奈孫太郎が入っていた。やがて豊臣秀吉との関係が悪化すると伊豆衆の清水康英を城将とした。
1590年に豊臣側の水軍が来襲し、康英は手兵600余で約50日にわたって籠城した後に開城している。
北条氏の滅亡後は徳川家康の家臣・戸田忠次が下田5,000石を治め、当城主となった。忠次の子・尊次は1601年に三河国の田原城へ転封となり、
以後は江戸幕府の直轄領として下田町奉行が支配し、廃城となった。城址は下田公園となっている。
下田城は、通称 鵜嶋城と云い、城郭構造 海城、築城主 後北条氏、築城年 不明、主な城主 後北条氏、家康家臣(戸田氏)廃城年 江戸時代、遺構 空掘 。
(駅近くの下田城は観光用で美術館になっている)
「幸福稲荷神社」は、 古くは金花稲荷といい、創建時代は定かでない。
1708年に第10代下田奉行・酒井幸四郎が、1717年には第13代下田奉行板橋五太夫がともに石灯篭を献納した記録が残っている。
1843年、下田奉行・土岐丹波守の着任の際に再建され、幸福稲荷神社と呼ばれるようになったと伝えられている
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「下田公園あじさい」
6月1日から30日まであじさい祭が開催される。下田市街と下田港を一望にできる下田公園がアジサイの花で埋まる。
総計15万株・300万輪の紫陽花は訪れた人を圧倒するという。
園内を巡る遊歩道に延々と続くあじさい大輪の花、今日は小さなつぼみが点在していた。
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「下田城」は、現在の静岡県下田市の、下田港の湾口を扼する西側の岬全体が城地だった。
直径800mの円内に複数の入江が点在する天然の地形を利用し、曲輪が配置されていた。本丸は東西12m・南北30mの平場で、本丸の北側に2段の天守曲輪があった。
最南端のお茶ケ崎に物見櫓があり、直下の和歌の浦が船溜りとされた。
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下田城の戦い 下田城攻撃軍の編成 約10,000人(水軍 長宗我部元親、加藤嘉明、脇坂安治、九鬼嘉隆。吉見広頼(毛利家)
下田城守備軍 約600人(城主 清水康英、援将 江戸朝忠)、水軍部隊は伊豆半島沿岸の諸城を落とし小田原沖に展開する。
「馬場ヶ崎展望台」公園の東部に位置する、下田港を一望できるポイント、途中、女性の裸体の芸術品が道の両側に並んでいる。
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下田城城主「戸田忠次」
徳川氏とは縁戚関係及び主従などの関係があったため、内通を疑う者もあった。これを恨んだ忠次は200の軍勢を以って1564年、
徳川家康に謁して一揆鎮圧の軍勢に加わり、次第に出世して渥美郡大津(現在の豊橋市老津町付近)に2,300石を与えられた。
その後も1568年からの遠州侵攻にはじまり、翌年正月の掛川城攻め、1573年の三方ヶ原の戦い、駿河国田中城攻め、1584年の小牧・長久手の戦い、
1590年の小田原の役などで功績を挙げた。
徳川家の関東移封にともない、伊豆下田城、5,000石の封地を賜った。
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「佐藤惣之助」1890 - 1942、日本の詩人、作詞家。神奈川県川崎市 、 佐藤紅緑に師事し俳句を学び、1916年に最初の詩集である『正義の兜』を出版、
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大安寺
創立年代は不明。創建当時は因善寺、真言宗であった。1590年 僧、寂用英順が二世となり、曹洞宗に改宗と伝えられる。
山号の乳峰山は、裏山の形状が乳房に似ている事から付けられた。
薩摩十六烈士の墓(下田市指定史蹟)が建立されている。1688年、日向国佐土原藩主が将軍家御用材を江戸へ送る途中、遠州灘で嵐に遭い、
積荷の一部を海に捨てて危うく遭難を逃れ下田に入港した。
しかし御用材を捨てた責任を取り、乗組員16名は3名の武士を含め15歳の少年七蔵まで全員が切腹。大安寺に埋葬された。
船に残っていた柘の木は寺に寄進され、本堂の柱になっている。
