「痛快丸かじり!」という感じで読んでいると昨日ふれた「街場のメディア論」。その中からモヤモヤしていた部分を取り去ってくれた言葉を紹介したい。この本は神戸女学院大学で2007年に行なわれた「メディアと知」という題名の大学2年生対象の入門講義のライブ録音をもとに加筆修正してできたものである。第1講から第8講までで構成されている。
【第1講 キャリアは他人のためのもの】より
勤め始めてすぐに仕事を辞める人が口にする理由というのは、「仕事が私の適性に合っていない」「私の能力や個性がここでは発揮できない」「私の努力が正当に評価されない」、だいたいそういうことです。僕はこの考え方そのものが間違っていると思います。仕事っていうのはそういうものじゃないからです。
みなさんの中にもともと備わっている適性とか潜在能力があって、それにジャストフィットする職業を探す、という順番ではないんです。そうではなくて、まず仕事をする。仕事をしているうちに、自分の中にどんな適性や潜在能力があったのかが、だんだんわかってくる。そういうことの順序なんです。
“自分探し”という言葉がよく使われるのだが、それを真剣に語っている若者を見た時のモヤモヤ感。このことにつながっているのだと気づいた。“自分探し”ができないと“仕事探し”ができないというのは違うやろ!ということか。
私の場合、高校2年生の時、定期購読していた月刊誌「高2コース」に適性コンピューター判断というものがあって試しにやってみた。たくさんの質問事項に答えて郵送したのだが、返ってきた結果は“司法関係の仕事”で大学は“私立文科系”が適しているというものだった。理数系の教科が苦手であったデーターを入れれば当然の結果であり、コンピューターは正しいとなる。しかし、生身の私は「そんな仕事には魅力を感じない。やりたいことは千葉大学園芸学部造園学科に入り、庭、公園をつくるか国立公園の管理をすること」と思っていたので、担任の説得にも応じず、3年生では国立理科のコースを選んだ。現実はドラマのようにはいかず、2回受験したが2回とも不合格であった。チャレンジの途中で、苦手だった数学と化学をわからせてくれた魅力的な教師に出会った。そのことで教師という選択肢が加わった。
たまたまの出会いから人生の道が決まっていくということも結構ある。内田さんの言葉を借りると
「天職」というのは就職情報産業の作る適性検査で見つけるものではありません。他者に呼ばれることなんです。中教審が言うように「自己決定」するものではない。「他者に呼び寄せられること」なんです。自分が果たすべき仕事を見出すというのは本質的に受動的な経験なんです。
仕事ができる人。という言い方がよくされるが、その点についても内田さんは鋭くついている。
人間がその才能を爆発的に開花させるのは、「他人のため」に働くときだからです。人の役に立ちたいと願うときにこそ、人間の能力は伸びる。それが「自分のしたいこと」であるかどうか、自分の「適性」に合うことかどうか、そんなことはどうだっていいんです。とにかく「これ、やってください」と懇願されて、他にやってくれそうな人がいないという状況で、「しかたないなあ、私がやるしかないのか」という立場に立ち至ったときに、人間の能力は向上する。ピンポイントで、他ならぬ私が、余人を以っては代え難いものとして、召喚されたという事実が人間を覚醒に導くのです。
「私は幸せ者だ」と思っている。それは節目節目、ポイントポイントで、この人のためならと思える魅力ある人に出会うことができ、その人のことを思いながら仕事ができたからである。その結果、仕事に関して高い評価もいただいた。しかし、ほめ言葉をいただくと気恥ずかしい。たまたま能力を引き出してくれる人に出会っただけのことという思いが強く、刺激がなかったら怠惰な人間ということは自分が一番よく知っているのである。
さらに、仕事をやめた今もなお、眠っている能力を開発してくれる人がいるのである。ありがたいかぎりである。
【第1講 キャリアは他人のためのもの】より
勤め始めてすぐに仕事を辞める人が口にする理由というのは、「仕事が私の適性に合っていない」「私の能力や個性がここでは発揮できない」「私の努力が正当に評価されない」、だいたいそういうことです。僕はこの考え方そのものが間違っていると思います。仕事っていうのはそういうものじゃないからです。
みなさんの中にもともと備わっている適性とか潜在能力があって、それにジャストフィットする職業を探す、という順番ではないんです。そうではなくて、まず仕事をする。仕事をしているうちに、自分の中にどんな適性や潜在能力があったのかが、だんだんわかってくる。そういうことの順序なんです。
“自分探し”という言葉がよく使われるのだが、それを真剣に語っている若者を見た時のモヤモヤ感。このことにつながっているのだと気づいた。“自分探し”ができないと“仕事探し”ができないというのは違うやろ!ということか。
私の場合、高校2年生の時、定期購読していた月刊誌「高2コース」に適性コンピューター判断というものがあって試しにやってみた。たくさんの質問事項に答えて郵送したのだが、返ってきた結果は“司法関係の仕事”で大学は“私立文科系”が適しているというものだった。理数系の教科が苦手であったデーターを入れれば当然の結果であり、コンピューターは正しいとなる。しかし、生身の私は「そんな仕事には魅力を感じない。やりたいことは千葉大学園芸学部造園学科に入り、庭、公園をつくるか国立公園の管理をすること」と思っていたので、担任の説得にも応じず、3年生では国立理科のコースを選んだ。現実はドラマのようにはいかず、2回受験したが2回とも不合格であった。チャレンジの途中で、苦手だった数学と化学をわからせてくれた魅力的な教師に出会った。そのことで教師という選択肢が加わった。
たまたまの出会いから人生の道が決まっていくということも結構ある。内田さんの言葉を借りると
「天職」というのは就職情報産業の作る適性検査で見つけるものではありません。他者に呼ばれることなんです。中教審が言うように「自己決定」するものではない。「他者に呼び寄せられること」なんです。自分が果たすべき仕事を見出すというのは本質的に受動的な経験なんです。
仕事ができる人。という言い方がよくされるが、その点についても内田さんは鋭くついている。
人間がその才能を爆発的に開花させるのは、「他人のため」に働くときだからです。人の役に立ちたいと願うときにこそ、人間の能力は伸びる。それが「自分のしたいこと」であるかどうか、自分の「適性」に合うことかどうか、そんなことはどうだっていいんです。とにかく「これ、やってください」と懇願されて、他にやってくれそうな人がいないという状況で、「しかたないなあ、私がやるしかないのか」という立場に立ち至ったときに、人間の能力は向上する。ピンポイントで、他ならぬ私が、余人を以っては代え難いものとして、召喚されたという事実が人間を覚醒に導くのです。
「私は幸せ者だ」と思っている。それは節目節目、ポイントポイントで、この人のためならと思える魅力ある人に出会うことができ、その人のことを思いながら仕事ができたからである。その結果、仕事に関して高い評価もいただいた。しかし、ほめ言葉をいただくと気恥ずかしい。たまたま能力を引き出してくれる人に出会っただけのことという思いが強く、刺激がなかったら怠惰な人間ということは自分が一番よく知っているのである。
さらに、仕事をやめた今もなお、眠っている能力を開発してくれる人がいるのである。ありがたいかぎりである。