syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

天然記念物の七本杉 河口浅間神社 大木が100本余り

2019-08-13 | 季節だより

富士山世界文化遺産 延喜式内名神大社 「河口浅間神社」 御祭神ー浅間大神「木花開耶姫命」

人皇第56代清和天皇の御宇 864年の富士山大噴火で北面の大湖・富士山の神「浅間明神」をこの地に奉斎、富士山噴火鎮祭を行ったとある。
1100余年余の鎮守の社で、境内地の森に「天然記念物の七本杉」はじめ大木が100本余りが社殿をかこっている。



                     五尺八寸・約18mの大鳥居。


               例大祭・4月25日  太々御神楽祭・7月28日


          「絵馬」狩野洞元邦信筆 「元禄10年」その他多数 (国重文化財)


                     武田信虎公奉納の太刀














「母の白滝」は、富士登山者が身を清めた滝と云う。

                   神社から登りで15分ほどにある。



勝頼の妻北条夫人 御坂峠を越えて嫁入り

2019-08-05 | 季節だより
「御坂峠」ー国道137号線ー
山梨県南都留郡富士河口湖町ー笛吹市にまたがる峠。(鎌倉往還御坂路・御坂の名は日本武尊が東国遠征の際に越えたことに由来)
富士吉田側と甲府盆地側にまたがる御坂山地の御坂山(1596m)と黒岳 (1793m) との中間付近に存在する (1520m) 。
御坂トンネル開通までは、富士吉田側と甲府盆地側の行き来は徒歩により御坂峠を越えなければならなかった。
1931年の昭和6年、御坂隧道(延長396m)を含む旧・国道8号(現在の国道20号)が開通、後に御坂トンネルを通り甲府と富士吉田を結ぶ路線バスも運行。
昭和27年、新道路法制定に伴い旧・国道8号が国道20号に変更された際に御坂峠越えから笹子峠(大月市・甲州市)越えにルート変更
昭和28年、国道137号指定。
御坂峠の呼称は、御坂隧道の富士吉田側入り口地点(標高1300m)付近を指すようになり、古道の峠を「旧御坂峠」、御坂隧道の峠を「新御坂峠」と分けて呼称する場合も。
1994年の平成6年に、御坂トンネル有料道路が無料に、
1967年(昭和42年)に旧御坂峠のほぼ直下の標高1000m付近を貫く形で新御坂隧道が開通され、延長は2778m。

「御坂峠と文学・美術」-葛飾北斎「冨嶽三十六景 甲州三坂水面」-
           - 歌川広重「富士三十六景 甲斐御坂越」ー



江戸時代後期には浮世絵師の葛飾北斎が御坂峠から見える富士山を描いている。
1830年、から1834年、刊行、「冨嶽三十六景」では甲斐の裏富士を描いた作品が六作あるが、そのうちのひとつ「甲州三坂水面」では御坂峠から河口湖に映る逆さ富士が描かれている。(実景としては逆さ富士は御坂峠から見ることが出来ない)
「甲州三坂水面」では実景として描かれる富士は夏山なのに対し、湖面に映る逆さ富士は冠雪した冬の山として描かれている。
北斎没後の1849年、刊行、「北斎漫画 第十三編 無題(甲州三坂水面)」においても同様の御坂峠から望んだ逆さ富士が描かれている。
同じく浮世絵師の歌川広重は、1858年、に刊行、「富士三十六景」において御坂峠から見える河口湖と富士が描かれている(逆さ富士は描かれていない。広重は、1841年に甲斐を訪れ「甲州日記」に甲斐名所のスケッチを残してるが、御坂峠を訪ねた記録は見られないと云う。 

           -作家の井伏鱒二と太宰治ー
御坂隧道の富士河口湖町側入口横にある天下茶屋に滞在して執筆活動をしている。
茶屋付近には太宰の作品「富嶽百景」にある「富士には月見草がよく似合ふ」の一節を記した文学碑が。



「ヤマトタケルノミコトが越えたことから「ミサカ・御坂」と呼ばれるように。
御坂路ー関西と甲斐を結ぶ主要道路として使用さている。
武田の軍勢の甲斐源氏もこの道を通り、御坂の山を越えていった。



