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旅行記、世相独言

リド島のローストチキン -ヴェネチア- (異文化体験28 イタリア満喫の旅5)

2013年02月17日 17時43分52秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

リド島のローストチキン -ヴェネチア- 1996.04.30

 昨日の午後はハウスワインのお蔭で全く観光が出来なかった。その分、今日は忙しい。ホテルのセミスィートの部屋で今日の予定を立てていざ出発。
 9時のドゥカーレ宮殿開館を待つ間、サン・マルコ広場周辺を散策する。Palazzo Ducaleは総督の宮殿のこと。

 ホテルの部屋で今日の予定を打合せ

   
(左)サンマルコ広場(Wikipediaより、1730 カナレット作) (右)修復の続くサンマルコ寺院を背景に

 9世紀にエジプトから運ばれたマルコの遺体を収めるために建てられたサン・マルコ寺院は大規模修復が続いている。寺院右手のドゥカーレ宮殿も同じく9世紀に当時のヴェネチア共和国政庁として建造された。ティントレットのParadisoのある2階大評議員会議室から階段を降りると、この橋を渡った囚人は二度とこの世に戻れないと言われた有名な「溜め息の橋」に出る。

小広場の柱(サンマルコの獅子の彫像と聖テオドーロの彫像)

     
(左)後方は「溜め息の橋」   (右)囚人が二度とこの世に戻れないと嘆いた「溜め息の橋」の中

 地下牢から再び広場に出て、鐘楼に上る。何度か崩壊したようだが、ここからの眺めは最高である。迷路のような路地を建物角の標識を頼りに再びカナル・グランデ、リアルト橋まで散策する。

  鐘楼から見た寺院のクーポラ

 鐘楼から見たヴェネチアの風景


 425年がヴェネチア誕生の年と言われる。フン族の侵攻を避けるため本土住民が干潟に移り住んだ年だそうな。昔は首都がリド島のマラモッコにあったが、813年防衛の容易なリアルトに移し、これが今日のヴェネチアの起源と言われている。それにしても、この街の下には何百万本、いや何千万本もの松杭が打ち込まれ、これらの巨大な石造建造物を支えているとは信じがたい話である。

   
(左)海から見た広場とドゥカーレ宮殿(Wikipedia、1730カナレット作(右)リド島へのボートから見た広場(1730と同じ景色)


 ヴェネチアンガラスで有名な島はムラーノ島であるが、今回は「ベニスに死す」の舞台リド島に行くことに。ホテルに戻ってホテル専用ボートで送って貰う。長さ12kmの細長い島である。国際リゾート地としてヴェネチア国際映画祭もここで開催される他、カジノ等がある。リド島一のホテル・エクセルシオールの長く続くプライベートビーチにはこの季節人影も見えず、風も強い。

      

  
 リド島 ホテル・エクセルシオール(ヴェネツィア映画祭会場)のプライベートビーチで

 町の方に歩いていくと、なにやら大きなワゴン車に人だかり。何だろうと近づくとローストチキンの販売に地元の人たちが列をなしている。見るからに美味しそうな黄金色のローストチキンが大きなオーブンの中でまわっている。皆さん、一羽丸ごと買っていくので順番待ちにも結構時間を要しているようだ。

 しかし、待つだけのことはありそうな美味しそうなこんがり焼かれたチキン。我々もお腹が減ってきた頃なので、昼食はこれ!と決めて列に並ぶ。地元の人たちが、やや不思議そうに我々の方を見ている。皆さん、結構細かく注文の指示を出していることもあって、時間がかかる。前のおばさんが何か話しかけてきてくれるのだが、早口のイタリア語ではよく分からない。何度かのやり取りでどうやら日本から来た観光客だと理解してくれたようだ。

(イメージ写真です)

 そうすると、このおばさん大声でチキン屋に何か言っている。チキン屋が今度は我々の方に向かって何か叫んでいる。どうも、周りの状況から「遠いところから来ているのだから先にしてあげて!」と言ってくれて、チキン屋が我々に注文を聞いていると理解できた。ハーフカット、と言っても結構な大きさだが、地元の皆さんの温かい理解と協力でほっかほっかのローストチキンを手にすることが出来た。

 浜辺に腰掛けてジューシーな温かいチキンという予想外な昼食を取り、公園に出ている様々な露店を覘いてまわる内にホテルボートの迎えの時間が。

ヴェネチアの思い出を携えてホテルボートでサンタ・ルチア駅へ

 ホテルに戻り預けた荷物を受け取って、今度はサンタ・ルチア駅までホテルボートで送って貰う。ヴェネチアからはインターシテイで花の都フィレンツェへ。
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ハウスワインにご注意! - ヴェネチア - (異文化体験28 イタリア満喫の旅4)

2013年02月11日 00時19分22秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

ハウスワインにご注意! - ヴェネチア - 1996.04.29~04.30

 空から見たヴェネツィア(Wikipediaより)

