戦後70年という節目の年を迎えた。人間としての記憶は5歳ぐらいからあると考えると現在75歳前後以上の方は直接、戦争というものに何らかの形で巻き込まれた記憶を有している。80代の人は多感な時期を戦渦に巻き込まれて生きてきた。90歳以上は兵役を経験しているひとが大多数である。
私は昭和26年生まれ、記憶にあるのは昭和30年前後からである。それ以前の父母、祖父母、叔父叔母の人生の歩みは知らない。その記憶のギャップについては前に書いたことがある。
25日の夜、昼間ジムに行っていた時間に父から電話があったことに着信履歴を見て気がついた。父からの電話は珍しいうえに明日は昼前には到着すると伝えてあったので「何か緊急事態が起こったか!?」と緊張した。すぐに電話をして昼間気がつかなかったことを詫びて用件をたずねた。私の気配を察したのか父親は照れたように「大したことではないのだが」と切り出した。
文藝春秋が戦後70年企画で「太平洋戦争の肉声」という臨時増刊を文春MOOKで出している。 第1巻は「開戦百日の栄光 」、第2巻は「悲風の大決戦 」、 第3巻は「 特攻と原爆」、 第4巻は「テロと陰謀の昭和史 」と4冊あり、第3巻を読みたいので本屋に頼んでいたら第4巻を間違って持ってきた。母親に言わせれば「間違いやから第3巻に替えてほしい」と返せばいいのに、黙って受け取ってしまい後悔している。情けないとなる。
それで、明日志摩に来る途中で本屋があったら第3巻を探して買ってきてほしい。ということ。少し、拍子抜けをしたが、この雑誌に限らず戦争を扱った小説はほとんど読んだのではと思われるほどである。何を思い読んでいるのかを聞いたことはないが戦後70年、父の中には戦争へのこだわりがずっとあることだけは確かである。
101歳で亡くなった叔母のお母さんと私が初めて会ったのは小学校の5年ぐらいだったと思う。どういういきさつかは忘れたが志摩の土産を持って、叔父と一緒にフィアンセの家に行くという大役を仰せつかったのである。初めてのおつかいという緊張した気分は覚えている。和服姿で凛として上品な言葉遣いに別世界に来たという思いであった。私が預かったお土産が数匹のナマコで、台所で悲鳴が上がり一家大騒動となったことも当時の私は理解できなかった。当時は真珠関連の事業をされていてとてもリッチな印象があった。初対面の印象が強烈で、叔母さんのことを良家のお嬢様だとずっと思ってきた。
しかし、そうではなかったということが今回の法要に出席してわかった。梅香寺で納骨のための読経と焼香をすませ、墓に出向く前に長男の方から挨拶があった。叔母の両親は大分県に生まれ、そこで結婚をして長女にあたる叔母と挨拶をしている長男が小学生の時に満州に移ったという。満州の大連で妹と弟が生まれ、一家6人で生活が軌道に乗り始めて来た時に終戦となり、一晩にしてロシア軍に街を包囲され、大混乱の中を九死に一生の思いで日本に戻ることができたという。親戚をたよって伊勢に身を寄せた。長男は小学校5年、叔母は女学校に通学したが、伊勢の言葉を喋ることができないためにからかわれ、疎外感を味わったという。
叔母やそのお母さんから感じる芯の強さは、語ることはなかったがそのあたりの体験があってのことだと聞いていて初めてわかった。お墓に納骨を済ませた後、みんなで昼食をとったが、隣に座った叔母が「これでやっと一区切りがついた」という言葉には万感の思いがこもっていた。
聞くと、30年余り暮らした松山の家を処分して、神戸の方で終の棲家を構えるとのこと。3人の子供が広島、東京、三重で居を構えているので10年後を見据えると松山にいても意味がないと考えたらしい。新幹線と名神という幹線交通網を考えたとき神戸がベストだという結論に達したらしい。
ケア付きの分譲マンションで東南海地震の津波も考え10階の部屋を購入したらしい。引越しをしたら参考のために見学させてもらおうと思っている。一寸先は闇と言われている世の中であるが、それでも布石をきちっと打っていく大切さを考えさせられた。
叔父叔母の末っ子が松山東高校を出ているので、センバツの話題でも盛り上がった。叔母は香里園から松山に引っ越したばかりの頃は大阪の高校を応援していたが今やすっかり愛媛贔屓になりましたと笑っていた。私が昨夏、三重高校と大阪桐蔭の決勝の時、複雑な心持ちになったという話をした。18年住んだ三重県か40年近く暮らしている大阪府のどちらが自分にとっての「ふるさと」なんだ?ということである。叔父も「なんとなくわかる」と同意してくれた。「わしも伊勢には18年しか住んでないからな」とふるさと論のようなものになった。「ふるさと、ふるさと」と強調するのはいかがなものかということになった。『人間到る処に青山あり』という心持ちで生きていけば良い。聞いていた叔母は「私にはふるさとがないんだ」とつぶやいた。大分から満州、引き揚げて伊勢で7年、その後結婚して石川、京都、大阪、愛媛と叔父の仕事の関係で移り住んで来たという。一番長いのが愛媛の30年余り。だから今度の神戸行きも抵抗がなくむしろ楽しみという。
