syuの日記・気まま旅

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墨堤 向島 2019年3月上旬撮影

2019-04-12 | 季節だより
「榎本武揚」 1836-1908   幕臣・五稜郭、蝦夷島総裁 政治家・軍人
江戸下谷生まれ、長崎海軍伝習所で修行し、文久2年オランダ留学・慶応3年帰国し軍艦頭並、翌年海軍副総裁となる。
戊辰戦争が始まると旧幕府脱走軍を指揮いて、北海道箱館に渡航。新政府軍と抗戦するが翌年降伏している。
東京辰の口牢獄に送られた。入獄時牢名主から「娑婆でどんな悪事を働いた」かと聞かれ、榎本は「箱館の榎本・・」と答え、以降榎本が牢名主に。
出獄後、明治政府の仕え、逓信・農商・文部・外務の各大の海軍副総裁を務めたこと、明治維新の時、五稜郭にたてこもり官軍に抵抗するが、後に許され駐露公使としてロシアと樺太・千島交換条約を締結し、晩年、この地向島に住んでいた。

歴史の向島には、小説家、幸田露伴・辞世狂歌、歌川豊広・小説家、吉川英治・淡島寒月・芭蕉・正岡子規・・・訪れ、住んでいる。

                   隅田川桜橋から白髭橋方面に(桜橋ー言問橋ー吾妻橋と続く〉


東京の花街また遊廓
第二次世界大戦後GHQの政策により遊廓が廃止され、現在ではもっぱら芸妓屋などの集まる地域を指す(見番)。
東京の花街は限られた地域にしか存在しないが、戦前には東京23区のうち、21区に花街が存在していたと云う。
芳町・ 新橋(銀座)・ 赤坂・ 神楽坂・ 浅草・ 向島・ 東京六花街。(ほか 八王子・・)。
江戸時代に深川の岡場所からやがて「粋」を売り物とする「辰巳芸者」が生まれた。

向島は、隅田川沿岸に位置し、江戸時代から風光明媚の地として栄えてきたが、明治期に料理屋が置かれそれが花街の起源となる。
最盛期には待合、料理屋が100軒から200軒、芸妓は1000名以上あり各検番(芸妓、料理屋を管轄する機関)にそれぞれ在籍した。
中でも洋装のダンス芸妓が人気を集め、その近くには玉の井という私娼のいた銘酒店街(飲み屋を装って売春をする店が立ち並ぶ場所で、非公認の遊廓)が存在した。
関東大震災、第二次世界大戦の危機を乗り越えてきたが昭和後期に入り料亭、芸妓数の減少が続き、2009年現在、料亭18軒、芸妓120名と云う。
戦前には複数あった見番が「向嶋墨堤組合」に統合され、芸妓の技芸向上や後進の育成を図るほか、春の時期に桜茶屋を設け花見客を接待するなど、対外的にも積極的に取り組んでいる。 向島見番通り。
向島を舞台にした作品は、「向嶋」 永井荷風・向島を描いた浮世絵など。

                浮世絵師葛飾北斎 「須佐之男命厄神退治の絵」


「王貞治」 1940~(78歳)・出身地 墨田区で少年時代ここで野球を。
監督。福岡ソフトバンクホークス・日本プロ野球名球会顧問と 世界記録となるレギュラーシーズン通算本塁打868本を記録し、巨人のV9に貢献した。



                           燈火塔


                         現在の燈火塔


                        桜並木の遊歩道


                          牛嶋神社


                           長命寺


                        芭蕉などの石塔が


                  江戸時代から続く桜餅  近くに言問団子がある。


                       長命寺の桜餅 山本屋


           正岡子規が大学時代の仮寓の地 山本屋の2階に、自信が名づけた「月香楼」


           花の香を若葉にこめてかぐはしき桜もち家のつとにせよ  子規


                         向島案内板



                       墨堤通りと見番通り





               野口雨情 都鳥さへ夜長のころは 水に歌書く夢も見る  雨情






次回は、桜橋を渡り対岸の台東区浅草方面へ。



















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