 午前9時過ぎにミラノ中央駅を出発するヴェネチア行きインターシテイのコンパートメントは我々夫婦だけ。駅で買ったサンドウィッチとジュースを食べながらの1時間半の電車の旅。サンタ・ルチア駅からは水上バスでサンマルコ広場へ。

  
(左)ミラノ中央駅からICでヴェネチアへ。1時間半の電車の旅   (右)コンパートメント

 当地のホテルはホテル・オイローパ&レジーナ。チェックインには早過ぎる時間帯ではあるが、特別にセミスィートのカラフルな部屋に案内される。荷物を置いて早速ヴェネチア見物へ。

      
  ホテル・オイローパ&レジーナ              ホテルのカナル・サイド専用ボート乗り場


 まるで街全体がテーマパークのような雰囲気に女房殿も大いに感動。サンマルコ広場からリアルト橋に向けて辻々の標識を見ながら路地を進む。2月から3月にかけて開かれたカルネヴァーレの名残がお店の店頭に残っている。

  リアルト橋に向かう路地の商店にて

カナル・グランデのほぼ中間地点にあるリアルト橋まで来ると丁度お昼時。いつものことながらこの界隈は一際賑わいが増し、どのお店も結構満杯である。

  カナル・グランデに架かるリアルト橋

  
                  リアルト橋近くのオステリアで昼食(HPより)

 橋の袂近くのカナルを見渡せるお店に入り、魚介類のリゾットやパスタを注文。飲み物は小奇麗なデカンターが目に留まったのでハウスワインを注文する。

 食事の合間も時たま行き交うゴンドラからゴンドリエーレ(漕ぎ手)の歌声が耳に飛び込んでくる。女房殿も口当たりの良いワインに食事も進み、デカンターのワインも残りわずかに。たっぷり昼食の時間をお店で過ごし、デカンター最後のワインを空けてお店を出る。

 さて、これからどこへ行こうか? とリアルト橋の上で問いかけるも女房殿の様子はややハイの状態に。陽気になってくれるのは良いが、それもひと時の間。
 しばらくすると頭が痛いと言い出したので、しからばとホテルに戻ることに。。。

  
(左)ゴンドリエーレの歌声が響き渡る (右)昼食後リアルト橋の上で。この時はまだハウスワインに上機嫌。。。


 女房殿が出歩けるようになったのは、暗くなってから。「サンマルコ広場のカフェでコーヒーでも飲もうか」とカサノヴァで有名なカフェ・フローリアンに向かう。小雨が降ったようで路面が濡れている。まだまだ4月の夜では気温もぐっと下がり、店頭広場の楽団は演奏しているもののテラスの客はまばら。

 4月の夜は人影もまばらなカフェ・フローリアン

 しばらく外にいるとじんわり寒さが身を包み、結局、広場界隈を散策してホテルに戻る。

  夜のホテル・オイローパ&レジーナ              

 昔、ある大手商社の駐在員氏が、「ハウスワインにはご用心! 飲み過ぎると悪酔いするからね」と言っていたのを思い出したヴェネチアの初日であった。


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湖水地方の休日 ― コモ湖 ― (異文化体験28 イタリア満喫の旅3)

2013年02月03日 18時10分37秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

湖水地方の休日 ― コモ湖 ― 1996.04.28

 コモ湖へ出発前のひと時 ホテル・ラウンジで

 コモ湖はミラノの北50km、アルプスの南山麓に位置する人型をした湖。マッジョーレ湖やオルタ湖、ルガノ湖などと共に湖水地方と呼ばれている。そんな中でコモ湖は周囲が切り立った高い山々に囲まれ、最大水深420mとヨーロッパ最深の湖。湖畔のコモの街へは、ミラノ中央駅から電車で約45分で到着する。

  ミラノ中央駅からコモまで電車で約45分

 コモのカヴール広場にある桟橋から様々な遊覧船が出ている。我々は、とりあえず人型をした湖の付け根に位置する北イタリア最高級リゾート地ベッラージオまでの往復チケットを購入する。
 早春の湖上は、少し肌寒いが、時折顔を出す日差しが身体を暖めてくれる。湖畔のあちこちに豪華なヴィラが見える。18~19世紀にかけて欧州の王室や富豪が競って建てた名残だそうな。古くはシーザーやアウグストゥスらのローマ貴族にも愛されたようだ。

    
(左)コモの街を離れると左丘陵に大きな断層が見える (右)富豪が競って建てた絵のような別荘

 急ぎ旅の人には水中翼船も

 進行方向左岸に1年前に訪れて昼食を取った16世紀のビッラ・デステ(現在、チェルノッビオの最高級ホテル)も見える。

 ホテル棟右横の階段状のガーデンが見事 湖上にプールも併設

 1時間少々の舟遊びの間にスケッチをしようとスケッチブックを取り出すものの、初心者には景色が変わる早さについて行けず、結局写真を撮って後から描くことにした。


               

(左)写真中央の突端が「人」形のコモ湖の付け根のベッラージオ (右)ベッラージオの街、コート・ダ・デュールのエズ村の感じ

 ベッラージオで下船し、岬の周辺をそぞろ歩きする。集落の間をぬうように細い道が丘の上に伸びて、湖と共に生活する人々の息遣いが感じられる。

  岬の突端のレストランの屋外席で昼食

    
                      コモ湖の恵みの熱々フリットをレモン汁と塩で!
   