墓の問題が全国的に起こっているのも時代の区切り目を迎えたということかと昨日、今日と話をしながら強く感じた。
私は昭和26年生まれ、記憶にあるのは昭和30年前後からである。それ以前の父母、祖父母、叔父叔母の人生の歩みは知らない。その記憶のギャップについては前に書いたことがある。
25日の夜、昼間ジムに行っていた時間に父から電話があったことに着信履歴を見て気がついた。父からの電話は珍しいうえに明日は昼前には到着すると伝えてあったので「何か緊急事態が起こったか!?」と緊張した。すぐに電話をして昼間気がつかなかったことを詫びて用件をたずねた。私の気配を察したのか父親は照れたように「大したことではないのだが」と切り出した。
文藝春秋が戦後70年企画で「太平洋戦争の肉声」という臨時増刊を文春MOOKで出している。 第1巻は「開戦百日の栄光 」、第2巻は「悲風の大決戦 」、 第3巻は「 特攻と原爆」、 第4巻は「テロと陰謀の昭和史 」と4冊あり、第3巻を読みたいので本屋に頼んでいたら第4巻を間違って持ってきた。母親に言わせれば「間違いやから第3巻に替えてほしい」と返せばいいのに、黙って受け取ってしまい後悔している。情けないとなる。
それで、明日志摩に来る途中で本屋があったら第3巻を探して買ってきてほしい。ということ。少し、拍子抜けをしたが、この雑誌に限らず戦争を扱った小説はほとんど読んだのではと思われるほどである。何を思い読んでいるのかを聞いたことはないが戦後70年、父の中には戦争へのこだわりがずっとあることだけは確かである。
101歳で亡くなった叔母のお母さんと私が初めて会ったのは小学校の5年ぐらいだったと思う。どういういきさつかは忘れたが志摩の土産を持って、叔父と一緒にフィアンセの家に行くという大役を仰せつかったのである。初めてのおつかいという緊張した気分は覚えている。和服姿で凛として上品な言葉遣いに別世界に来たという思いであった。私が預かったお土産が数匹のナマコで、台所で悲鳴が上がり一家大騒動となったことも当時の私は理解できなかった。当時は真珠関連の事業をされていてとてもリッチな印象があった。初対面の印象が強烈で、叔母さんのことを良家のお嬢様だとずっと思ってきた。
しかし、そうではなかったということが今回の法要に出席してわかった。梅香寺で納骨のための読経と焼香をすませ、墓に出向く前に長男の方から挨拶があった。叔母の両親は大分県に生まれ、そこで結婚をして長女にあたる叔母と挨拶をしている長男が小学生の時に満州に移ったという。満州の大連で妹と弟が生まれ、一家6人で生活が軌道に乗り始めて来た時に終戦となり、一晩にしてロシア軍に街を包囲され、大混乱の中を九死に一生の思いで日本に戻ることができたという。親戚をたよって伊勢に身を寄せた。長男は小学校5年、叔母は女学校に通学したが、伊勢の言葉を喋ることができないためにからかわれ、疎外感を味わったという。
叔母やそのお母さんから感じる芯の強さは、語ることはなかったがそのあたりの体験があってのことだと聞いていて初めてわかった。お墓に納骨を済ませた後、みんなで昼食をとったが、隣に座った叔母が「これでやっと一区切りがついた」という言葉には万感の思いがこもっていた。
聞くと、30年余り暮らした松山の家を処分して、神戸の方で終の棲家を構えるとのこと。3人の子供が広島、東京、三重で居を構えているので10年後を見据えると松山にいても意味がないと考えたらしい。新幹線と名神という幹線交通網を考えたとき神戸がベストだという結論に達したらしい。
ケア付きの分譲マンションで東南海地震の津波も考え10階の部屋を購入したらしい。引越しをしたら参考のために見学させてもらおうと思っている。一寸先は闇と言われている世の中であるが、それでも布石をきちっと打っていく大切さを考えさせられた。
叔父叔母の末っ子が松山東高校を出ているので、センバツの話題でも盛り上がった。叔母は香里園から松山に引っ越したばかりの頃は大阪の高校を応援していたが今やすっかり愛媛贔屓になりましたと笑っていた。私が昨夏、三重高校と大阪桐蔭の決勝の時、複雑な心持ちになったという話をした。18年住んだ三重県か40年近く暮らしている大阪府のどちらが自分にとっての「ふるさと」なんだ?ということである。叔父も「なんとなくわかる」と同意してくれた。「わしも伊勢には18年しか住んでないからな」とふるさと論のようなものになった。「ふるさと、ふるさと」と強調するのはいかがなものかということになった。『人間到る処に青山あり』という心持ちで生きていけば良い。聞いていた叔母は「私にはふるさとがないんだ」とつぶやいた。大分から満州、引き揚げて伊勢で7年、その後結婚して石川、京都、大阪、愛媛と叔父の仕事の関係で移り住んで来たという。一番長いのが愛媛の30年余り。だから今度の神戸行きも抵抗がなくむしろ楽しみという。
墓の問題が全国的に起こっているのも時代の区切り目を迎えたということかと昨日、今日と話をしながら強く感じた。