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syuの日記・気まま旅

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広瀬中佐

2020-08-11 | syu散歩
「広瀬武夫中佐」 1868-1889 帝国海軍 旧万世橋駅前に幻の銅像があった。 大分県竹田市(現在の地名) 西南戦争で自宅焼失 1家飛騨高山へ。

海軍兵学校入校、同時期に講道館で柔道も学び、1889年の明治22年、卒業(15期)。
入学時席次は19番、卒業時は80人中64番(49番という説もある)。兵学校卒業後、翌明治23年、軍艦「比叡」に乗船、二度にわたり遠洋航海。その間に少尉に任官。半年だけ、測量艦「海門」の甲板士官となり、沿岸の測量、警備に従事。この時期、静岡県清水に寄港し、清水次郎長の知遇を得たと云う。
明治27年、の日清戦争に従軍し、28年、大尉に昇進。30年、ロシアへ留学してロシア語などを学び、貴族社会と交友する。
旅順港などの軍事施設も見学、ロシア駐在武官となり、1900年の明治33年、少佐昇進。明治35年、帰国。
ロシア駐在中にペテルブルク大学で日本語を教えていた黒野義文から頼まれたこともあり、後に海軍少将となる義文の二男・森電三の相談相手となり、格別の世話をする。
明治37年、日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事し、第2回の閉塞作戦において閉塞船福井丸を指揮していたが、敵駆逐艦の魚雷を受けた。
撤退時に広瀬は、自爆用の爆薬に点火するため船倉に行った部下の「杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)」がそのまま戻ってこないことに気付いた。
広瀬は、杉野を助けるため一人沈み行く福井丸に戻り、船内を3度も捜索したが、彼の姿は見つからなかった。
やむを得ず救命ボートに乗り移ろうとした直後、頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死した。37歳(満35歳)だったと云う。(即日中佐に昇進)
広瀬の遺体は福井丸の船首付近に浮かんでいるところをロシア軍によって発見され、戦争中であったが、ロシア軍は栄誉礼をもって丁重な葬儀を行い、陸上の墓地に埋葬。
青山霊園に、兄の勝比古と並んで墓所。日本初の「軍神」となり、出身地の大分県竹田市には、昭和10年に、「岡田啓介(当時の内閣総理大臣)」らと地元の黒川健士ほか数百名の手により広瀬を祀る広瀬神社が創建された。
文部省唱歌の題材にもなり、直撃を受けた際、近くにいた兵のそばを飛び散った肉片がかすめていった。
その痕跡がくっきりと残った兵の帽子が靖国神社遊就館に奉納されており、時折展示されている。また、広瀬が戦死した際に所持していた血染めの海図が、朝日の乗員から講道館に寄贈され、その後も講道館2階の柔道殿堂に展示されている。
嘉納治五郎は、広瀬の才能を高く評価していた。広瀬の戦死の報が伝えられた時、嘉納は人目もはばからず「男泣きに泣いた」という。
大正12年9月1日・午後11時58分・関東大震災 慶安・元禄・安政江戸三大地震をはるかに上まわるものであった。東京市街を瓦礫の山と化した。
下町中心に3日間も燃え尽くしたと云う。万世橋・神田郵便局・市電などすべて灰になった。
以降、交通は壊滅状態であったが、市電は、9月6日ー神田神保町車庫から上野公園間が開通したと云う。
万世橋の広瀬中佐と杉野上等兵銅像は、取り壊された。

文部省唱歌 広瀬中佐
1)轟く砲音 飛来る弾丸 荒波洗う デッキの上に 闇を貫く 中佐の叫び 「杉野は何処 杉野は居ずや」
2)船内隈なく 尋ぬる三度 呼べど答えず 探せど見えず 舟は次第に 浪間に沈み 敵弾いよいよ あたりに繁し
3)今はとボートに 移れる中佐 飛来に弾丸に 忽ち失せて 旅順港外 恨みぞ深き 軍神広瀬と その名残れど

関東大震災 焼失29万・倒壊1万5千・死者74000人、行方不明25万とある。 
 












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