 丁度、お昼時でもある。岬の突端にある気軽に入れるレストランで昼食を取ることにした。レストランと言ってもこの時期、そんなに観光客もおらず、我々が2組目である。お奨めは「コモ湖の小魚のフライ」と「小海老とイカのフライ」だというので、じゃあ、それ! アツアツのフリットをレモン汁と塩で食べるのだが、これが結構いける。お腹が空いていたせいでもあろうか?

     
(左)以前登った市街を見下ろすブルナーテ山とケーブルカー 眺望はいまいち (右)コモの街を湖上から

       
 (左)船着場付近のコモの街                  (右)コモの街並み

 湖とアルプス山麓の景色を堪能して、コモの街に戻る。この頃にはお日様も常時顔を出し、コモの街も観光客で賑わっている。コモ周辺でブランドもののスカーフが作られているが、全く同じ品質のブランド無しスカーフが非常に安く手に入る(1枚千円)というので、お土産にする人が多い。


    
         ミラノの惣菜屋といえば「Peck ペック」 この後、日本にも進出 

 ミラノ中央駅に戻り、ドゥオーモ近くのペック(Peck)で夕食後、ドゥオーモ広場近辺を散策していると、サッカーが終わったのか、熱い賑やかなACミランのサポーターの集団が広場を占拠し始める。バイクに乗って応援旗を振りまわしながら広場に乱入してくる。この調子ではどうも負けたようだ。

 ドゥオーモ広場に集結するサポーター達。どうも負け試合?

 君子危うきに近寄らず。ホテルに戻る。


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ペーパームーン - ミラノ ― (異文化体験28 イタリア満喫の旅2)

2013年01月24日 16時31分21秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

ペーパームーン - ミラノ ― 1996.04.26~04.29

 プリンシペ・ディ・サヴォイアホテル。昔、私の数部屋先にモナコ皇太子も宿泊。

 午前11時45分成田発JL419便はミラノへの直行便、夕刻マルペンサ空港に到着する。今までEU圏からミラノ入りしていた小生はリナーテ空港しか知らない。リムジンバスでミラノ中央駅まで行き、三日後(29日)のヴェネチア行き列車の指定券を購入してからタクシーでホテル「プリンシペ・ディ・サヴォイア」に向かう。久々のホテルスタッフとの再会である。夕食は歩いて懐かしの「遠藤」へ。女房殿は何でミラノまで来て日本食?と不満である。

    
(左)ミラノ初の夕食は「遠藤」。世界ガス会議時、随分通ったお店。 (右)市内見物前のホテル・テラスにて

 
 27日は朝から生憎の小雨模様。今日はゆっくり市内観光する予定で、まずは「最後の晩餐」鑑賞に。サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会までホテルがベンツで送ってくれる。

        
(左)サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 (右)「最後の晩餐」(Bonechi Edizioni IL TURISMOより)

 キリストの「汝らの一人、我を売らん」という瞬間を描いた名画は戦禍を免れ修道院の食堂から見つかったが、長年修復中であり小生は2度目の再会である。


         
  (左)スフォルツェスコ城                  (右)お城の中

 教会を出る頃には小雨も上がり、スフォルツェスコ城に向かう。欧州の各都市は、その観光スポットが旧市街地にあり徒歩で観光出来る点が良い。15世紀のお城で現在は博物館、美術館として使われている。城の裏手はセンピオーネという大きな公園で沢山の市民の憩いの場所となっている。


          
(左)ドゥオーモ広場 (右)ミラノ・ドゥオーモ(いずれも「ミラノとその地方ロンバルディア」政府観光局より)

 ドゥオーモを背景に。

 お城の前のカイロリ広場に面したカフェテラスでコーヒーブレークした後、ダンテ通りを進むとドゥオーモの姿が目に入ってくる。初めて見る人間にとってこの尖塔135本を有する巨大なゴシック建築は強烈なインパクトを与える。


    
(左)現地人お薦めのピッツァなら「Paper Moon」    (右)ペーパームーン店内

 ドゥオーモ見物を終えた頃になると、お腹が空いてくる。ミラノの現地人からお惣菜ならペックで、ピッツァならここ!と教えられたところがある。モンテ・ナポレオーネ通りの裏通りでバグッタ通りにある「ペーパームーン」というお店。

     
(左)紙のように薄いがもちもち感十分のピッツァ(参考写真)  (右)アサリのスパゲッティ

 紙のように薄い生地でしかももっちり感があり、未だに夫婦揃って忘れ難いピッツァである。ちなみにPizza raggio di sole(トマト、モッツアレッラ、卵、ハムのピッツァ)とSpaghetti alle vongoli veraci(アサリのスパゲッテイ)が昼食メニュー。