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幕末開港時のペリー艦隊の入港中(1854)当寺において米人が遊女を写真にとっている錦絵が保存されている。
境内から清水が豊富に涌き出ており、町の水道源として利用された時期もあったと云う。
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「唐人お吉」アメリカ総領事ハリスの看護師。1841-91 芸者、伊豆下田の舟大工の娘、7歳で琴三味線を習い14歳で芸者となる。
ハリスの看護師となるがすぐ暇を出されるが、外国人の事実上の妾で不遇な後半生を送った。
給金は、一カ月十両、支度金二十五両が幕府から下されていたが、実際はお吉がハリスの元に通ったのは、わずか三夜に過ぎなかったという。
だが地元では、異人との交わった女と云う事でお吉を「唐人お吉」と呼んでさげすんだ。
後年お吉はアルコール中毒を病み、下田川に身を投げて51才の生涯を閉じた。
中世の船
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「ハリス」条約を締結した初代アメリカ行使。1804-78.外交官タウンゼント・ハリス、ニューヨーク州生まれ、商人から外交官に、
安政3年駐日領事として来日、下田玉泉寺に入る、翌年江戸に上り日米修好通商条約を調印に成功している。
ハリスは、日本人の混浴風景を見て「一つの風呂に男女老若とも同じ風呂に入り全裸になって体を洗うのに理解できず、判断に苦しむ」と語っている。
お吉実像 -お吉19歳 安政6年撮影-
撮影者:水野半兵衛氏
ぺりー艦隊上陸の碑 出品者:水野重四郎氏
米国初代総領事ハリスが下田に来航し、玉泉寺を領事館としたのは1856年のことである。
もともと病弱だったハリスは、条約締結への心労もあってか、年の暮れから健康を害し、年が明けると吐血、下田奉行に身の回りの世話をする
女性の派遣を要請した。
当時、日本人は外国人を夷人(毛唐)呼ばわりし、看護のためとはいえ、夷人のもとへ赴く女など居なかった。
困り果てた奉行が目をつけたのは、港に出入りする船員たちの衣類の洗濯で生計を立てる母親を助けて、自らは芸者として働いていた当時16歳、
評判の美人斎藤きち(お吉)であった。
お吉には鶴松という四歳年上の大工の恋人がいた。奉行からの再三の要請を拒みつづけるお吉に、奉行は「お国のためだ。
身を投げうってくれ」と、対価を条件にとした。
下男の給料が一ヶ月一両二分だったころのこと、それは途方もない大金だった。一方、奉行は鶴松に対してはいずれ武士に取り立てるからといって
お吉と別れるように迫った。あこがれの武士と聞いて鶴松の心は動いた。鶴松の心変わりを知り、それを詰ったお吉だったが、そのうちに諦めて
奉行の要請を受入れ、幕府が用意した引戸駕篭に乗せられて玉泉寺の門をくぐった。安政四年のことである。
幕末、維新の動乱の中、芸妓として流浪の果てに下田にもどり、鶴松と暮らし髪結業を始めるが、ほどなく離別。
さらに小料理屋「安直楼」を開業したが、2年後に廃業しています。
「唐人」という相も変わらぬ世間の罵声と嘲笑をあびながら貧困の中に身をもちくずし、明治24年の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ、
自らの命を絶ってしまう。波瀾にみちた51年の生涯のあまりにも哀しい終幕。
お吉は身よりもなく、宝福寺の第15代竹岡大乗住職が、慈愛の心で法名「釈貞観尼」を贈り、当時境内に厚く葬り、その後芸能人により新しく
墓石も寄進され現在に至っている。
お吉の悲劇的生涯は、人間の偏見と権力、その底にひそむ罪の可能性と愚かさを身をもって私達に教えているよう。
お吉の安直楼
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「玉泉寺」は、ハリスが初の領事館を開いたお寺。ハリスとお吉の「黒船哀話」もここで生まれる。境内には、初代総領事館タウンゼント・ハリスの
記念館があり、彼の遺品や当時の記録が陳列されている。境内の墓地には、5人のアメリカと3人のロシア水兵の墓がある。
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「ハリスの小径」は、玉泉寺から約400m離れた海岸あたりで散策にふけった小径が、今では”ハリスの小径”として整備され、この小径は、
