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カッパドキヤで清水の舞台-中部アナトリア2- 98.08.22
中部アナトリアの「カッパドキア」~アンカラ
中部アナトリアの最大の見所、カッパドキアの大奇岩地帯。大昔、アナトリア高原の火山の噴火によって溶岩と火山灰が幾重にも重なり、溶岩層や凝灰岩層が風雨に浸食され固い部分だけが残り、標高1000mを超えるアナトリア高原の中央部に100平方kmもの広さでユニークな形の大奇岩地帯を創り出した。
カッパドキアの奇岩地帯(ギョレメパノラマ)
また、カッパドキアはヒッタイト時代から重要な交易ルートの町として繁栄し、3世紀半頃からローマ帝国の弾圧を逃れたキリスト教修道士達が、柔らかい凝灰岩に洞窟を掘って信仰生活を送り、数々の教会やフレスコ画等を残している。
これらは、「ギョレメ国立公園とカッパドキア岩窟群」として世界遺産(複合遺産)に登録されている。
(左)ギョレメ屋外博物館 入場チケット (右)早朝のギョレメ屋外博物館 岩窟教会
標準的な一日観光コースは、北部のギョレメやゼルベの奇岩地帯と南部のカイマルク地下都市を巡るコースのようである。ゆっくり見れるようにという配慮でギョレメ屋外博物館の開門に一番乗り。ギョレメの谷には30近い岩窟教会がある。中には綺麗なフレスコ画や壁画が残っているものもある。
ウチヒサール「尖った砦」を中心に城塞村
尖った砦という意味のウチヒサールは、巨大な一枚岩の城塞村。多くの穴は鳩の巣用で糞を肥やしにして痩せた土地でブドウ畑を営んでいたようだ。デヴレントのラクダ岩やパシャパーの3本のきのこ岩等々、広大な高原には沢山の奇岩がありそうだ。ゼルベ峡谷にも教会や住居が多数あり、30年ほど前まで生活が営まれていたが、岩の崩壊の危険性が増したため今は無人となっている。
(左)パシャパー地区のきのこ岩群 (右)きのこ岩群を背景に
デヴレントのラクダ岩
南のカイマルクには、巨大な地下都市がある。カイマルク以外にもデリンクユ、マズ、オズコナック、タトラリン等の地下都市も発見されている。まるでインディ・ジョーンズの世界に迷い込んだような、地下迷路が縦横に走っている。
共同生活に必要な食料庫、ワイン製造所、厨房、食堂、寝室、礼拝堂、井戸、外敵防御扉等々が内部通気坑と共に地下5階までの巨大迷路空間に設置されている。一説には2万人が暮らしていたとも言われている。何ゆえにこのような生活をしなければならなかったのかは謎であるが、一時期アラブ人から逃れるためにキリスト教徒が住んだとも言われている。
(左)2万人が暮らしたという迷路の地下都市 (右)まるでインディ・ジョーンズの世界に
少し遅めの昼食は、洞窟をくり貫いた観光客が喜びそうな地下レストラン。世界3大料理の一つにトルコ料理が挙げられているが、小生にはいまいち合点がいかない。
あまり美味しいとも思えないし食べたものを覚えていない。ケバブ系の料理がほとんどであったような?
この地域に来ると、ターコイズブルーのガラスに白い目玉のような文様が書かれた丸いお守りが売られている。効用のありそうな立派なものから10個千円の掛け声のお土産用のものまで。
(左)石のテーブルに石の長椅子 地下レストランで昼食 (右)ギョレメのお土産のお守り
ここから首都アンカラまでは約4時間のバスの旅。今宵はアンカラ寝台特急に乗って出発点のイスタンブールへという旅程。
途中、トルコ絨毯の店に立ち寄る。トルコ民族はつい最近まで放牧を生業とし、最も重要な家財は絨毯であった。
羊毛を紡いで糸にし、草木染めで染めるのが一般的。いい絨毯とは、素材は天然繊維(100%シルクや100%ウール)、大きさは畳1畳以上、染は草木染め、織りは手織り、結び目が細かいもの、と言われている。目の前に様々な大きさと柄の絨毯が次々と並べられる。少し時間がたつと品物と値段の関係が何となく分かってくる。
ヘレケの絨毯の商談成立
最初は全く買う気はなかったが、女房が熱心に見入っている。近い将来、家を建て替える予定の我が家に出来れば一つと思ったのが、清水の舞台の入口に。女房と視線が合った時には、どっちにしようというところまで目がものを言っている。絨毯屋に悟られないように無関心を装いつつも、結局ヘレケの絨毯を購入することに。小生一人のカード決済額では足りないので女房のカードと折半で購入。
(左)リビングに敷かれた絨毯 (右)絨毯の角隅に産地の「HEREKE」の文字が織り込まれている
後日、船便で送られてきた絨毯は、現在新居のリビングに敷かれている。