 昼食後は、ミラノに来ればやはりショッピング。この界隈には多くの女性が目を輝かせる高級ブティックが目白押しである。しかし、幸運にも?うちの奥様はあまりブランド商品にはご興味がないらしく、ドゥオーモ横の「リナシェンテ」というデパートに向かう。

 リナシェンテ最上階のコーヒーパーラー(後ろはドゥオーモ)

 欧州の春は6月。日本で言えば4月に相当する。デパート内には数々の春物ファッションが展示されている。1時間半ほど洋服のお買物にお付き合いし終わった頃には足が棒のようになっている。屋上のカフェテリアでドゥオーモを背景に休憩し、よほどお昼のピッツァがお気に召したのか、ホテルに戻ってまた夕食に出るのがしんどいので、美味しそうなピッツァをテイクアウトして帰ろうと女房殿の提案。

 安上がりでいいけど、でも確かにホテルに戻ってまた夕食に出るのも億劫。ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガッレリアからスカラ座広場に出て、タクシーでホテルに戻る。

        
(左)スカラ座広場にて(温々のピッツアを持って)   (右)ホテルの部屋で早速ファッションショー

 ホテルに戻ると、早速リナシェンテで買った春物ファッションショー。夕食の後は、最上階のプールで一泳ぎ、今日一日歩き回った足の凝りをジャグジーでほぐす。
 明日は、天気も回復したので湖水地方コモ湖にでも行くか!

    
    夜、ホテル最上階の屋内プールでリフレッシュ、明日はコモ湖に行こう!

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セミスィートの旅 - イタリア - (異文化体験28 イタリア満喫の旅1)

2013年01月16日 12時18分35秒 | 異文化体験_西欧
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セミスィートの旅 - イタリア - 1996.04.26~05.07

 マイレージが沢山貯まった。エコノミーなら欧州往復2人分でも余りある。それなら業務出張で一番印象深く、かつ親しみを持ったイタリアへ大阪で常に留守番役をしていた女房を連れて行ってやろうと計画する。

 ミラノの宿 Principe di Savoia (プリンシペ・デイ・サヴォイア)

 単身赴任の出向期限が6月末までなので、ゴールデンウィークの間しか時間がとれない。有楽町のJALプラザに赴き、計画作りの相談に乗ってもらう。
 マイレージチケットは、連休の間(4月27日~5月5日)は使えないとのことで、4月26日の日本出発、5月6日の現地発、計12日間の旅で計画する。

 ベネツィアの宿 Europe&Rezina(ヨーロッパ&レジーナ)

 私が初めて海外旅行したのは1972年のグァム旅行、初の業務出張は1981年の欧州。この時の同行者がビデオカメラ(と言ってまだ小型化されておらず肩に担ぐ大きなカメラ)を持参しその記録を見せてもらって以来、2回目の出張から新発売の小型ビデオ持参の旅となった。当時海外ではまだまだ珍しいものであった。
 しかし、ビデオ持参の旅は肉眼での観察がおろそかになるという欠点もある。

 今回はそのビデオカメラを持たず、スケッチブック持参でゆっくりと旅行しようと思う。基本的に各都市3泊とし、ミラノ、ヴェネチア、フィレンツェ、ローマを基点に観光することにした。移動は電車とバスを利用する。

 フィレンツェの宿 Grand(グランド)

 飛行機代が不要な分、宿泊を少し豪華にしようと考え、仕事で付き合いのあった各ホテルにファックスを入れる。
 「**日にプライベートで女房とそちらに行くので、3泊分の部屋を確保して欲しい。ただし、個人旅行なので配慮頂ければ有難い」。
 すると先方から「お前が奥さん連れて来るのなら大歓迎。スィートルームを半額で提供する」との返事。
 冗談ではない、ミラノで一、二を争うホテルのスィートルームとなれば国賓も泊まる**十万円の部屋。しかも、ほとんど稼動せず空いている部屋ではないか。
 その後、具体的な要望を示しながら、結局3万円程度でセミスィートルームを提供してくれることになった。

 ローマの宿 Excelsior(エクセルシオール)

 ちなみに、今回の旅で使ったホテルは、
○ミラノは、Principe di Savoia(プリンシペ・ディ・サヴォイア)
○ヴェネチアは、Europe&Rezina(ヨーロッパ&レジーナ)
○フィレンツェは、Grand    (グランド・フィレンツェ)
○ローマは、Excelsior     (エクセルシオール)
 ヴェネチアのみ1泊、他は3泊。

 私は内外の宿泊したホテルのレターセットを収集している。経営が変わったりして名前が変わってしまった名門ホテルもあるが、今回宿泊したホテルから代表してミラノとローマのホテルのレターセットを紹介する。どちらも金文字の入った上質紙である。

