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我が開発地はモナコになりえるか? -モナコ- 1992.7.26~28
イタリア・リビエラ海岸に沿って列車が通る
ジェノヴァを定刻14:13に発車したDiretto2157は日本で言えば準急列車。1等車両は6人乗りのコンパートメントであるが、乗客は少なく独占状態。列車はティレニア海沿いに西にひた走る。進行方向左手にはイタリア・リビエラのリゾート海岸が続く。民宿に毛が生えた程度のホテルと色とりどりのパラソルが延々と続く。海岸はトップレスの陳列会。モナコ国境に近づくとリゾートの様相が一変する。音楽祭で有名なサンレモは高級リゾートの感が拭えない。
イタリア・リビエラ海岸の民宿、プチホテル
列車がヴェンティミリアに着くと沢山の人達が列車を降りる。隣のコンパートメントで一人旅の女子学生に「モナコはこのままで良いのか?」と聞くと、彼女も分からないらしくイタリア語で数人に聞いてくれた結果、我々の車両が切離されるので前の車両に乗り換える必要があると言う。
大慌てで移ると、2等車両は若い学生で満員。ギターを弾きながら歌の合唱。そのうち国境警備隊の検札が始まるとパスポートチェック。小生には「ヤポーネ?」と言うので「シー」と言うとチェックもなし。
(左)断崖を切り開いたようなモナコの街(遠くALPSの冠雪峰々が) (右)棚田のような都市的風景
列車内は何の放送もなく駅で止まり降りる人は自分で扉を開けて降りるといった具合で、小生の目はひたすら駅に着く度に駅名を追う。予定では19:28到着だが列車が遅れていて良く分からない。写真で見た記憶の景色が車窓に映り列車が止まる。駅が短すぎて駅名が分からない。例の女子学生に「Monte-Carlo?」と聞くと「そうだ!」と言う。慌てて降りると、他の旅行者が「Monte-Carlo?」と小生に聞く。こっちが聞きたい位なのに「たぶんね」と言って、やっと駅名を確認すると「MONACO Monte-Carlo」。やれやれ。
(左)新たにオープンしたABELLA HOTEL (右)ホテルの裏には断崖が迫る
タクシーは何とベンツ、比較的新しい「Abella Hotel」へ。リラしか持ち合わせがないので運転手にリラでも良いかと言うと15000リラも請求してくる。フランではせいぜいその半額なのに。でも、ここは世界的な高級リゾート、チップもそれなりに・・・。
案内役のマドマゼルYからの電話が午前10時丁度に部屋に入る。運転手付のベンツと彼女が2日間の視察に付き合ってくれる。早速モナコ市内に繰り出す。
モナコの代表的な景色(左)50haの内水面を取巻く市街地 (右)カジノ(左側)とホテル・ド・パリ(右側)
モナコ湾内水面と我が開発地の泊地が丁度同じ大きさとあって、モナコのイメージを我が開発地に造ろうと構想している。しかし断崖にへばり付いた建物の立体感、海の綺麗さ、マリーナに浮かぶ豪華ヨット、蛇のようにくねる道路、下の建物の屋上が上の建物のテラスや公園、それらを利用した歩道とエレベータ、公共空間と私的空間の融合、どれをとっても研究素材に事欠かない。
夜のグラン・カジノ周辺 正装した大人達が高級車で乗り付ける(Wikipediaより)
わずか195haに人口32000人、しかもSBM(海水浴会社)がその1/12を所有し、その76%が庭園、11%が公道という。収入の50%が間接税、20%が国家専売権使用料、25%が輸出税、残りの5%がカジノ収入と、最近はカジノ依存率が極めて小さい。
(左)モナコ大公宮殿の衛兵交代式 (右)海洋博物館
財政規模は25億フラン(1000億円程度)の小国家は、その社会的ステイタスの高さでコンベンションと世界の富豪のリゾート地として活路を見出している。今から約100年前、19世紀末から第1次世界大戦の間を欧州では「ベル・エポック」と呼んでいる。古き良き時代、美しい時代として文化的頂点を極めた。当時そのメッカがここ「モナコ」であり、「モナコには手を出すな!」が彼等の合言葉であった。
(左)現大公(アルベール2世)の母、グレース・ケリー (右)彼女のために開発されたバラ「Princess de Monaco」
Hotel De Paris, Hotel Mirabeau, Hotel Hermitage, Hotel Monte-Carlo等々、壮麗な建築美と社交界、レニエⅢ世とグレース・ケリーの世界、これらに匹敵するハードとソフトを我が開発地は造り出せるのか?
