素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

続×3・内田樹著「街場のメディア論」の中の言葉

2010年10月21日 | 日記
【第四講 「正義」の暴走】 より

 小泉純一郎内閣のときににぎやかに導入された「構造改革・規制緩和」政策とは、要するに「市場に委ねれば、すべてうまくゆく」という信憑に基づいたものでした。「市場原理主義」と呼んでもいいし、「グローバーリズム」と呼んでもいい。行政改革にも、医療にも、教育にも、さまざまな分野にこの信憑がゆきわたりました。
 
 すべては「買い手」と「売り手」の間の商品の売り買いの比喩によって考想されねばならない。消費者は自己利益を最大化すべくひたすらエゴイスティックにふるまい、売り手もまた利益を最大化するようにエゴイスティックにふるまう。その結果、両者の利益が均衡するポイントで需給関係は安定する。市場にすべてを委ねれば、「もっとも安価で、もっともクオリティの高いものだけが商品として流通する」理想的な市場が現出する。
 市場は決して選択を誤らない。 というのが「市場原理主義」という考え方でした。

 そのモデルを行政もメディアも、医療にも適用しようとしました。その結果が「できる限り医療行為に協力せず、にもかかわらず最高の医療効果を要求する患者」たちの組織的な出現です。

 この論理に立つと、医療でも教育でも仮借なき批判を向ければ、医療や教育の質は改善され、技術の水準は向上するという定型が出来上がってしまう。メディアは批判の先頭に立つ。

 個人が学校や病院と対立したときに、メディアがとりあえず個人の側に肩入れすることは適切な判断です。けれども、それは理非が決したということは意味しない。理非を決するための中立的でフェアな「裁定の場」を確保したというだけのことです。
 しかし、メディアはいったんある立場を「推定正義」として仮定すると、それが「推定」にすぎないということをすぐに忘れてしまう。「とりあえず」という限定を付した暫定的判断であることを忘れてしまう。
 理非を解明するプロセスで、メディアが推定正義を認めて支援した「弱者」が、実はそれほど正しいわけでもないということが事後的に明らかになったということも当然あったはずです。けれども、そのときにメディアは「私たちの推定は誤りでした」ということを認めない。その話は「もうなかったこと」にして、次の「弱者」支援に話を移してしまう。


 私がよく言っていたことがある。「言葉は人間にとってなくてはならないものである。しかし、言葉は使い方によっては凶器である。」どんなに肝に銘じていても不用意な言葉で傷つけてしまうことがある。そういう時は自分の発した言葉に責任を取り、反省もし、言葉を磨く努力を続けていかなければいけない。失敗を恐れて黙ることもよくないと思っている。

 内田さんも「その発言に最終的に責任を取る個人がいない言葉」=「名無し」が語っている言葉は暴走すると警告を発している。

 メディアの「暴走」というのは、別にとりわけ邪悪なジャーナリストがいるとか、悪辣なデマゴーグにメディアが翻弄されているとかいうのではありません。そこで語られることについて、 最終的な責任を引き受ける生身の個人 がいない、「自立した個人による制御が及んでいない」ことの帰結だと僕は思います。

 

 
コメント
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