       
  ミラノ Principe di Savoia(プリンシペ・デイ・サヴォイア)ホテルのレターセット

        
  ローマ Excelsior(エクセルシオール)ホテルのレターセット


 各ホテルとも、支配人からのメッセージと花やフルーツ・バスケットが部屋に届けられ、女房にとっては忘れられない旅になったようだ。

 次回から、ミラノを皮切りにイタリアの旅ログがスタートします。

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こんな所で酒飲んで大丈夫? -コペンハーゲン-(異文化体験24 LNG-11の旅6)

2012年08月11日 18時05分24秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

こんな所で酒飲んで大丈夫? -コペンハーゲン-  1995.7.9~7.12

 
(左)コペンの名門ホテル「ダングレテール」  (右)部屋には沢山のフルーツバスケットが。

 お昼の便でロンドンからコペンハーゲンへ。コペンNo.1のヨーロピアン最高級ホテル・ダングレテールの部屋にチェックインしたのは午後3時頃。西日のさす部屋には、食べきれない位の果物がお皿に盛られ桃を剥きながらニューハウン方面から聞こえる恒例のジャズ・フェスティバルのライブに耳を傾ける。

 ホテルの隣のニューハウンではジャズフェスティバル

 小休止の後、ストロイエ通りに沿って同行のO氏はロイヤルコペンハーゲンの絵皿を、小生はジョージ・ジェンセンの小物を夫々ショッピング。

ストロイエのロイヤルコペンハーゲン(左茶)とジョージ・ジェンセン(右白)のお店

 
(左)ロイヤル・ブルーで有名なロイヤルコペンハーゲン   (右)ジョージ・ジェンセンの作品「Grape」
 
 チヴォリ公園の前に「すき焼き」という老舗の日本レストランがある。どんなメニューがあるのか、仕出しは可能なのか、と、うどんを食べながら店主相手に早速調査開始。今回のコペンハーゲン来訪の目的は1997年に開催される世界ガス会議の際のJGAレセプションの準備・仮予約なのだ。

    
(左)チヴォリ公園の95年プログラム               (右)公園の案内図

 「すきやき」屋の前が公園の入口 かがり火のモニュメント
 
 アメリカンスタイルのテーマパークとは全く趣が異なる大人の公園チヴォリも夏の夜は大賑わい。公園内の池の辺のレストランで遅めの夕食を取る。95年のプログラムでは4月19日から9月17日の開園日は午前11時の開場から午後11時45分の花火まで、絶え間なく様々なイベントが繰り広げられる。


 翌朝、現地のコーディネーター「TUMLARE」社を訪問。スーパーバイザーのP.K氏とホテル・レセプション会場・仕出屋・ハイヤー等の候補を見て回る。

 ホテルは天皇陛下も泊ったと言うSASロイヤルとダングレテールを視察、品格等からダングレテールに決定。コペン市内のホテル部屋数が少ないので早速仮予約を入れる。

     
(左)「DEN GYLDNE FORTUN」の女性スタッフ お店の宣伝? (右)14年前にも訪れた「FISKEKELDEREN」

 仕出関係は有名なシーフードレストラン「DEN GYLDNE FORTUN」の女性スタッフと打合わせ。昼食はP.K氏お薦めの海鮮料理レストラン「FISKEKELDEREN」へ。実はこのレストラン、初めての海外出張でコペンハーゲンを訪れた際(1981年)に利用した思い出のあるレストランだ。カールスベア、ツヴォルグといったビールを持つデンマーク、さぞかしお昼もと思いきや、今やお昼は顧客相手でもパワーランチの時代、日本はまだそんなことをやっているのか?と恥かしい思い。

 
(左)新カールスベア美術館のファサード         (右)美術館内部の空間  こんな所で飲食パーティ本当に大丈夫なの?

 JGAレセプション会場は、永らくホテル開催が続いているので、出来れば趣向を変えてやりたいと思い、いくつかの候補地を見て廻る。候補地は、市内は「新カールスベア美術館」、「王立兵器博物館」、「証券取引所」、郊外はコペンの北クランペンボーグにある「シューティングクラブ」や「海に面したお城」等である。

 
(左)王立兵器博物館       (右)旧証券取引所 

 美術館や博物館内で飲食して大丈夫か?と思うが、そこは大人の社交場の秩序・マナーが確立されている欧州と日本の差が如実に出るところ。
 公の場で酩酊することが個人の人格を疑われる大人社会の欧米と、酩酊状態での失敗に寛大な日本の文化の差。西洋と東洋の考え方の差とも言える。
 結局、美術館は喫煙がダメ、兵器博物館は空間の見通しの悪さ、証券取引所は少し狭く、シューティングクラブ(射撃クラブ)は車で30分ほど必要、お城は天気が心配と夫々一長一短があり、どうしても和食(なま物)を扱う関係でダングレテールの宴会場が無難という結論に。

 街で見かけたバイク

 二日間の調査・仮予約を終え、最終日夕刻の帰国までの時間、再度コペンの街を徘徊する。それにしても、立派なツーリストガイドの後ろのページには日本では⑱禁のナイトクラブやVIPエスコートの色っぽい写真が並ぶ反面、未成年者に対する扱いは厳しく、公的空間での飲食も含め、日本の大人たちよ、もっと大人になれ!