県道とは離れている海岸道で静か、下田港の豪華なヨット群を見渡す景色が続く。また、途中山側には、洞窟もあり楽しい。
ハリスの小径
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「お吉ヶ渕」の このお吉地蔵は、故新渡戸稲造博士(1862─1933)の篤志によって昭和8年8月に建立されたもの。
博士は幕末開港の陰に一輪の花と咲いた薄命の佳人、唐人お吉の大の同情者の一人で、昭和8年7月16日に、このお吉ヶ淵に詣でお吉の霊を
懇ろに慰めるとともに 「お吉地蔵」 の建立を思いたったという。
地蔵尊の背面には、博士の母堂の命日にあたる昭和8年7月17日とだけ刻まれてあり、今では摩滅して定かではない。
博士はこの地蔵尊の姿を見ないまま、第五回太平洋問題会議に日本側の理事長として出席中、昭和8年10月カナダで病に倒れ、71歳の生涯を閉じた。
「から艸(くさ)の浮名の下に枯れはてし 君が心は大和撫子」この歌は、博士の奥ゆかしい心情が偲ばれる。
「新渡戸稲造」国際連盟事務局次長、教育者、農業者、思想家。盛岡生まれ、日本を世界に広め、「武士道」を英文で紹介
東京女子大学初代学長。
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唐人お吉記念館「宝福寺」八幡山。 まことの愛をうばわれ、唐人とののしられ、いばらの道を歩んだ、お吉の一生、
お吉供養祭・ 毎年3月27日、お吉が淵にて開催している。入館料 300円
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「新田御陣屋敷跡」幕府直轄地の伊豆下田は、三島代官所(後に韮山代官所)の支配下であった。1691年、三島代官陣屋が開設され、手代2人が詰めて、
地方事務を扱った後、陣屋詰の韮山代官手代は常勤となり、代々片岡氏が世襲した。この片岡氏の陣屋を新田御陣屋と呼び、地方事務所の始めとなった。
メインストリートのマイマイ通りに出て南へ向かうと、道の反対側に下田御陣屋跡碑と並んで春水の松がある。
ここは明治29年に医業を営む傍ら、小説「唐人お吉」書きお吉を世に紹介した村松春水の屋敷跡で、この松はそのときの庭木である。
マイマイとは、カタツムリからきた名で、ペリー来航でこのマイマイが日本に上陸したと考えられている。道の向かいに、豆州41番の霊跡の海善寺がある。
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「坂本龍馬」土佐藩の風雲児、1835-67 高知城下本丁筋の家に生まれ、北辰一刀流剣術千葉定吉に学ぶ、
土佐勤王党(武市瑞山、結成)に加盟し、脱藩して「勝海舟」入門。神戸海軍操練所で修行、慶応元年「亀山社中」を組織する。
翌年薩長同盟を締結させ、「海援隊長」となり商業を志し倒幕運動、「船中八策」を著して「大政奉還」を成し遂げた。
日本を洗濯すると云い脱藩し、事の大半は自分が動き、残りの詰を他人に譲り、政府の職制案を作り自分の名を名簿から外している。
西郷は龍馬に将来を尋ねると「世界の海援隊でもやりますかな」と答え、西郷が人物の大きさを見たという。
京都の「近江屋」で幕府の見廻り組に襲われ中岡慎太郎と共に命を絶つた。
「中岡慎太郎」1838-67 土佐藩士 薩長同盟に尽力、「土佐陸援隊隊長」。
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宝福寺は、勝海舟が山内容堂と会い、坂本龍馬の脱藩罪の許しを請うた場所。容堂の前で、勝が飲めない酒を飲み干してみせたという。
龍馬がこの地にて脱藩を許されたことから、下田は「坂本龍馬飛翔の地」といわれるようになる。
本堂の横に「唐人お吉記念館」が併設されており、お吉と龍馬に関する様々な史料を見学することができる。入場料は300円。
山内容堂 1827-72 土佐 15代藩主、井伊直弼と将軍継嗣問題で対立し、安政6年で隠居している。
その後、公武合体を理想とし政治活動を続け、大政奉還建白書を出している。明治5年中風を病んで没した。
下田港 勝海舟の咸臨丸
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宝福寺は、勝海舟が山内容堂に坂本龍馬の脱藩の許しをお願いした場所、嵐のために、山内容堂の船と、そして勝海舟と坂本龍馬が乗った船が、
