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旅行記、世相独言

幻のマイセンからベルリンへ -プラハ、ベルリン-(異文化体験25 中・東欧の旅4)

2012年09月11日 11時08分15秒 | 異文化体験_中・東欧
(写真はクリックで拡大します)

幻のマイセンからベルリンへ -プラハ、ベルリン- 1995.9.28

 プラハとは今日でお別れ、チェコ紙幣

 28日、早目の朝食を取りホテルを出発しようとしていると、朝食に向かう私の出向元の大ボス一行とロビーでばったり。大ボスは東欧諸国を廻って帰国される由。小生は同行者と共にいざ中央駅へ。

 プラハ中央駅

 発車30分前に駅に着いたものの、出発列車案内にそれらしき列車が見当たらない。チケット売場に行って聞けども英語が通じず、案内所を駆けずり回ってやっと別の駅から発車することが分かった。

 早々にチケットの手配はしたのだが・・・

 間に合うか?と重い荷物を引きずりながら言われた駅にタクシーで5分前に到着。しかし、この駅でも出発列車案内にそれらしき列車が見当たらない。どうなっているの?と再度問い合わせると、もう一つ別の駅から出ると言う。なんと3つも駅があるという。

 プラハからベルリン方面に行く駅のホーム

 しかしである、時既に遅し! 諦めるしかしようがない。次の列車は12時18分とのこと。何と3時間近くあるではないか。ホテルでゆっくりしようや、という同行者の提案でホテルに戻ると、大ボス一行の出発と出くわす。「どうしたんや?」「いや、まあ、あのお・・」と、逆に見送る羽目に。

 この時間の列車に乗る予定ではなかったのだが・・

 同行者が丁度ボヘミアングラスを買いたかったとかで、ホテルのグラス売場の物色を始める。予定ではドレスデンで途中下車し、3時間ほどマイセン焼の工房を訪ねる予定が、幻のマイセンとなってしまった。残念無念!!

       
(左)プラハからドレスデン経由ベルリンへ  (右)本来ならここで途中下車のドレスデン駅

 お昼過ぎに出発したドレスデン、ベルリン経由ハンブルグ行きの列車は、プラハからヴルタバ川を支流に持つ全長約1091kmのエルベ川に沿って西北に渓谷沿いの景色を車窓に見せながら定刻通りドレスデンに到着。

           
(左)エルベ川沿いのお城、お城好きの同行者にはいい眺め (右)エルベ川の渓谷沿いに列車は走る

 本来ならマイセンに行ってこの列車でベルリンに向かうはずであったのだが、乗り過ごしては大変と午睡との戦い。ベルリン駅から市内のホテルまでは地下鉄を利用。無事ブダペスト通りのインターコンチネンタル・ベルリンにチェックイン。

  マイセン「泉の妖精」(参考)

 28年ぶりにベルリンの壁に穴があいたのは、1989年11月9日。12月22日には、東西ドイツを分離する象徴的なブランデンブルク門が開放され、当時の西独コール首相と東独ハンス・モドロウ大統領、そしてモンター西ベルリン市長が最初にこの門をくぐった際、熱狂的な歓喜の声が湧き上がったと新聞が報じている。あれから6年。東西330万人の人口を有するベルリンは、再び統一ドイツの首都として名乗りを挙げ、あちこちで都市改造が進んでいる。

 マイセンの刀デザインの推移

 ベルリンは15世紀からおよそ5百年間、ホーエンツオレルン家が統治し、区別出来ないほど沢山のフリードリッヒ・ヴィルヘルムが誕生した。
1740年から86年まで統治したフリードリッヒ大王は、今日のウンター・デン・リンデン通りを目抜き通りにし、オペラ劇場や王立図書館等の文化施設を整備し、この間人口も8万人から15万人に増加するなど、ベルリンを欧州の主要な都市に変身させた。

 1861年、ヴィルヘルムⅠ世がプロイセン王となり、71年ベルサイユ宮殿「鏡の間」でドイツ皇帝になると、このシュプレー川沿いの都市は人口82万人となり、文字通りドイツの首都となった。

 更に、1920年にはグレーター・ベルリンとして人口380万人にまで膨れ上がったが、1933年から45年の12年間はヒトラー支配下で第2次世界大戦により焦土と化した。1945年東(ソ連)西(米英仏)ベルリンに分割統治され、1961年8月13日にベルリンの壁が初めて築かれた。そしてその28年後。

 明日は、ポツダムとベルリンの今日をつぶさに見て廻ろう!