が、今や我が家の愛犬ナナのお気に入りの場所になってしまっている。
カッパドキヤで清水の舞台-中部アナトリア2- 98.08.22
中部アナトリアの「カッパドキア」~アンカラ
中部アナトリアの最大の見所、カッパドキアの大奇岩地帯。大昔、アナトリア高原の火山の噴火によって溶岩と火山灰が幾重にも重なり、溶岩層や凝灰岩層が風雨に浸食され固い部分だけが残り、標高1000mを超えるアナトリア高原の中央部に100平方kmもの広さでユニークな形の大奇岩地帯を創り出した。
カッパドキアの奇岩地帯(ギョレメパノラマ)
また、カッパドキアはヒッタイト時代から重要な交易ルートの町として繁栄し、3世紀半頃からローマ帝国の弾圧を逃れたキリスト教修道士達が、柔らかい凝灰岩に洞窟を掘って信仰生活を送り、数々の教会やフレスコ画等を残している。
これらは、「ギョレメ国立公園とカッパドキア岩窟群」として世界遺産(複合遺産)に登録されている。
(左)ギョレメ屋外博物館 入場チケット (右)早朝のギョレメ屋外博物館 岩窟教会
標準的な一日観光コースは、北部のギョレメやゼルベの奇岩地帯と南部のカイマルク地下都市を巡るコースのようである。ゆっくり見れるようにという配慮でギョレメ屋外博物館の開門に一番乗り。ギョレメの谷には30近い岩窟教会がある。中には綺麗なフレスコ画や壁画が残っているものもある。
ウチヒサール「尖った砦」を中心に城塞村
尖った砦という意味のウチヒサールは、巨大な一枚岩の城塞村。多くの穴は鳩の巣用で糞を肥やしにして痩せた土地でブドウ畑を営んでいたようだ。デヴレントのラクダ岩やパシャパーの3本のきのこ岩等々、広大な高原には沢山の奇岩がありそうだ。ゼルベ峡谷にも教会や住居が多数あり、30年ほど前まで生活が営まれていたが、岩の崩壊の危険性が増したため今は無人となっている。
(左)パシャパー地区のきのこ岩群 (右)きのこ岩群を背景に
デヴレントのラクダ岩
南のカイマルクには、巨大な地下都市がある。カイマルク以外にもデリンクユ、マズ、オズコナック、タトラリン等の地下都市も発見されている。まるでインディ・ジョーンズの世界に迷い込んだような、地下迷路が縦横に走っている。
共同生活に必要な食料庫、ワイン製造所、厨房、食堂、寝室、礼拝堂、井戸、外敵防御扉等々が内部通気坑と共に地下5階までの巨大迷路空間に設置されている。一説には2万人が暮らしていたとも言われている。何ゆえにこのような生活をしなければならなかったのかは謎であるが、一時期アラブ人から逃れるためにキリスト教徒が住んだとも言われている。
(左)2万人が暮らしたという迷路の地下都市 (右)まるでインディ・ジョーンズの世界に
少し遅めの昼食は、洞窟をくり貫いた観光客が喜びそうな地下レストラン。世界3大料理の一つにトルコ料理が挙げられているが、小生にはいまいち合点がいかない。
あまり美味しいとも思えないし食べたものを覚えていない。ケバブ系の料理がほとんどであったような?
この地域に来ると、ターコイズブルーのガラスに白い目玉のような文様が書かれた丸いお守りが売られている。効用のありそうな立派なものから10個千円の掛け声のお土産用のものまで。
(左)石のテーブルに石の長椅子 地下レストランで昼食 (右)ギョレメのお土産のお守り
ここから首都アンカラまでは約4時間のバスの旅。今宵はアンカラ寝台特急に乗って出発点のイスタンブールへという旅程。
途中、トルコ絨毯の店に立ち寄る。トルコ民族はつい最近まで放牧を生業とし、最も重要な家財は絨毯であった。
羊毛を紡いで糸にし、草木染めで染めるのが一般的。いい絨毯とは、素材は天然繊維(100%シルクや100%ウール)、大きさは畳1畳以上、染は草木染め、織りは手織り、結び目が細かいもの、と言われている。目の前に様々な大きさと柄の絨毯が次々と並べられる。少し時間がたつと品物と値段の関係が何となく分かってくる。
ヘレケの絨毯の商談成立
最初は全く買う気はなかったが、女房が熱心に見入っている。近い将来、家を建て替える予定の我が家に出来れば一つと思ったのが、清水の舞台の入口に。女房と視線が合った時には、どっちにしようというところまで目がものを言っている。絨毯屋に悟られないように無関心を装いつつも、結局ヘレケの絨毯を購入することに。小生一人のカード決済額では足りないので女房のカードと折半で購入。
(左)リビングに敷かれた絨毯 (右)絨毯の角隅に産地の「HEREKE」の文字が織り込まれている
後日、船便で送られてきた絨毯は、現在新居のリビングに敷かれている。
が、今や我が家の愛犬ナナのお気に入りの場所になってしまっている。