それぞれ偶然、下田に寄ったという歴史的な偶然。
山内容堂が宝福寺にいるとの情報を得た勝海舟が、山内容堂がいる宝福寺を訪れ龍馬の脱藩の許しをお願いし、下戸であった海舟が、
容堂の要望で酒を飲まされた時の杯が展示されている。
その間、龍馬は下田湾に浮かぶ船で一晩明かし、龍馬の脱藩の罪を許したしるしとして扇子に瓢箪の絵を描いて、容堂は海舟に渡している。
この扇子の本物は東京国立博物館にあると云う。
坂本龍馬像
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脱藩し、勝海舟の門下生となり、歴史的な薩長同盟を成功させたのは3年後、龍馬はまだ無名の存在だった。
しかし、晴れて行動の自由を得て、維新回天の大事業に突き進む端緒となったのが下田。
宝福寺に宿をとった容堂公は幕府軍艦の入港を知り、使いを走らせて勝を寺に招いた。勝は配下の脱藩土佐藩士3人を引き連れて宝福寺に乗り込んだ。
京都の情勢など意見交換が一通り終わった後、勝が切り出した。「坂本龍馬ら土佐の脱藩藩士を赦して、私にまかせてほしい」
容堂公はむっときたが、「まぁ、一杯いこうか」、と大きな杯に酒を注いだ。容堂公は「鯨海酔侯」と自ら名乗るだけあって大酒飲み。
勝が下戸であるのを知った上のことだった。勝が一気にその杯を飲み干したのを見て、上機嫌となった容堂公は龍馬らの赦免を約束した。
土佐藩主にとって龍馬ら郷士の処遇など些末なことだったが、勝にとってはかけがえのない門弟であった。
勝は酔った上での話とされないようさらに証拠となるものを求めた。
容堂公は墨と筆を取り寄せ、扇子に「歳酔三百六十回」と書いて、「鯨海酔侯」」と署名した。この経緯は土佐藩の記録にも残っている。
そして正式に脱藩の罪はとかれた。
下田港に浮かぶ観光用黒船汽船
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北条氏は下田城を小田原水軍の根拠地とし、玉縄衆の朝比奈孫太郎が入っていた。やがて豊臣秀吉との関係が悪化すると伊豆衆の清水康英を城将とした。
1590年に豊臣側の水軍が来襲し、康英は手兵600余で約50日にわたって籠城した後に開城している。
北条氏の滅亡後は徳川家康の家臣・戸田忠次が下田5,000石を治め、当城主となった。忠次の子・尊次は1601年に三河国の田原城へ転封となり、
以後は江戸幕府の直轄領として下田町奉行が支配し、廃城となった。城址は下田公園となっている。
下田城は、通称 鵜嶋城と云い、城郭構造 海城、築城主 後北条氏、築城年 不明、主な城主 後北条氏、家康家臣(戸田氏)廃城年 江戸時代、遺構 空掘 。
(駅近くの下田城は観光用で美術館になっている)
「幸福稲荷神社」は、 古くは金花稲荷といい、創建時代は定かでない。
1708年に第10代下田奉行・酒井幸四郎が、1717年には第13代下田奉行板橋五太夫がともに石灯篭を献納した記録が残っている。
1843年、下田奉行・土岐丹波守の着任の際に再建され、幸福稲荷神社と呼ばれるようになったと伝えられている
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「下田公園あじさい」
6月1日から30日まであじさい祭が開催される。下田市街と下田港を一望にできる下田公園がアジサイの花で埋まる。
総計15万株・300万輪の紫陽花は訪れた人を圧倒するという。
園内を巡る遊歩道に延々と続くあじさい大輪の花、今日は小さなつぼみが点在していた。
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「下田城」は、現在の静岡県下田市の、下田港の湾口を扼する西側の岬全体が城地だった。
直径800mの円内に複数の入江が点在する天然の地形を利用し、曲輪が配置されていた。本丸は東西12m・南北30mの平場で、本丸の北側に2段の天守曲輪があった。
最南端のお茶ケ崎に物見櫓があり、直下の和歌の浦が船溜りとされた。
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下田城の戦い 下田城攻撃軍の編成 約10,000人(水軍 長宗我部元親、加藤嘉明、脇坂安治、九鬼嘉隆。吉見広頼(毛利家)
下田城守備軍 約600人(城主 清水康英、援将 江戸朝忠)、水軍部隊は伊豆半島沿岸の諸城を落とし小田原沖に展開する。