(左)街の中心 モナコ・モンテカルロ地区 (右)周辺部では建設の槌音があちこちから・・・・
それにしても中産階級の一人旅ではどうしようもない街、モナコである。
我が開発地はモナコになりえるか? -モナコ- 1992.7.26~28
イタリア・リビエラ海岸に沿って列車が通る
ジェノヴァを定刻14:13に発車したDiretto2157は日本で言えば準急列車。1等車両は6人乗りのコンパートメントであるが、乗客は少なく独占状態。列車はティレニア海沿いに西にひた走る。進行方向左手にはイタリア・リビエラのリゾート海岸が続く。民宿に毛が生えた程度のホテルと色とりどりのパラソルが延々と続く。海岸はトップレスの陳列会。モナコ国境に近づくとリゾートの様相が一変する。音楽祭で有名なサンレモは高級リゾートの感が拭えない。
イタリア・リビエラ海岸の民宿、プチホテル
列車がヴェンティミリアに着くと沢山の人達が列車を降りる。隣のコンパートメントで一人旅の女子学生に「モナコはこのままで良いのか?」と聞くと、彼女も分からないらしくイタリア語で数人に聞いてくれた結果、我々の車両が切離されるので前の車両に乗り換える必要があると言う。
大慌てで移ると、2等車両は若い学生で満員。ギターを弾きながら歌の合唱。そのうち国境警備隊の検札が始まるとパスポートチェック。小生には「ヤポーネ?」と言うので「シー」と言うとチェックもなし。
(左)断崖を切り開いたようなモナコの街(遠くALPSの冠雪峰々が) (右)棚田のような都市的風景
列車内は何の放送もなく駅で止まり降りる人は自分で扉を開けて降りるといった具合で、小生の目はひたすら駅に着く度に駅名を追う。予定では19:28到着だが列車が遅れていて良く分からない。写真で見た記憶の景色が車窓に映り列車が止まる。駅が短すぎて駅名が分からない。例の女子学生に「Monte-Carlo?」と聞くと「そうだ!」と言う。慌てて降りると、他の旅行者が「Monte-Carlo?」と小生に聞く。こっちが聞きたい位なのに「たぶんね」と言って、やっと駅名を確認すると「MONACO Monte-Carlo」。やれやれ。
(左)新たにオープンしたABELLA HOTEL (右)ホテルの裏には断崖が迫る
タクシーは何とベンツ、比較的新しい「Abella Hotel」へ。リラしか持ち合わせがないので運転手にリラでも良いかと言うと15000リラも請求してくる。フランではせいぜいその半額なのに。でも、ここは世界的な高級リゾート、チップもそれなりに・・・。
案内役のマドマゼルYからの電話が午前10時丁度に部屋に入る。運転手付のベンツと彼女が2日間の視察に付き合ってくれる。早速モナコ市内に繰り出す。
モナコの代表的な景色(左)50haの内水面を取巻く市街地 (右)カジノ(左側)とホテル・ド・パリ(右側)
モナコ湾内水面と我が開発地の泊地が丁度同じ大きさとあって、モナコのイメージを我が開発地に造ろうと構想している。しかし断崖にへばり付いた建物の立体感、海の綺麗さ、マリーナに浮かぶ豪華ヨット、蛇のようにくねる道路、下の建物の屋上が上の建物のテラスや公園、それらを利用した歩道とエレベータ、公共空間と私的空間の融合、どれをとっても研究素材に事欠かない。
夜のグラン・カジノ周辺 正装した大人達が高級車で乗り付ける(Wikipediaより)
わずか195haに人口32000人、しかもSBM(海水浴会社)がその1/12を所有し、その76%が庭園、11%が公道という。収入の50%が間接税、20%が国家専売権使用料、25%が輸出税、残りの5%がカジノ収入と、最近はカジノ依存率が極めて小さい。
(左)モナコ大公宮殿の衛兵交代式 (右)海洋博物館
財政規模は25億フラン(1000億円程度)の小国家は、その社会的ステイタスの高さでコンベンションと世界の富豪のリゾート地として活路を見出している。今から約100年前、19世紀末から第1次世界大戦の間を欧州では「ベル・エポック」と呼んでいる。古き良き時代、美しい時代として文化的頂点を極めた。当時そのメッカがここ「モナコ」であり、「モナコには手を出すな!」が彼等の合言葉であった。
(左)現大公(アルベール2世)の母、グレース・ケリー (右)彼女のために開発されたバラ「Princess de Monaco」
Hotel De Paris, Hotel Mirabeau, Hotel Hermitage, Hotel Monte-Carlo等々、壮麗な建築美と社交界、レニエⅢ世とグレース・ケリーの世界、これらに匹敵するハードとソフトを我が開発地は造り出せるのか?
(左)街の中心 モナコ・モンテカルロ地区 (右)周辺部では建設の槌音があちこちから・・・・
それにしても中産階級の一人旅ではどうしようもない街、モナコである。
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