素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

「東風吹かば匂い起こせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」

2015年03月04日 | 日記
 ご近所のしだれ梅の開花とともに「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」という詩句や見頃を迎えたと写真とともに紹介してきた。このしだれ梅の話題は私にとっては毎年の定番になっている。今日、回覧板を見て驚いた。このしだれ梅の家の住人であるYさんが1月中旬に亡くなっていたという訃報である。自治会の役員によれば入院されたまでは聞いていたが、一人暮らしであったためその後の様子は分からずにいた。先日、御子息の出入りの様子が気になってお伺いしたところ1月に病院で亡くなってそのまま家族葬をして自治会の方には知らせなかったとのこと。

 四十九日の法要のため集まった所を近所の人が役員に知らせてわかったという。私は勝手にしだれ梅を鑑賞させてもらっていただけであったが、私の隣家や向かいの奥さんは交流があったようでショックを受けていた。

 今までと違って通るたびに雨戸が閉まっていることに「?」という思いはあった。亡くなっていたと聞いて、真っ先に口をついたのが 「東風吹かば匂い起こせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」という道真の有名な歌である。「春は忘れていなかったのだな」と数日前とは見え方が違うから不思議なものである。
 

 長田弘さんの詩「アメイジング・ツリー」も想起した。

おおきな樹があった。樹は、
雨の子どもだ。父は日光だった。
樹は、葉をつけ、花をつけ、実をつけた。
樹上には空が、樹下には静かな影があった。
樹は、話すことができた。話せるのは
沈黙のことばだ。そのことばは
太い幹と、春秋でできていて、
無数の小枝と、星霜でできていた。
樹はどこへもゆかない。どんな時代も
そこにいる。そこに樹があれば、そこに
水があり、笑い声と、あたたかな闇がある。
突風が走ってきて、去っていった。
夕日が樹に、矢のように突き刺さった。
鳥たちがかえってくると、夜が深くなった。
そして朝、一日が永遠のようにはじまるのだ。
象と水牛がやってきて、去っていった。
悲しい人たちがやってきて、去っていった。
この世で、人はほんの短い時間を、
土の上で過ごすだけにすぎない。
仕事して、愛して、眠って、
ひょいと、ある日、姿を消すのだ。
人は、おおきな樹のなかに。
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