「馬場ヶ崎展望台」公園の東部に位置する、下田港を一望できるポイント、途中、女性の裸体の芸術品が道の両側に並んでいる。
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下田城城主「戸田忠次」
徳川氏とは縁戚関係及び主従などの関係があったため、内通を疑う者もあった。これを恨んだ忠次は200の軍勢を以って1564年、
徳川家康に謁して一揆鎮圧の軍勢に加わり、次第に出世して渥美郡大津(現在の豊橋市老津町付近)に2,300石を与えられた。
その後も1568年からの遠州侵攻にはじまり、翌年正月の掛川城攻め、1573年の三方ヶ原の戦い、駿河国田中城攻め、1584年の小牧・長久手の戦い、
1590年の小田原の役などで功績を挙げた。
徳川家の関東移封にともない、伊豆下田城、5,000石の封地を賜った。
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「佐藤惣之助」1890 - 1942、日本の詩人、作詞家。神奈川県川崎市 、 佐藤紅緑に師事し俳句を学び、1916年に最初の詩集である『正義の兜』を出版、
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大安寺
創立年代は不明。創建当時は因善寺、真言宗であった。1590年 僧、寂用英順が二世となり、曹洞宗に改宗と伝えられる。
山号の乳峰山は、裏山の形状が乳房に似ている事から付けられた。
薩摩十六烈士の墓(下田市指定史蹟)が建立されている。1688年、日向国佐土原藩主が将軍家御用材を江戸へ送る途中、遠州灘で嵐に遭い、
積荷の一部を海に捨てて危うく遭難を逃れ下田に入港した。
しかし御用材を捨てた責任を取り、乗組員16名は3名の武士を含め15歳の少年七蔵まで全員が切腹。大安寺に埋葬された。
船に残っていた柘の木は寺に寄進され、本堂の柱になっている。
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幕末開港時のペリー艦隊の入港中(1854)当寺において米人が遊女を写真にとっている錦絵が保存されている。
境内から清水が豊富に涌き出ており、町の水道源として利用された時期もあったと云う。
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「唐人お吉」アメリカ総領事ハリスの看護師。1841-91 芸者、伊豆下田の舟大工の娘、7歳で琴三味線を習い14歳で芸者となる。
ハリスの看護師となるがすぐ暇を出されるが、外国人の事実上の妾で不遇な後半生を送った。
給金は、一カ月十両、支度金二十五両が幕府から下されていたが、実際はお吉がハリスの元に通ったのは、わずか三夜に過ぎなかったという。
だが地元では、異人との交わった女と云う事でお吉を「唐人お吉」と呼んでさげすんだ。
後年お吉はアルコール中毒を病み、下田川に身を投げて51才の生涯を閉じた。
中世の船
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「ハリス」条約を締結した初代アメリカ行使。1804-78.外交官タウンゼント・ハリス、ニューヨーク州生まれ、商人から外交官に、
安政3年駐日領事として来日、下田玉泉寺に入る、翌年江戸に上り日米修好通商条約を調印に成功している。
ハリスは、日本人の混浴風景を見て「一つの風呂に男女老若とも同じ風呂に入り全裸になって体を洗うのに理解できず、判断に苦しむ」と語っている。
お吉実像 -お吉19歳 安政6年撮影-
撮影者:水野半兵衛氏
ぺりー艦隊上陸の碑 出品者:水野重四郎氏
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米国初代総領事ハリスが下田に来航し、玉泉寺を領事館としたのは1856年のことである。
もともと病弱だったハリスは、条約締結への心労もあってか、年の暮れから健康を害し、年が明けると吐血、下田奉行に身の回りの世話をする
女性の派遣を要請した。
当時、日本人は外国人を夷人(毛唐)呼ばわりし、看護のためとはいえ、夷人のもとへ赴く女など居なかった。
困り果てた奉行が目をつけたのは、港に出入りする船員たちの衣類の洗濯で生計を立てる母親を助けて、自らは芸者として働いていた当時16歳、
