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古代の都市施設と「まいった、まいった!」 -ローマ- 1992.7.17~20
Via Venetoに面したホテル・エクセルシオールが今回の宿舎。到着した夜、欧州旅行中の会社の先輩R夫妻とホテルで再会、通りの前にあるフェリーニの『甘い生活』で一躍有名になった「カフェ・ド・パリ」で夏の夜の一時、お互いの今後の旅行の前途を祝す。
(左)欧州旅行中の会社の先輩と「カフェ・ド・パリ」で (右)狼の乳を吸う双子の兄弟ロムルスとレムス(Wikipediaより)
2回目のローマは、私をその歴史的重圧感から解放し、その都市づくりの妙味を存分に味わう機会を与えてくれた。
双子の兄弟ロムルスとレムスが前753年にパラティーノの丘に都市を建設したと伝えられるローマは、まずテヴェレ川の湿地帯を改善するため排水溝が整備され土木技術が発達、近隣地区の征服に乗り出したローマは、この土木技術を駆使してアッピア街道のような軍用道路を建設し、遠く地中海まで遠征していった。
(左)朝のスペイン階段 (右)古代の水道から水が流れ込むトレヴィの泉
(左)サン・ピエトロ広場の噴水 (右)サン・ピエトロ寺院のスイス衛兵
ローマ帝国を建設したローマ市は、前300年には人口10万人の都市となり、最初の水道が建設され、トレヴィの泉には、今もこの時代の水道から絶え間なく水が供給されている。都市の便利な生活は、周辺農民を呼び寄せ、自作農の陥落とも連動して前3世紀には早くもスラムが形成されたという。初代皇帝アウグストウスの時代、つまり2000年前のローマは既に100万都市となっている。この時代の前後には、レクリェーション施設として円形劇場やコロッセウム、更に3000人もの人が一度に入浴出来た大浴場がいくつか建設されている。
(左)ベネツィア広場に面して建つヴィットーリオ・エマヌエーレⅡ世記念堂 (右)フォロ・ロマーノ
(左)45000人収容のコロッセウム内部 (右)本日はお日柄も良くて・・こんな風景も
このように見ていくと、既に2000年前に道路を建設し、排水溝を整備し、水道を敷設し、娯楽のための大劇場や社交場としての大浴場を建設するこれらの行為は、今日の都市づくりと何等変わらないものであり、人間の英知に感嘆せざるを得ない。
(左)ローマ近郊の「Ristorante Villa Zarina」 (右)亭主がサービスに出してくれた本物?の蔵出しワイン
ローマ郊外の農家が営むレストラン「Ristorante Villa Zarina」。 真夏の太陽が周辺のオリーブと葡萄畑の濃い緑を一層鮮やかなものにする。昼食に亭主がサービスにと本物の蔵出しワインをサービスしてくれる。北イタリアでは、厳しい自然環境の中で濃厚な赤ワインが、逆に南イタリアではこぼれるばかりの太陽の恵みを受けてアルコール度の高い白ワインが、それぞれの土地柄を個性豊に反映して作られている。これぞワイン、2000年の昔、シーザーも飲んだと言う亭主。本当かねえ? 蔵出しワインの芳醇な香りと色と味を堪能する。小粒の丸い葡萄もあれば、細長い大きな葡萄もあり、さすがワイン王国である。
民謡酒場「Da Meo Patacca」
ローマ最後の夜は、民謡酒場「Da Meo Patacca」でカンツォーネを聴きながらの食事。と言えば聞こえは良いが、野外松明の照明下で何列もの机にぎゅうぎゅう詰めの観光客向け酒場。しかし、欧州美人を夜の帳の中で松明の照明を頼りに間近に見るのもなかなか乙な物である。
最後は超ミニのイタリア娘を引っ張り出してのサークルダンス
カンツォーネを歌うおじさんが各テーブルを廻ってくる。トランペットとギターとタンバリンと太鼓という奇妙な組合せの楽団に、歌手は腹の底から精一杯の独唱である。 歌い終わった所でテーブル端の我が団員の一人がチップを握らせると「まいった、まいった!」とおじさんが言う。少ないのかと、慌ててもう一枚チップを渡すとまたまた「まいった、まいった!」。このおじさん、これしか日本語を知らないと知って、今度は我が団員が「まいった、まいった!」。