「鎌倉古道御坂道の峠」
戦国時代に山城が築かれていたと云う。
天正10年(武田家が滅んだ年)の記述に御坂城で戦があったとの記載ある。
調査の結果峠の鞍部を中心にやや西側に多くの城郭遺構が見られると云う。ー富嶽旧御坂峠ー


御坂黒岳,ー御坂山塊の最高点ー
旧鎌倉往還の藤ノ木から石畳の残る道を上がると御坂峠、目の前に河口湖、富士山を見る、甲斐富士見三景の1つになる。
往古、日本武尊はここを越えて甲州に入ったと云う。
ブナ林の中の土塁は、徳川家康と北條氏政の覇権争い(黒駒の合戦、天正10年8月12日)の跡と云う。



東海道から甲府へつながる「鎌倉往還」の途中になる「御坂峠」。
富士河口湖町と笛吹市にまたがる「御坂峠」は、東海道から甲府へつながる鎌倉往還の途中。
富士山がそびえる。この眺望に旅人の心が洗われるのは今も昔と変わらないのでは、
作家、井出孫六氏は昭和57年出版「日本百名峠」でひとつに数えている。



           北条夫人辞世の句(武田勝頼の正室ですが、北条家より嫁入りしたので)
 ー黒髪の乱れたる世ぞ、果しなき、思いに消る、露の玉の緒ー

武田家と北条家の同盟の証として、嫁入り、その後、両家は仲たがいし、闘いの日々が、織田の乱入で滅亡の定めへ勝頼の「北条へ帰って、生き延びよ」との、説得に応じず勝頼の妻として、武田の女として死を選んだのでした。

北条夫人  1564-1582 北条氏康の6女? 名不明(氏康の子女で生年が判明しているのは「氏規と北条夫人のみと云う」
夫人が輿入れの際、御坂路を通って甲斐の国へ・黒駒の地主の家に一泊し、翌朝記念に松を植樹し、昭和30年まであったと云う。北条夫人は、戦国時代の強い女性であった。

「駒木戸の口留番所案内板」より。
江戸時代に駒木戸(立沢)には口留番所と呼ばれる関所があった。
甲州には二五か所の口留番所があり、信濃境・駿河境や江戸へ近い上之原などは、侍身分の役人が取締っていた。駒木戸では上番(名主)下番(平百姓)が駐在し通行手形など厳しく取り調べた。この番所は平屋茅葺で二間半・四間の建物で役務室と控え室の二部屋からなり、外周りの矢来は栗材で高さ六尺(役百八〇糎)、東側三間・西側二間で囲まれていた。
通行手形を持たない者とか不法狼藉をはたらく者に備えて、刺股・袖がらみ・突棒なども用意されていた。

鎌倉街道に沿った駒木戸の集落の東側で、金川と立沢川の交差する付近に口留番所はあったが、水害の延宝二年(一六七四)には、称願寺の前に移動したこともある。今も関所があったことから関元とか、関下などの地名が残されている。


「棒道」
武田晴信・信玄が、開発したとされている軍用道路。
八ヶ岳南麓から西麓にかけての甲信国境(甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)の境)を通る。
甲斐国北西部の逸見筋(現在の北杜市域)にあたる山梨県北杜市(旧北巨摩郡小淵沢町、長坂町)や長野県富士見町には現在でも上の棒道、中の棒道、下の棒道の三筋が残されており、それぞれ市・町指定の史跡となっている。
地元では信玄棒道と呼ばれており、「棒道」の由来は、荒野にまっすぐ一本の棒のように存在していたので棒道と呼ばれるようになったとされる。
別名は大門嶺口。
           信玄の道は、信玄菩提寺、恵林寺の参道


「ほうとう」
山梨県内のほどんどの地域で古くから食べられていた郷土料理。 小麦粉を練った麺に、地元でとれた野菜や、地味噌で煮込んだ麺料理の一種。
農山漁村の郷土料理百選にも選ばれている。県は山国で水田が少なくお米の代わりによく食べられていたのが、「ほうとう」。米作に恵まれなかった
山梨県では、数十年前までは県民の主食で、特にお嫁入り前の娘さん達は、ほうとう作りの腕を磨いていたと云う。
野菜類、カボチャ、じゃが芋、里芋、白菜、ねぎ、ごぼう、にんじん、しいたけ等を入れ、食物繊維が豊富に含まれる。
カボチャの入ったほうとうは栄養価が高くて、寒い季節には身体が温まり、夏は汗が出るのを好み、涼しくなる、早く簡単に調理できる。