 ストロイエ通りは短い夏を楽しむ人々で賑わっている

 このコペンハーゲンでの世界ガス会議に小生が出席することはまずないが、後任への順調な引継ぎ事項となる旅であった。ストロイエ通りを行き交う女性達は短い夏を満喫するかのように開放的な衣装に身を包んでいる。

14年前に来た時は真冬のコペンハーゲン。短い夏に乾杯!
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ポスト・コングレス・ツアー ミス・サイゴンとディスコと ‐ロンドン‐ (異文化体験24 LNG-11の旅5) 

2012年08月05日 23時19分57秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

ポスト・コングレス・ツアー ミス・サイゴンとディスコと -ロンドン-  1995.7.7~7.9

 バーミンガムからロンドンに戻る

 ロンドン・ランガム・ヒルトン・ホテルにチェックイン後、JGAスタッフの待つニューロンドンシアターへ。ミュージカル「キャッツ」を見たいと言うので、その引率である。

    
      ロンドンのミュージカル「キャッツ」公演 日本では劇団四季が。


      
(左)ニューロンドンシアターのキャッツ公演チケット  (右)ニューロンドンシアター前にて 

 小生自身、米国と日本で見ており3度目のキャッツ、開演は午後7時45分。JGAスタッフ達は、今日はコンパニオン達の案内でロンドン見物をしたようだ。彼らは明日の便で帰国する。



 翌8日は、VIPを湖水地方に案内しているMgr君と夕刻ホテルで合流することになっている。日中、三越でバーバリーのコートを購入。日本でサイズ調整をしてもらう。

        
(左)ミス・サイゴン公演のパンフレット(中)同公演のチラシ (右)1776年のシアター・ロイヤル・ドルリーレーン

 
(左)ミス・サイゴンのシアター・チケット         (右)ミス・サイゴン(Kim)の歌姫   


 夕刻、Mgr君と再会し彼が留学中よく利用した中華料理屋で夕食後、コベントガーデン近くのシアター・ロイヤル・ドルリーレーン(Theatre Royal Drury Lane)でミュージカル「ミス・サイゴン」を鑑賞。
 出だしはちょっと色っぽい場面もあったが、ベトナム戦争時の米兵とベトナム女性の恋物語に徐々に引き込まれ、あっという間の2時間半であった。

 
 終演後、近くのレストランで展示責任者の I 嬢やコンパニオンらが待っているという。店に向かうと、さあ、これから皆でディスコに行きましょう!と言う。もう、午後10時を過ぎている。が、この雰囲気では帰れそうにない。しかたなく、タクシーで仰せのディスコに向かう。

 ロンドンのディスコ風景(参考、北京のディスコとは大違い)


 北京のディスコしか経験のない小生にとって、本場のディスコはそれなりに興味はあるものの、ロンドンの若者が集うディスコはちょっと尻込みしたくなる。
 中に入ると耳をつんざく大音響のディスコサウンドで声が聞こえない。迷路のような暗い廊下には煙草の煙が充満し、階上、階下のダンスフロアーは大柄ないろんな人種の若者達が軽快なテンポで思い思いに踊っている。

 同じくロンドンのディスコ風景(参考)
    
 汗と熱気がムンムンする空間に、小生もせかされて一緒に踊る羽目に。若者の踊りが苦手な小生とMgr君は、やや時間をもてあまし気味。コンパニオン達のバーミンガムとは異なるややセクシーな服装と踊りを眺めつつ、時計に目をやると既に日付が変わっている。今日はコペンハーゲンに行かねばならない。踊り続ける彼女達に、「もう帰るで!」と言うが「もっと踊ろう!」と帰る気配なし。それじゃ、先に引き上げようとMgr君とホテルに戻る。

 LNG-11の多彩なポスト・コングレス・ツアーの終焉である。
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カナダカップのザ・ベルフリー -バーミンガム-(異文化体験24 LNG-11の旅4)

2012年07月28日 00時46分09秒 | 異文化体験_西欧
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カナダカップのザ・ベルフリー -バーミンガム- 1995.7.7

 ナショナル・ゴルフ・センター「ザ・ベルフリー」

 LNG-11の会議が無事終了し、7日からポスト・コングレス・ツアーが始まった。
大きな国際会議では、会議が終了すると会議出席者のために様々なツアーが用意される。
我々は、これとは別にプライベートな週末ツアーを計画していた。それがゴルフ。

