素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

今夜の「歴史秘話ヒストリア」は女医第1号・荻野吟子さんであった

2013年11月20日 | 日記
 幕末から明治にかけて、男社会と言われている中で、女性の社会的進出を切り拓いていった女性の生き様には関心がある。荻野吟子さんなる人物は今夜の「歴史秘話ヒストリア」を見るまでは知らなかった。この番組は時々クリーンヒットをとばしてくれる。”女医第一号”というサブタイトルから想像していたよりもずっと中身の濃いものであった。

1851年(嘉永4年) - 武蔵国幡羅郡(はたらぐん)俵瀬(たわらせ)村に、代々苗字帯刀を許された名主の荻野綾三郎、嘉与の五女(末娘)として生をうける。
1867年(慶応3年) - 望まれて武蔵国北埼玉郡上川上村(現在の熊谷市上川上)の名主の長男稲村貫一郎と結婚。
1870年(明治3年) - 夫からうつされた淋病がもとで離婚。上京し順天堂医院に入院し婦人科治療をうけるが、そのとき治療にあたった医師がすべて男性で、男性医師に下半身を晒して診察される屈辱的な体験から、女医となって同じ羞恥に苦しむ女性たちを救いたいという決意により、女医を志す。
1873年(明治6年) - 上京し、国学者で皇漢医の井上頼圀(よりくに)に師事。頼圀より後妻に望まれる。
1874年(明治7年) - 甲府の内藤満寿子の私塾の教師となる。
1875年(明治8年) - 東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)の一期生として入学。
1879年(明治12年) - 首席で卒業。同学校の永井久一郎教授紹介により軍医監で子爵の石黒忠悳(ただのり)に女医の必要性を説き、石黒を介して、典薬寮出身で侍医の高階経徳が経営する下谷練塀町(現在の秋葉原)の私立医学校・好寿院に特別に入学を許される。男子学生に混じり様々ないじめや苦労の艱難辛苦を舐めつつ3年間で優秀な成績で修了する。しかし、女性であることより、東京府に医術開業試験願を提出したが却下、翌年も同様であった。つづいて埼玉県にも提出したが同じ結果だった。
1884年(明治17年) - 医術開業試験前期試験を他の女性3人と受験、吟子1人のみ合格。
1885年(明治18年) - 後期試験を受験し合格。同年5月、湯島に診療所「産婦人科荻野医院」を開業。34歳にして、近代日本初の公許女医となる。女医を志して 15年が経過していた。吟子のことは新聞や雑誌で「女医第一号」として大きく扱われる。診療所は、繁盛し場所が手狭なため、翌年下谷に移転する。
1886年(明治19年) - 海老名弾正から『日本開化小史』の著書で有名な田口卯吉らとともにキリスト教の洗礼を受ける。キリスト教婦人矯風会にも参加し、その風俗部長に就任するとともに、廃娼運動にも取り組む。
1888年(明治21年) - 大日本婦人衛生会幹事。
1890年(明治23年) - 39歳の時、13歳年下の同志社の学生で、新島襄から洗礼を受け敬虔なキリスト教徒だった志方之善と周囲の反対を押し切り再婚する。
 
キリスト教や理想社会を求める互いの熱意に共感し合って幸せな新婚生活であったのも束の間、夫の之善はキリスト教徒の理想郷をつくるという信念から北海道へ渡る決意を吟子に告げる。

1891年(明治24年) - 之善は利別原野開拓のために単身で渡道する。
1892年(明治25年) - 翌年いったん戻ったが再び渡道。吟子も診療所をたたみ、数年おくれて之善のいるイマヌエル(今金町)へ渡った。北海道の密林と原野を開拓して理想郷を創造するというこの仕事は、実際には困難を極めた。さまざまな経緯はあるが、結果的には之善の試みは挫折に終る。吟子は海辺の瀬棚に移転して合津町で診療所を開業する。国縫のマンガン鉱の開発にも失敗した之善は、京都の同志社へ再入学、卒業して牧師として北海道浦河教会に赴任した。
1905年(明治38年) - 之善は無理がたたって敗残の思いの中、病死。吟子はその後も 3年間瀬棚で過ごす。
1908年(明治41年) - 帰京、本所区小梅町に医院を開業し晩年を送る。
1913年(大正2年) - 肋膜炎にかかり、ついで脳動脈硬化により逝去した。62歳。


 人として生まれ、人として自分の心に忠実に生きた人だと思った。特に、医術開業試験の受験を「前例がない」ということで拒否され続けた5年間のことを思うと胸が締め付けられる。「~である」というだけで判断されることほど理不尽なことはない。万策尽きかけた時、発想を変え、その役人の前例主義を逆手にとって、833年に淳和天皇の勅により右大臣清原夏野を総裁として、文章博士菅原清公ら12人によって撰集された令の解説書『令義解』という本に、日本でも古代から女医らしい者があったことを突きとめ、このことを強調し請願をした下りは一番印象に残った。

 こういう番組を見た後は元気が出る。
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動物との共生

2013年11月19日 | 日記
 中禅寺湖、華厳滝の帰り道、いろは坂を下っていると「アッ鹿や!」の声、見ると鹿が一頭道路近くの斜面で草を食べている所だった。ヘアピンカーブの連続なだけにすぐに見えなくなった。見たの見逃したのとちょっとした賑わいになった。すると私の後ろの女性がボソッと「鹿なんか奈良公園に行ったら、見たくないと思っても見ることができるのに」とつぶやいた。