             武田軍は、「ほうとう」が食べられると喜ばれたと云う。


山梨県御坂町黒駒、県中央・旧東八代黒駒町ー御坂山地金川扇状地一帯、古代の黒駒の牧。
「甲斐の黒駒 井の育ち 羽根はなけれど 日に千里」
                        絵峰神社入口




        江戸時代、駿河の清水次郎長と争った「黒駒の勝蔵」は、この産。

博物館と新府城から落ちのびた勝頼一行が立ち寄った大善寺

2019-08-02 | 季節だより
「石和」 山梨県八代郡・県中央・甲府盆地北・甲府市の東・中央に「笛吹川」・地名ー平安時代の石禾郷。
昭和61年ブドウ畑から温泉が湧出。戦国時代の武田氏居館・江戸時代の宿場・鎌倉往還と青梅街道の交通要衝として発展した。
現在は、観光・ブドウ・桃・柿・リンゴ・温泉を利用した錦鯉の生産。

中央高速一の宮ICに近い。



「山梨県立博物館」   大善寺不動明王像画像、縦453cm ~6がつ24日まで公開

                     有料      


「大善寺不動明王画像、修理後寺外八公開」 平安時代の原本ー修理4回、800年以上の文化財を



                 博物館庭園  県笛吹市御坂町成田


「博物館」
「山梨の自然と人」をテーマに、山梨の自然環境と、そこに暮らす人々との関わりの歴史が。
歴史に関する歴史資料を中心に約20万点を収蔵され、常設展示と迫力ある立体模型・衛星写真から地形をイメージ。

                          有料




























「勝沼町」
勝沼には、「釈迦堂遺跡群の文化圏に含まれる集落跡である宮之上遺跡」・甲府盆地東部は古代に仏教文化を先進的に受容した地域、
町域には古代豪族「三枝氏」の氏寺である「大善寺」をはじめとした古刹が分布する。
柏尾山頂の柏尾山経塚は東国では早期の1103年銘をもつ鋳銅製経筒が発見されている「経塚」。
中世に入ると、「勝沼氏居館跡」・石和(笛吹市石和町)に本拠を置いた甲斐国守護・「武田氏」の所領があり、
下岩崎には武田一族の分流で、戦国時代に武田信昌と守護代跡部氏の抗争において滅亡した「岩崎氏の館跡」がある。
町域には戦国期の武家居館である勝沼氏館が所在し、勝沼氏居館と中心とした町割が形成されている。
勝沼氏居館は武田信虎が弟の信友を祖とする親族衆・勝沼氏の居館で、武田氏のが郡内領主の小山田氏を服従させると、郡内地方への目付として
築造された館である岩殿城など。
町域は甲州市塩山の黒川金山に、近年、勝沼氏居館から金の加工に関わる金熔融物付着土器が出土していることも注目。
日川扇状地中心に古くから「ぶどう郷」は広がっている。ぶどう・ワインは日本一の生産。甲州種の発祥地
ぶどうは、アメリカ、デラウェアー甲州種ー巨峰ービオーネ、、順。現在は、桃など果物も盛んに栽培されている。
JR中央本線「勝沼ぶどう郷駅」に近い。

勝沼の「雀宮神社」100段以上の 石段、途中に「芭蕉の句碑」あり。
                       「勝沼や馬士も葡萄をくひなから」ー蓮之の句と云う。
          句は、蓮之の作、芭蕉作として早くから誤伝されてきた碑で、昭和11年建立。

      蓮之は通称松木次郎右衛門ー1731年、松木蓮之は中川宗瑞、長谷川馬光、佐久間長水らと俳諧撰集「五色墨」刊。
                    中興俳諧の先駆的役割を果たし、1734年に蓮之が江戸から甲州に旅をして詠んだ句と云う。
                   