 ゴルフ場のロゴマークとカナダカップ開催年

 翌朝、早速T氏と共に一番楽しみにしていたナショラル・ゴルフ・センター「ザ・ベルフリー(The Belfry)」に出発。ここはVIPの宿泊場所として下見しただけに期待が大きい。
 「ザ・ベルフリー」にはいくつかのコースがあるが、今日我々がまわるのは、1985、1989、1993年にカナダ・カップ(欧州と米国が夫々の威信をかけて行うゴルフ対抗戦、1927年UK対USAの隔年試合がその始まり)が開催されたチャンピオンズ・コース「ブラバゾン(Brabazon)」。
(このブログ日記を記載したプレイ後の2002年にも開催されている)

 「ブラバゾン」のコース写真

 今日は、クラブ・メンバーのトーナメントがあるようで、その前に特別にまわらせてもらうのでもたもた出来ない。

   
 ストロークセイバー(日本で言うスコアカード)、各ホール案内が一体化した立派なブック調  

 17番(Par5 559Y)と18番(Par4 442Y)のガイド


 所々に池を配したフラットな美しい林間コース、距離7177ヤード、パー72の手ごわいコースである。二人乗りのカートでコース内自由に入ることが出来るが、ホールとホールのつなぎが良く分からず、もたつくこともしばしば。
 何とか、後の組に迷惑をかけることなく終了。スコアはまずまずながら、それよりも本場の名門ゴルフ場でのプレイは良い思い出となった。

 
                       後ろの組を気にしながらの記念撮影

 クラブハウスは、重厚な歴史を感じさせる木造建築で、メンバーのための憩いの場、空間という感じがひしひしと伝わってくる。バー・コーナーやレストラン、ミーティングルームやホテル等、大人のための施設が整っている。

    
(左)ザ・ベルフリーのロゴ入りベレー帽  (右)ゴルフ場、LNG-11(展示ノベルティ)のロゴ入りボール

 記念にゴルフ場のロゴマークの入ったベレー帽とボールを購入。
 バーミンガムから帰国するT氏とここで別れ、小生はスタッフ達の待つロンドンへバスで移動。
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中世のテーマパーク -チェスター-(異文化体験24 LNG-11の旅3)

2012年07月21日 12時57分26秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

中世のテーマパーク -チェスター-  1995.7.4

      
(左)「チェスター」の案内書             (右)「チェスターの街(絵葉書)」

 私の右腕のOマネジャーはかつて英国留学の経験者。彼のお薦めで「チェスター」というリバプールに近い街を、パリで荷物が飛行機に乗り遅れたT氏と共に訪れることになった。車で約1時間半のドライブである。

 商売柄セントラルヒーティングや厨房等の資料図書は即購入

 今から1900年ほど前、古代ローマ人がウェールズ人制圧のためにディー川周辺の砂岩質台地に砦を築き、要塞都市としてスタートしたチェスターには、イングランド最大の円形劇場等、今も多くの遺跡が残されている。驚くことにハイポ・コーストと呼ばれる床下暖房が復元されており、これはローマ時代の基本的なセントラル・ヒーテイング・システムであったとか。

 城壁で囲まれた旧市街、その入口の一つ

 ローマ人撤退後、アングロ・サクソン人が侵攻し、教会や競馬場(最古の競馬場の一つと言われている)、更には港も栄え始めた。中世のチェスターは1175年に初のロイヤル・チャーター(王の勅許)を受けアイルランドとの貿易権が認められ、沿岸貿易が発達すると共に、王位継承者がチェスター伯となる習慣が根づく等、その後の発展の基礎が築かれた。

 「チェスター」の市街略図(旧市街は750×500mの狭い空間)

 チューダー朝、アチュアート朝、ジョージ朝、ヴィクトリア朝、そして現代に続く歴史の中で様々な建築様式の建物が、その伝統を今に伝えている。チェスターはコンサベーション・オフィサー(建物保護を担当する役職)を英国で初めて設けた街でもある。

 
(左)チューダー様式の綺麗な建物とロウズと呼ばれる連結歩行モール (右)典型的な建築様式(案内書より)

 中世にタイムスリップしたかのような白壁に黒い木枠の美しい建物が連なる街並みは、まるでテーマパークに迷い込んだような錯覚を受ける。最初に訪れたチェスター大聖堂は、時々の信仰の中心地として幾度か建替えられ、現在の大聖堂は1250年に着工し250年余の歳月を費やして建てられた重厚な教会である。

        
(左)1250年に着工、250年を経て完成した現チェスター大聖堂   (右)大聖堂の案内書

 賑やかなストリートは、中世の外観を持つ近代的ショッピング・モール「ロウズ」がのびており、バラエティ豊かな店やレストラン、居酒屋が軒を連ねている。一見分かり難いが2階部分が連なっているため車や雨を気にせずにショッピングや食事を楽しめる。
 簡単な昼食を取ろうと「ロウズ」をうろうろとレストランを探すが、いずこも満席でやっとの思いでありつけた次第。

 街の中心部「ザ・クロス」での布告のデモンストレーション

 街の中心部の四つ角「ザ・クロス」は、何世紀にもわたって商業と行政の中心であり、布告を触れ回る役人のオフィスを復元し、当時の衣装を着た役人が大きな声で実際にデモンストレーションをやっている。