 そこから、ひとしきり鹿談義になった。今の鹿も他所からの観光客から見れば「かわいい」で」済まされるが、地元の人たちにとっては深刻な被害をもたらすものとして見えるかもしれない。山ひとつ向こうの尾瀬でも鹿による植物の生態系破壊が近年問題になって来ていると聞く。ボソッと言った女性は法隆寺の近くにお住いの方で、奈良公園の鹿の交通事故が激増しているということを嘆いておられた。

 「罪は人間にあるか動物にあるか」という問いが浮かぶのだが、やはり人間の身勝手さが招いたと言わざるを得ない。今日の埴沙萠(はに しゃぼう)さんの絵日記の中の言葉は味わい深い。

裏山のコナラも黄葉していますが、もう枯れ色になりはじめています。今年は紅葉が
きれいで無い・・・などとヒトはかってなコト言っていますが、木は、今年の四季の
環境に応じた生活をしているんですよね。


 動物も同じ、人間の都合でいじってきた環境に応じた生活をしているに過ぎない。添乗員の方が「日光の猿が凶暴になっているので気をつけてほしい」と話を継いだ。観光客が無責任に餌をあげることが積り重なって餌付けをしてしまったのが原因らしい。奈良公園の鹿がものすごい勢いで迫ってくるのと同じこと。知恵がある分性質が悪い。同様のことが知床半島のヒグマでも起こりつつある。

 また身近な所では公園に住みついている野良猫への餌やりも問題化している。イノシシや猿による農作物の被害は年々増えて深刻になっていると報じられている。

 動物との共生について真剣に考えないといけない時代となった。
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デジブック 『北陸回り日光東照宮へ』をつくる

2013年11月18日 | 日記
輪王寺のお坊さんから風水や陰陽道と江戸、日光東照宮の関係についての話があった。平安京と比叡山延暦寺、大阪城と石清水八幡宮など鬼門を封じるというのは古くから建物や町を造る時に重きを置かれてきた。

 徳川家康から家光まで三代の将軍仕え、江戸の都市計画から日光東照宮の造営まで行ったのが天海僧正で、もともと風水的には地勢の良くなかった江戸を平安京を凌駕するほどの風水都市に仕立て上げたと言われている。

 話によると、」江戸城の鬼門に当たる上野には、東叡山寛永寺が置かれ、反対の裏鬼門には目黒不動が配された。平安京の鬼門を守護するのは比叡山、それに対して江戸城の鬼門を封じるのは、東にある比叡山で東叡山となる。

 日光東照宮も天海によって造営されている。「東照」とは、「東の天照大神」という意味で、比叡山と東叡山との関係と同じく、朝廷の守り神である天照大神に習い、家康を東国の天照として神格化したものである。

 どんでん返しの連続であった長い戦国時代を最後の最後で勝ち抜いた徳川家の威信をかけた地盤固めが日光東照宮造営であった。ということが境内を歩いているとビンビン伝わってきた。

 デジブック 『北陸回り日光東照宮へ』
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デジブック 『北陸回り草津・鬼怒川』をつくる

2013年11月17日 | 日記
 今朝のニュースで、この時期の日照時間の長さについての話を、気象予報士の南さんがしていた。私は沖縄と思ったが外れた。アナウンサー2人も外していた。トップは平均6.2時間の群馬県の前橋であった。上位のほとんどは関東地方が占めていた。理由は関東地方には高い山が多く、日本海側からの雲をさえぎるためだそうで、西日本の山は関東よりも標高が低いため雲が入りやすいため日照時間が短い。

 今回の旅行を通じて、一番体感したのが標高の高さだったのですごく納得した。関西で初雪でよくニュースになる氷ノ山でさえ標高は1510m。中国地方では大山(1729m)に次ぐ2番目の高さである。それに対して、今回の旅行で通った長野県上田市と群馬県嬬恋村の境にある鳥居峠の標高は1362m、群馬県片品村と栃木県日光市の境にある金精峠は標高2024m、その下を抜いている金精トンネルが1840mと一回り違う。

 標高の違いを車窓からの景色で実感できた。短時間に秋、晩秋、初冬、真冬ときっちり分かれていった。もう一度、地図を見ながらルートを確認するのも旅の後の楽しみ。やたらと山の高さに目がいった。デじブック作りも旅を振り返る楽しみの一つ。予習よりも復習重視。今回は1日目は99%が移動だったので、車窓からの景色を写真に撮るということを退屈しのぎのために心に決めた。瞬間勝負の面もあるので結構緊張感を持ってのバス旅になった。景色も予想以上に変化に富んだ。

デジブック 『北陸回り草津・鬼怒川』
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只今、サンダーバードで大阪へ

2013年11月16日 | 日記
ツアー最終日は紅葉の日光東照宮から。陽明門は修復中でしたが充分、徳川家の威光は感じることができた。全ての修復が終わるのは東京オリンピックの年。長生きしようとなった。
最後の観光はわたらせ渓谷鉄道での25分のローカル列車の旅。わたらせ渓谷の景色は一見の価値あり。その後は金沢駅を目指してひたすら走る。約6時間で到着。着いた時はホッと一息。
この列車、大阪駅には22時30分の到着予定。フルに時間を使うことになった。
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