評判の美人斎藤きち(お吉)であった。
お吉には鶴松という四歳年上の大工の恋人がいた。奉行からの再三の要請を拒みつづけるお吉に、奉行は「お国のためだ。
身を投げうってくれ」と、対価を条件にとした。
下男の給料が一ヶ月一両二分だったころのこと、それは途方もない大金だった。一方、奉行は鶴松に対してはいずれ武士に取り立てるからといって
お吉と別れるように迫った。あこがれの武士と聞いて鶴松の心は動いた。鶴松の心変わりを知り、それを詰ったお吉だったが、そのうちに諦めて
奉行の要請を受入れ、幕府が用意した引戸駕篭に乗せられて玉泉寺の門をくぐった。安政四年のことである。
幕末、維新の動乱の中、芸妓として流浪の果てに下田にもどり、鶴松と暮らし髪結業を始めるが、ほどなく離別。
さらに小料理屋「安直楼」を開業したが、2年後に廃業しています。
「唐人」という相も変わらぬ世間の罵声と嘲笑をあびながら貧困の中に身をもちくずし、明治24年の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ、
自らの命を絶ってしまう。波瀾にみちた51年の生涯のあまりにも哀しい終幕。
お吉は身よりもなく、宝福寺の第15代竹岡大乗住職が、慈愛の心で法名「釈貞観尼」を贈り、当時境内に厚く葬り、その後芸能人により新しく
墓石も寄進され現在に至っている。
お吉の悲劇的生涯は、人間の偏見と権力、その底にひそむ罪の可能性と愚かさを身をもって私達に教えているよう。
お吉の安直楼
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「玉泉寺」は、ハリスが初の領事館を開いたお寺。ハリスとお吉の「黒船哀話」もここで生まれる。境内には、初代総領事館タウンゼント・ハリスの
記念館があり、彼の遺品や当時の記録が陳列されている。境内の墓地には、5人のアメリカと3人のロシア水兵の墓がある。
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「ハリスの小径」は、玉泉寺から約400m離れた海岸あたりで散策にふけった小径が、今では”ハリスの小径”として整備され、この小径は、
県道とは離れている海岸道で静か、下田港の豪華なヨット群を見渡す景色が続く。また、途中山側には、洞窟もあり楽しい。
ハリスの小径
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「お吉ヶ渕」の このお吉地蔵は、故新渡戸稲造博士(1862─1933)の篤志によって昭和8年8月に建立されたもの。
博士は幕末開港の陰に一輪の花と咲いた薄命の佳人、唐人お吉の大の同情者の一人で、昭和8年7月16日に、このお吉ヶ淵に詣でお吉の霊を
懇ろに慰めるとともに 「お吉地蔵」 の建立を思いたったという。
地蔵尊の背面には、博士の母堂の命日にあたる昭和8年7月17日とだけ刻まれてあり、今では摩滅して定かではない。
博士はこの地蔵尊の姿を見ないまま、第五回太平洋問題会議に日本側の理事長として出席中、昭和8年10月カナダで病に倒れ、71歳の生涯を閉じた。
「から艸(くさ)の浮名の下に枯れはてし 君が心は大和撫子」この歌は、博士の奥ゆかしい心情が偲ばれる。
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「新渡戸稲造」国際連盟事務局次長、教育者、農業者、思想家。盛岡生まれ、日本を世界に広め、「武士道」を英文で紹介
東京女子大学初代学長。
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唐人お吉記念館「宝福寺」八幡山。 まことの愛をうばわれ、唐人とののしられ、いばらの道を歩んだ、お吉の一生、
お吉供養祭・ 毎年3月27日、お吉が淵にて開催している。入館料 300円
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「新田御陣屋敷跡」幕府直轄地の伊豆下田は、三島代官所(後に韮山代官所)の支配下であった。1691年、三島代官陣屋が開設され、手代2人が詰めて、
地方事務を扱った後、陣屋詰の韮山代官手代は常勤となり、代々片岡氏が世襲した。この片岡氏の陣屋を新田御陣屋と呼び、地方事務所の始めとなった。
メインストリートのマイマイ通りに出て南へ向かうと、道の反対側に下田御陣屋跡碑と並んで春水の松がある。