                       「山さとは万歳遅し梅の花」ー故郷の伊賀で詠まれた句云う。
「勝沼の芭蕉塚・芭蕉句碑」
松尾芭蕉は、江戸時代の天和貞享年間2回にわたって甲斐の地を訪れ、勝沼を訪れたかどうかは?。「万福寺」に一時滞在したという言い伝えが。
勝沼町に、7基の芭蕉の句碑が、芭蕉の没後、建立。

「蛤の生ける甲斐あれ年の暮」大善寺・「行駒の麦に慰むやどりかな」力万福寺・「いささらば雪見にころぶ所まで」蓮華寺
「草臥れて宿かる比や藤の花」立正寺・「物云ば唇寒し秋の風」林照寺・「山さとは万歳おそし梅の花」金比羅神社
「勝沼や馬子も葡萄をくひなから」雀宮神社。(勝沼町教育委員会)

            甲州街道・勝沼宿は、江戸から36番目の宿場町
    

                   毘羅神社芭蕉句碑
  

立正寺末「長遠山・上行寺」ー日蓮宗ー

勝沼町誌ーかつては応化山長遠寺というお寺で、1532-1537?、日蓮宗に改宗する際、庚徳山・上行寺に改名。
休息山・立正寺の末寺籍に入る際、旧寺号をとり「長遠山・上行寺」現在に至る。
    

「勝沼氏館跡」- 勝沼氏は、武田信虎(信玄の父)の弟・信友の家系で、武田軍団の御親類衆でしたが、1560年、武田信玄に滅ぼされている。
勝沼氏の館跡は、現在、県立ワインセンターの建設問題がきっかけとなり県教育委員会による調査が始まり、多くの遺物が出土しました。
現在もまだ調査中と云う。

「上行寺北」ー真言宗大善寺末「勝尾山海蔵院」という寺院が。勝沼武田氏の祈願所であったと伝わりる。現在廃寺で、葡萄畑が。
    

「大善寺」-柏尾の新義真言宗智山派の寺。山号ー柏尾山

                     開創ー718年・行基
  

僧行基が甲斐の国を 訪れたとき、勝沼の柏尾にさしかかり、日川の渓谷の大石の上で修行したところ、満願の日、夢の中に、手に葡萄を持った
「薬師如来」が現れ、行基は、
その夢を喜び、早速夢の中に現れたお姿と同じ「薬師如来像」を刻んで、柏尾山大善寺に安置。
行基は薬園をつくって民衆を救い、法薬の葡萄の作り方を村人に教えたので、
この地に葡萄が 栽培されるようになり、これが甲州葡萄の始まりだと 伝えられる。

「大善寺」は、1582年、新府城から落ち延びた「武田勝頼一行」が大善寺に立寄る。
武田勝頼、兄の仇の子息ではあるが快く迎えて(良晴に嫁したのち勝頼の乳母となっていた)。

   寺の薬師堂に勝頼、勝頼夫人、武田信勝を迎えて理慶尼と4名で寝所を供に。 
    

勝頼一行は、この寺で、岩殿城・小山田信茂の裏切りを知り、天目山に変更している。

「理慶尼」  1530-1611
戦国時代の女性。甲斐武田氏の一族勝沼信友の娘。武田晴信(武田信玄)の従妹。
俗名は「松の葉・松葉」勝沼信元、上野原加藤氏の名跡を継いだ加藤信厚の妹。

郡内の「岩殿城」で再興を図ろうと韮崎の新府城を出発し、途中この「柏尾山・大善寺」で戦勝を祈願し、一夜を明かす。
武田家再興がかなわないと見た家臣の大半は、夜半に離散し、また、岩殿城主小山田信茂の裏切りに合い、勝頼主従は「天目山」へ。
織田、徳川の連合軍に行く手を阻まれ、ついに3月11日、勝頼以下一族と家臣は自決し、新羅三郎義光以来500年続いた「甲斐源氏」滅亡。

その一部始終を目撃した「理慶尼」が記したー理慶尼記ーは、
武田滅亡記ともいわれ、尼の住んでいたこの「大善寺」に今なお大切に保管されていると云う。
勝頼の家臣たちは、勝頼を最後まで裏切ることなく守り、戦死しましたが、その子供たちは、後に徳川家康に重用され、
江戸時代には各地の城主に任命され、勝頼の「宿」となった薬師堂にはその子供たちから寄進された文殊菩薩、毘沙門天が今でも安置されている。