      
(左)イーストゲート・ストリートを跨ぐ「イーストゲート・クロック」 (右)クロックの拡大

 イーストゲート・ストリートを跨ぐ橋の上には、今や街の象徴ともなったイーストゲート・クロックが目を引き付ける。ヴィクトリア女王即位60周年を記念して1899年に設置された時計である。

 旧市街地は南北750m、東西500m程度の小さな街であるが、多くの観光客で賑わっている。午後3時頃、名残惜しくバーミンガムに向けて車を走らせる。

 今夕はシェルのレセプションが待っている。
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第11回国際LNG会議 ダイアナ妃とショット -バーミンガム-(異文化体験24 LNG-11の旅2)

2012年07月14日 14時51分54秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

第11回国際LNG会議 ダイアナ妃とショット -バーミンガム-  1995.7.1~7.7

 「LNG-11」の会場 バーミンガム国際会議場

 7月3日第11回国際LNG会議、通称LNG-11がバーミンガム国際会議場で始まった。
 開会式場は9時半から2200名収容のシンフォニーホール。公用語は英語と仏語だが日本からの出席者が多いので日本語同時通訳が許されている。
 初日の基調講演は、プルタミナの総裁、シェルの会長。期間中、日本からの論文は34、うち都市ガス業界から16が採用。
 開会式後、展示会場ではVIPによる巡回が始まり、JGAブースにもブリティッシュガスの会長やIGU会長等が来訪、JGA会長が出迎える。

 
(左)併設展示会のオープニング JGAブースへもVIPが      (右)展示会場設営責任の I 嬢

 LNG会議における日本の主要テーマは、LNG契約の硬直性を緩和させることにある。価格は原油と連動し、契約はTake or Pay(契約量の引取り義務)条項で縛られている現在の取引形態を、今後の需要拡大が見込まれる中もっと弾力あるものにし、それによってLNG市場の活性化、拡大を図ろうと主張しているが、産ガス国は液化基地、供給システム等PJ投資の規模が大きいだけにリスクをミニマム化したいという強い思いがある。

 
(左)オープニング・レセプション招待状       (右)ウェストン・パーク会場の概略図

 
(左)会場内で供される飲食物メニュー         (右)広大な邸宅と庭園を開放してのレセプション
 
 初日の夕刻19時半から開催国主催の開会レセプションが、郊外のウェストン・パークで開催される。バーミンガム郊外には数多くの元貴族の豪華な大邸宅が一般公開されており、ウェストン・パークもその一つ。広大な邸宅と庭を開放してのレセプション、カクテルグラスを手に庭園で談笑する者、博物館のような邸宅内を見て廻る者等々、夜遅くまで賑わう。


           
(左)シェルのお土産、UOBの博物館のガイドブック (右)英国王室チャールズ皇太子とダイアナ妃?? 
 
 翌4日はシェル主催のプライベート・レセプション。展示ブースの日本人コンパニオンにも声をかけて繰り出す。チャールズ皇太子、ダイアナ妃も出席(実はそっくりさん)して、我々と記念撮影。最後は打ち上げ花火まで登場。真下から見上げると煤がちらちら落ちてきて目に入るわ、白いドレスのご夫人はあわてて逃げ惑うわで大変!


 
(左)フェァウェル・レセプション招待状    (右)国際会議場のキャナルサイド、産業革命時の世界への窓口

 6日は早いものでフェアウェル・レセプション。国際会議場のキャナル・サイドでオーストラリアガス協会の主催により午後5時半からの開始。会議が滞りなく終了したので、参加者は一様にほっとした明るい陽気な笑顔。

 
(左)大混雑のレセプション会場           (右)ディキシーランドジャズバンドも繰り出して

 ガス・ド・フランスのM副社長と歓談
 
 国際会議場周辺の運河は産業革命最中の18世紀に完成したもの。当時世界中に向けこの運河を通じて製品が運び出されたようだ。今はウォーターフロントとして再開発され都会のオアシスとなっている。
 真昼のような明るさの下、デキシーランドジャズの楽団も繰り出し、運河周辺は大混雑。ガス・ド・フランスの副社長やIGU会長等とも談笑し、午後7時頃今度は我々自身の打上げ会場に移動する。

 展示会場のコンパニオンさん達

 今度は日本食のお店で展示関係者の慰労会。会期中の様々な面白い出来事に花が咲く。 一番の話題はスタッフのS君が英国人コンパニオン(実はモデル)のきわどいポートレートを秘かに貰っており、英語の喋れない彼が何故?と要領の良い彼に羨望の質問が集中。小生の隣に座ったコンパニオンの一人N嬢はロンドン留学中の小柄な美人。結構真面目な人生論を交わす。

 JGA若手スタッフは明日ロンドンの一日観光をして明後日帰国する予定。ロンドンでもコンパニオン達と一緒に!と色々計画しているようだ。

 皆さん、ご苦労様でした!
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