ここは明治29年に医業を営む傍ら、小説「唐人お吉」書きお吉を世に紹介した村松春水の屋敷跡で、この松はそのときの庭木である。
マイマイとは、カタツムリからきた名で、ペリー来航でこのマイマイが日本に上陸したと考えられている。道の向かいに、豆州41番の霊跡の海善寺がある。
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「坂本龍馬」土佐藩の風雲児、1835-67 高知城下本丁筋の家に生まれ、北辰一刀流剣術千葉定吉に学ぶ、
土佐勤王党(武市瑞山、結成)に加盟し、脱藩して「勝海舟」入門。神戸海軍操練所で修行、慶応元年「亀山社中」を組織する。
翌年薩長同盟を締結させ、「海援隊長」となり商業を志し倒幕運動、「船中八策」を著して「大政奉還」を成し遂げた。
日本を洗濯すると云い脱藩し、事の大半は自分が動き、残りの詰を他人に譲り、政府の職制案を作り自分の名を名簿から外している。
西郷は龍馬に将来を尋ねると「世界の海援隊でもやりますかな」と答え、西郷が人物の大きさを見たという。
京都の「近江屋」で幕府の見廻り組に襲われ中岡慎太郎と共に命を絶つた。
「中岡慎太郎」1838-67 土佐藩士 薩長同盟に尽力、「土佐陸援隊隊長」。
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宝福寺は、勝海舟が山内容堂と会い、坂本龍馬の脱藩罪の許しを請うた場所。容堂の前で、勝が飲めない酒を飲み干してみせたという。
龍馬がこの地にて脱藩を許されたことから、下田は「坂本龍馬飛翔の地」といわれるようになる。
本堂の横に「唐人お吉記念館」が併設されており、お吉と龍馬に関する様々な史料を見学することができる。入場料は300円。
山内容堂 1827-72 土佐 15代藩主、井伊直弼と将軍継嗣問題で対立し、安政6年で隠居している。
その後、公武合体を理想とし政治活動を続け、大政奉還建白書を出している。明治5年中風を病んで没した。
下田港 勝海舟の咸臨丸
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宝福寺は、勝海舟が山内容堂に坂本龍馬の脱藩の許しをお願いした場所、嵐のために、山内容堂の船と、そして勝海舟と坂本龍馬が乗った船が、
それぞれ偶然、下田に寄ったという歴史的な偶然。
山内容堂が宝福寺にいるとの情報を得た勝海舟が、山内容堂がいる宝福寺を訪れ龍馬の脱藩の許しをお願いし、下戸であった海舟が、
容堂の要望で酒を飲まされた時の杯が展示されている。
その間、龍馬は下田湾に浮かぶ船で一晩明かし、龍馬の脱藩の罪を許したしるしとして扇子に瓢箪の絵を描いて、容堂は海舟に渡している。
この扇子の本物は東京国立博物館にあると云う。
坂本龍馬像
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脱藩し、勝海舟の門下生となり、歴史的な薩長同盟を成功させたのは3年後、龍馬はまだ無名の存在だった。
しかし、晴れて行動の自由を得て、維新回天の大事業に突き進む端緒となったのが下田。
宝福寺に宿をとった容堂公は幕府軍艦の入港を知り、使いを走らせて勝を寺に招いた。勝は配下の脱藩土佐藩士3人を引き連れて宝福寺に乗り込んだ。
京都の情勢など意見交換が一通り終わった後、勝が切り出した。「坂本龍馬ら土佐の脱藩藩士を赦して、私にまかせてほしい」
容堂公はむっときたが、「まぁ、一杯いこうか」、と大きな杯に酒を注いだ。容堂公は「鯨海酔侯」と自ら名乗るだけあって大酒飲み。
勝が下戸であるのを知った上のことだった。勝が一気にその杯を飲み干したのを見て、上機嫌となった容堂公は龍馬らの赦免を約束した。
土佐藩主にとって龍馬ら郷士の処遇など些末なことだったが、勝にとってはかけがえのない門弟であった。
勝は酔った上での話とされないようさらに証拠となるものを求めた。
容堂公は墨と筆を取り寄せ、扇子に「歳酔三百六十回」と書いて、「鯨海酔侯」」と署名した。この経緯は土佐藩の記録にも残っている。
そして正式に脱藩の罪はとかれた。
下田港に浮かぶ観光用黒船汽船
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歴史を感じる旅いいですね。
下田の町は駅前から歴史の連続で楽しいですよ。
一度行ってみてください。