【第三講 メディアと「クレイマー」】より
社会的な資源の配分において、あきらかにフェアでないかたちで差別されている人々が「被害者」性を前面に立てて、「被害補償」を「正義の実現」として主張するのは合理的なふるまいです。でも、自力でトラブルを回避できるだけの十分な市民的権利や能力を備えていながら、「資源分配のときに有利になるかも知れないから」とりあえず被害者のような顔をしてみせるというマナーが「ふつうの市民」にまで蔓延したのは、かなり近年になってからのことです。それがいわゆる「クレイマー」というものです。
クレイマー問題が最近、クローズアップされてきた。特に、医療現場、公共交通機関、教育現場においては深刻である。三波さんは「お客様は神様です」と言った。プロ意識を肝に銘じるために自分自身にいい聞かせる言葉としてならいいが、客自体が神様と思ったらいけないだろう。
「世の中の仕組み」というのは、市民社会の基礎的なサービスのほとんどは、もとから自然物のようにそこにあるのではなく、市民たちの集団的な努力の成果として維持されてきているという、ごくごく当たり前のことです。現に身銭を切って、額に汗して支えている人たちがいるからこそ、そこにある。
でも、それを忘れて、「そういうもの」はそこにあって当然であると考える人たちが出てきた。「そういうものが」存在し続けるためには、自分がその身銭を切って、自分の「持ち出し」で市民としての「割り当て」分の努力をしなければならないということをわかっていない人たちが出てきた。それが「クレイマー」になった。
彼らのような未成熟な市民たちが大量に生み出されたことによって、日本の市民社会のインフラの一部は短期間に急速に劣化しました。特に、医療と教育がそうです。どちらも制度的な崩壊の寸前まで来ています。
そして、この医療崩壊、教育崩壊にマスメディアは深く関わり、重大な責任を持っていると内田さんは次の第四講で述べていく。私の場合は現場で、行政サイドの打ち出してくる施策の中に、「クレイマー」を作り出す素地があったのではないかと思っている。たとえば、小学校から公立中学校へ進学する時の校区の弾力化、学校を選択できるという制度の導入。学校教育自己診断というものの導入。
共通するのは、言えば何でもかなえられる。という幻想を持たせること。普通に考えれば、異なる価値観を持つ保護者が集まる公教育の場で、個々の保護者、生徒のニーズに応えるということは不可能である。学校サイドが総合的に検討した結果をもとに、学校が主体的に運営していかないと混乱する。ただ、なぜそうしたのかという説明を求められても、すっきりできない場合もある。
このあたりをマスメディアが、不満を持つ保護者、生徒の代弁者としてつついてくると事態は最悪になる。
私はクラスをスタートさせる時、一人一人が80%の満足を持ち、20%の我慢をするクラスになれば良いと思っている。ある人が100%満足するクラスも、逆に100%我慢するクラスもダメ。8対2のバランス感覚を説明するのはむずかしいが、常に心の中に留めてきた。全面的に我慢する必要はないが、少しは我慢することは集団生活では必要ということかな。
社会的な資源の配分において、あきらかにフェアでないかたちで差別されている人々が「被害者」性を前面に立てて、「被害補償」を「正義の実現」として主張するのは合理的なふるまいです。でも、自力でトラブルを回避できるだけの十分な市民的権利や能力を備えていながら、「資源分配のときに有利になるかも知れないから」とりあえず被害者のような顔をしてみせるというマナーが「ふつうの市民」にまで蔓延したのは、かなり近年になってからのことです。それがいわゆる「クレイマー」というものです。
クレイマー問題が最近、クローズアップされてきた。特に、医療現場、公共交通機関、教育現場においては深刻である。三波さんは「お客様は神様です」と言った。プロ意識を肝に銘じるために自分自身にいい聞かせる言葉としてならいいが、客自体が神様と思ったらいけないだろう。
「世の中の仕組み」というのは、市民社会の基礎的なサービスのほとんどは、もとから自然物のようにそこにあるのではなく、市民たちの集団的な努力の成果として維持されてきているという、ごくごく当たり前のことです。現に身銭を切って、額に汗して支えている人たちがいるからこそ、そこにある。
でも、それを忘れて、「そういうもの」はそこにあって当然であると考える人たちが出てきた。「そういうものが」存在し続けるためには、自分がその身銭を切って、自分の「持ち出し」で市民としての「割り当て」分の努力をしなければならないということをわかっていない人たちが出てきた。それが「クレイマー」になった。
彼らのような未成熟な市民たちが大量に生み出されたことによって、日本の市民社会のインフラの一部は短期間に急速に劣化しました。特に、医療と教育がそうです。どちらも制度的な崩壊の寸前まで来ています。
そして、この医療崩壊、教育崩壊にマスメディアは深く関わり、重大な責任を持っていると内田さんは次の第四講で述べていく。私の場合は現場で、行政サイドの打ち出してくる施策の中に、「クレイマー」を作り出す素地があったのではないかと思っている。たとえば、小学校から公立中学校へ進学する時の校区の弾力化、学校を選択できるという制度の導入。学校教育自己診断というものの導入。
共通するのは、言えば何でもかなえられる。という幻想を持たせること。普通に考えれば、異なる価値観を持つ保護者が集まる公教育の場で、個々の保護者、生徒のニーズに応えるということは不可能である。学校サイドが総合的に検討した結果をもとに、学校が主体的に運営していかないと混乱する。ただ、なぜそうしたのかという説明を求められても、すっきりできない場合もある。
このあたりをマスメディアが、不満を持つ保護者、生徒の代弁者としてつついてくると事態は最悪になる。
私はクラスをスタートさせる時、一人一人が80%の満足を持ち、20%の我慢をするクラスになれば良いと思っている。ある人が100%満足するクラスも、逆に100%我慢するクラスもダメ。8対2のバランス感覚を説明するのはむずかしいが、常に心の中に留めてきた。全面的に我慢する必要はないが、少しは我慢することは集団生活では必要ということかな。