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中世の玉手箱 プラハの街角散歩 -プラハ- 1995.9.25~9.28
ヴルタバ川に架かるカレル橋とプラハ城
IGU(世界ガス連盟)理事会メンバーには、9時半から徒歩による観光プログラムが用意されている。1000年以上の長い歴史のほとんどを他国に侵略されながら、それでも民族の誇りと文化を守り続けてきた気高い精神が街の隅々まで染み込んでいる。
市民の憩いの場、旧市街広場 後ろはフスの銅像
まずはホテルから旧市街広場に向けてそぞろ歩き。旧市街広場には宗教改革のフス像が、また1380年に建造された3つのバシリカを持つ「The Church of Our Lady before Tyn」と呼ばれるティーン教会が目につく。
後方のタワーが天文時計のある旧市庁舎
(左)15世紀から時を刻み続けている機会仕掛けの天文時計 (右)死神と異教徒の姿もあらわれる
更に更に6世紀に亘って街のランドマークとなっている機械仕掛けの時計を有する69.5mの旧市庁舎は1338年、時のルクセンブルグのジョン王が旧市街地の市民に独自の市庁舎建設を許可し、時計は15世紀初頭から時を刻んでいる。最上部の二つの窓から12人の国王(キリストの12の使途像の説も)が順に姿を現し、またその脇には死神、異教徒、守銭奴、放蕩者の像が動き、鶏の鳴き声で時計塔の鐘がなる仕組み。
この天文時計は、中央欧州の時間、古ボヘミア時間、バビロニア時間、星時間の4種類の時間を示している。
1475年建造、高さ65mの真っ黒に煤けたプラハ城「火薬塔」
今や真っ黒に煤けた65mの高さを有する1475年建造のゴシック建築Powder Tower(火薬塔)は、良く知られたRoyal Route(城と旧市街と橋は戴冠式行列のための王の道と言われる)の出発点として使われた。
城と旧市街と橋を結ぶRoyal Route(戴冠式の王の道)
隣接してオリジナルの王宮跡地に20世紀初頭建てられた新市庁舎があり、スメタナホールや数々のラウンジを有する首都の文化の殿堂となっている。
(左)旧市街とヴルタバ川向こうのお城を結ぶカレル橋からの眺め (右)橋の欄干には30の石造が
これらの旧市街地とVltava(ヴルタバ)川向こうのプラハ城を結ぶのが、石造りのカレル橋(チャールズ橋)。橋の欄干にバロック様式の合計30の石像を有する珍しい芸術橋である。1357年に着手され15世紀初頭に完成した橋は長さ516m、幅10m、16の橋脚で支えられている。両端には橋塔を有し、旧市街地の塔は14世紀のもの。
カレル橋の両端にある橋塔
徒歩ツアーはここで昼食に。
歴代ボヘミア王の居城 世界最大の古城「プラハ城」
午後は、対岸の歴代ボヘミア王の居城で、世界一大きな古城「プラハ城」の見学。1918年からチェコ共和国大統領府がここに置かれている。
(左)ネオゴシック様式の聖ヴィート大聖堂の正面ファサード (右)南からの眺め(メインタワーとゴールデンゲート)
プラハ発祥の地にして始祖聖人ヴァーツラフが眠る「聖ヴィート大聖堂(St.Vitus’ Cathedral)」と「プラハ城」の複合体はプラハのシンボルとも言える。広大な複数の宮殿を有するお城は、残念ながら共産圏支配の間に真っ黒に煤けて、本来の真っ白な大理石の面影はないが、それでもその偉容は圧巻である。
(左)王宮の裏の昔錬金術師が住んでいた「黄金の小路」 (右)青い彩色の家がカフカが住んでいた家
宮殿の裏に「黄金の小路」と呼ばれるところがあり、異色の作家カフカが身を寄せていた家がある。お城からゆっくりと川向こうのプラハの街を眺めながら坂道を下り、バスでホテルに戻る。
(左)プラハ城内、美しい大聖堂の内部空間 (右)ガラ・ディナー(別名マラソンディナー)の始まり
今夕は、プラハ城にてTransgas主催のガラ・ディナー。ディナーに先んじてのカクテルパーティでは、デンマークの世界ガス会議国内組織委員長のP.S氏と日本で開催される世界エネルギー会議の情報交換を行う。ディナーは城内のBall-Game Hallでベルギー、スペイン等の代表とテーブルを囲んで、恒例のマラソンディナーに古都の夜がふけて行く。
翌27日はコングレスホールで午前中理事会が開催され、お昼はダイアナサロンで各国事務局の昼食会。午後も理事会とTransgasからのチェコ・ガス事情の報告等が開催。
ロシアから欧州へのパイプラインガスはチェコ国内を通過するため、欧州のガスの大動脈の役割をTransgasが担っている。
夕刻は、チェコガス連盟主催のプラハ醸造所でインフォーマルイブニング。
(左)建築博物館「プラハ」は中世の玉手箱 (右)街角で見たネオルネサンス様式のRott Houseの見事なフレスコ画
「魔法の都」「黄金の都」「百塔の街」「北のローマ」等々、多くの異名を持つ建築博物館プラハは、プラハの春以降かつての自由都市の息吹を猛烈に感じさせる都市に変身中であった。