古代の都市施設と「まいった、まいった!」 -ローマ- 1992.7.17~20
Via Venetoに面したホテル・エクセルシオールが今回の宿舎。到着した夜、欧州旅行中の会社の先輩R夫妻とホテルで再会、通りの前にあるフェリーニの『甘い生活』で一躍有名になった「カフェ・ド・パリ」で夏の夜の一時、お互いの今後の旅行の前途を祝す。
(左)欧州旅行中の会社の先輩と「カフェ・ド・パリ」で (右)狼の乳を吸う双子の兄弟ロムルスとレムス(Wikipediaより)
2回目のローマは、私をその歴史的重圧感から解放し、その都市づくりの妙味を存分に味わう機会を与えてくれた。
双子の兄弟ロムルスとレムスが前753年にパラティーノの丘に都市を建設したと伝えられるローマは、まずテヴェレ川の湿地帯を改善するため排水溝が整備され土木技術が発達、近隣地区の征服に乗り出したローマは、この土木技術を駆使してアッピア街道のような軍用道路を建設し、遠く地中海まで遠征していった。
(左)朝のスペイン階段 (右)古代の水道から水が流れ込むトレヴィの泉
(左)サン・ピエトロ広場の噴水 (右)サン・ピエトロ寺院のスイス衛兵
ローマ帝国を建設したローマ市は、前300年には人口10万人の都市となり、最初の水道が建設され、トレヴィの泉には、今もこの時代の水道から絶え間なく水が供給されている。都市の便利な生活は、周辺農民を呼び寄せ、自作農の陥落とも連動して前3世紀には早くもスラムが形成されたという。初代皇帝アウグストウスの時代、つまり2000年前のローマは既に100万都市となっている。この時代の前後には、レクリェーション施設として円形劇場やコロッセウム、更に3000人もの人が一度に入浴出来た大浴場がいくつか建設されている。
(左)ベネツィア広場に面して建つヴィットーリオ・エマヌエーレⅡ世記念堂 (右)フォロ・ロマーノ
(左)45000人収容のコロッセウム内部 (右)本日はお日柄も良くて・・こんな風景も
このように見ていくと、既に2000年前に道路を建設し、排水溝を整備し、水道を敷設し、娯楽のための大劇場や社交場としての大浴場を建設するこれらの行為は、今日の都市づくりと何等変わらないものであり、人間の英知に感嘆せざるを得ない。
(左)ローマ近郊の「Ristorante Villa Zarina」 (右)亭主がサービスに出してくれた本物?の蔵出しワイン
ローマ郊外の農家が営むレストラン「Ristorante Villa Zarina」。 真夏の太陽が周辺のオリーブと葡萄畑の濃い緑を一層鮮やかなものにする。昼食に亭主がサービスにと本物の蔵出しワインをサービスしてくれる。北イタリアでは、厳しい自然環境の中で濃厚な赤ワインが、逆に南イタリアではこぼれるばかりの太陽の恵みを受けてアルコール度の高い白ワインが、それぞれの土地柄を個性豊に反映して作られている。これぞワイン、2000年の昔、シーザーも飲んだと言う亭主。本当かねえ? 蔵出しワインの芳醇な香りと色と味を堪能する。小粒の丸い葡萄もあれば、細長い大きな葡萄もあり、さすがワイン王国である。
民謡酒場「Da Meo Patacca」
ローマ最後の夜は、民謡酒場「Da Meo Patacca」でカンツォーネを聴きながらの食事。と言えば聞こえは良いが、野外松明の照明下で何列もの机にぎゅうぎゅう詰めの観光客向け酒場。しかし、欧州美人を夜の帳の中で松明の照明を頼りに間近に見るのもなかなか乙な物である。
最後は超ミニのイタリア娘を引っ張り出してのサークルダンス
カンツォーネを歌うおじさんが各テーブルを廻ってくる。トランペットとギターとタンバリンと太鼓という奇妙な組合せの楽団に、歌手は腹の底から精一杯の独唱である。 歌い終わった所でテーブル端の我が団員の一人がチップを握らせると「まいった、まいった!」とおじさんが言う。少ないのかと、慌ててもう一枚チップを渡すとまたまた「まいった、まいった!」。このおじさん、これしか日本語を知らないと知って、今度は我が団員が「まいった、まいった!」。