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旅行記、世相独言

サウダーデの国 -リスボン-(異文化体験12 都市再生の旅2)

2011年03月13日 16時34分42秒 | 異文化体験_西欧
今回の震災被害者の方々にお見舞い申し上げます。
また、亡くなられた方々に深く哀悼の意を表します。


(写真はクリックで拡大します)

サウダーデの国 -リスボン-  1990.9.12~14

 聖ジョルジュ城から見たリスボンの旧市街
 
 ユーラシア大陸最西端の国ポルトガルと、はるか東の果ての海に浮かぶ国日本とが、頻繁に交流し相互に重要な影響を及ぼしあったのがおよそ500年前。
その幕開けは1549年。イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、日本の鎖国が始まる1635年までのおよそ1世紀の間に、鉄砲、パン、天ぷら、金菱糖、カルタ、ボタン、カステラ等々、沢山の西洋文明がポルトガルからもたらされた。

 大航海時代の偉人達が勢揃い 発見のモニュメント

 その頃のポルトガルは、1488年にディアスがついに喜望峰を越え、1498年バスコ・ダ・ガマはインドに達し、1500年カブラルがブラジルに、1519~1522年にマゼランが世界一周を成功させる等、大航海時代の世界の先導国であった。

 スペインとポルトガル、共にラテン民族でありながら、その印象はかなり違う。スペインが陽とすれば、ポルトガルは陰。動に対する静。何故なのだろう?
 歴史的には大航海時代の華やかな実績を持っているにもかかわらず、控え目な国民性は民族歌謡「ファド」の真髄とでも言うべき「サウダーデ(やるせなさ、懐かしさ)」の心に通じているのだろう。

    
 (左)「Restaurante Tipico」      (右)ファドの名手 Amalia_Rodrigues

    
 (左)今回の宿舎シェラトン・タワーズ・ホテル       (右)ルーム・キイ

 初日の夜は到着が遅かったこともあり、シェラトン・タワーズ・ホテルの一室で酒盛りとなったが、2日目の夜は小生の要望を添乗のO君が聞き入れてくれて、ファドの世界に浸るべく「Restaurante Tipico」のディナーショーとなった。

 
    (左)リスボンの街の起源アルファマ地区     (右)アルファマ テージョの河口

 リスボンの街の発展は、アルファマから始まっている。小高い丘に位置し市街地を一望出来る聖ジョルジュ城(5世紀)のふもとにあって、赤土色の瓦屋根、太陽と風にさらされてかすかに琥珀色を帯びた壁、窓には洗濯物がはためき、バルコニーには鮮やかな花がけだるく揺れている、そんなイスラム支配の香りを伝えるアルファマ地区が今回の調査地である。

 
   (左)消失建物の残った壁を生かした復興再建      (右)アルファマ地区内部

 数年前、アルファマ地区は大火災に見舞われ、現在その復旧に取組んでいる。壁一枚残った建物もその壁を残して復元しようと、少しでも昔のものを残そうとする姿勢は、この地区の歴史的重要性を裏付けているのだろう。

 
       (左)ロッシオ広場          (右)リベイラ宮殿前広場とジョゼ1世騎馬像

 アルファマ地区の西にバイシャと呼ばれる地区がある。ロッシオ広場とコメルシオ広場を結ぶ通りは、金座、銀座通りと呼ばれる商店街となっており、大勢の市民で賑わっている。この地区は1755年に大地震があったが直ちに再建されている。アルファマ地区の復興に取組む若いチャーミングな女性設計技師は、資金豊富な当時と比べ現在の財政難を嘆いていたのが印象的であった。
 この商店街では、天ぷら、カステラ等の原型をショー・ウィンドゥの中に見ることが出来るが、似ても似つかぬもの。

 
      (左)ジェロニモス修道院         (右)王家の馬車とバスコ・ダ・ガマの棺

  
       (左)ベレンの塔             (右)発見のモニュメント東面

 更に西に移動するとインペリオ公園にゴシック風寺院であるジェロニモス修道院がある。バスコ・ダ・ガマの海外遠征で得た富を使ってエマニュエルⅠ世が建造したと言われる1502年の建物である。付近には1500年初期、港に入る船の見張りに使用されたベレンの塔や、発見のモニュメント、馬車博物館等があり、リスボンの一大観光名所になっている。

     
 (左)洗濯物がなびく路地裏     (右)狭い曲がりくねった道とケーブルカー

 リスボンを中心とするポルトガルの街は、人種的偏見もなく、観光資源も多くあり、物価も安いとあって、今後観光の処女地として大躍進すること、間違いなし!


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