一方、その街の佇まいは中世の玉手箱であった。
中世の玉手箱 プラハの街角散歩 -プラハ- 1995.9.25~9.28
ヴルタバ川に架かるカレル橋とプラハ城
IGU(世界ガス連盟)理事会メンバーには、9時半から徒歩による観光プログラムが用意されている。1000年以上の長い歴史のほとんどを他国に侵略されながら、それでも民族の誇りと文化を守り続けてきた気高い精神が街の隅々まで染み込んでいる。
市民の憩いの場、旧市街広場 後ろはフスの銅像
まずはホテルから旧市街広場に向けてそぞろ歩き。旧市街広場には宗教改革のフス像が、また1380年に建造された3つのバシリカを持つ「The Church of Our Lady before Tyn」と呼ばれるティーン教会が目につく。
後方のタワーが天文時計のある旧市庁舎
(左)15世紀から時を刻み続けている機会仕掛けの天文時計 (右)死神と異教徒の姿もあらわれる
更に更に6世紀に亘って街のランドマークとなっている機械仕掛けの時計を有する69.5mの旧市庁舎は1338年、時のルクセンブルグのジョン王が旧市街地の市民に独自の市庁舎建設を許可し、時計は15世紀初頭から時を刻んでいる。最上部の二つの窓から12人の国王(キリストの12の使途像の説も)が順に姿を現し、またその脇には死神、異教徒、守銭奴、放蕩者の像が動き、鶏の鳴き声で時計塔の鐘がなる仕組み。
この天文時計は、中央欧州の時間、古ボヘミア時間、バビロニア時間、星時間の4種類の時間を示している。
1475年建造、高さ65mの真っ黒に煤けたプラハ城「火薬塔」
今や真っ黒に煤けた65mの高さを有する1475年建造のゴシック建築Powder Tower(火薬塔)は、良く知られたRoyal Route(城と旧市街と橋は戴冠式行列のための王の道と言われる)の出発点として使われた。
城と旧市街と橋を結ぶRoyal Route(戴冠式の王の道)
隣接してオリジナルの王宮跡地に20世紀初頭建てられた新市庁舎があり、スメタナホールや数々のラウンジを有する首都の文化の殿堂となっている。
(左)旧市街とヴルタバ川向こうのお城を結ぶカレル橋からの眺め (右)橋の欄干には30の石造が
これらの旧市街地とVltava(ヴルタバ)川向こうのプラハ城を結ぶのが、石造りのカレル橋(チャールズ橋)。橋の欄干にバロック様式の合計30の石像を有する珍しい芸術橋である。1357年に着手され15世紀初頭に完成した橋は長さ516m、幅10m、16の橋脚で支えられている。両端には橋塔を有し、旧市街地の塔は14世紀のもの。
カレル橋の両端にある橋塔
徒歩ツアーはここで昼食に。
歴代ボヘミア王の居城 世界最大の古城「プラハ城」
午後は、対岸の歴代ボヘミア王の居城で、世界一大きな古城「プラハ城」の見学。1918年からチェコ共和国大統領府がここに置かれている。
(左)ネオゴシック様式の聖ヴィート大聖堂の正面ファサード (右)南からの眺め(メインタワーとゴールデンゲート)
プラハ発祥の地にして始祖聖人ヴァーツラフが眠る「聖ヴィート大聖堂(St.Vitus’ Cathedral)」と「プラハ城」の複合体はプラハのシンボルとも言える。広大な複数の宮殿を有するお城は、残念ながら共産圏支配の間に真っ黒に煤けて、本来の真っ白な大理石の面影はないが、それでもその偉容は圧巻である。
(左)王宮の裏の昔錬金術師が住んでいた「黄金の小路」 (右)青い彩色の家がカフカが住んでいた家
宮殿の裏に「黄金の小路」と呼ばれるところがあり、異色の作家カフカが身を寄せていた家がある。お城からゆっくりと川向こうのプラハの街を眺めながら坂道を下り、バスでホテルに戻る。
(左)プラハ城内、美しい大聖堂の内部空間 (右)ガラ・ディナー(別名マラソンディナー)の始まり
今夕は、プラハ城にてTransgas主催のガラ・ディナー。ディナーに先んじてのカクテルパーティでは、デンマークの世界ガス会議国内組織委員長のP.S氏と日本で開催される世界エネルギー会議の情報交換を行う。ディナーは城内のBall-Game Hallでベルギー、スペイン等の代表とテーブルを囲んで、恒例のマラソンディナーに古都の夜がふけて行く。
翌27日はコングレスホールで午前中理事会が開催され、お昼はダイアナサロンで各国事務局の昼食会。午後も理事会とTransgasからのチェコ・ガス事情の報告等が開催。
ロシアから欧州へのパイプラインガスはチェコ国内を通過するため、欧州のガスの大動脈の役割をTransgasが担っている。
夕刻は、チェコガス連盟主催のプラハ醸造所でインフォーマルイブニング。
(左)建築博物館「プラハ」は中世の玉手箱 (右)街角で見たネオルネサンス様式のRott Houseの見事なフレスコ画
「魔法の都」「黄金の都」「百塔の街」「北のローマ」等々、多くの異名を持つ建築博物館プラハは、プラハの春以降かつての自由都市の息吹を猛烈に感じさせる都市に変身中であった。
一方、その街の佇まいは中世の玉手箱であった。