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旅行記、世相独言

ヨーロッパへの窓 -サンクトペテルブルグー  (異文化体験47 ロマノフ王朝文化に浸る旅2) 

2015年08月16日 23時11分33秒 | 異文化体験_中・東欧
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ヨーロッパへの窓 -サンクトペテルブルグ-   2015.7.08-11

 自宅を朝5時前に出て8時伊丹空港発のJAL機で成田、そしてモスクワに、更にS7航空S7043便でサンクトペテルブルグ、プルコヴォ国際空港に到着したのが、午後19時30分。時差を考慮すると、約20時間強が経っている。LADOGAというこじんまりしたホテルにチェック・インし、バスタブで疲れを癒し、寝床についたのは丁度一昼夜経った午後11時半頃。

      
                (左・右)ホテル・ラドガ(LADOGA)外観と場所

    
(左・中・右)日本人にとってウォッシュレットのない外国のトイレは辛いが、ここは多分ビデ(右写真)がその代用に。

 時差の関係で夜中に何度か目を覚ますが、北極圏までわずか700kmの当地では、窓外は白夜のようにいつまでも薄明るい。


  
(左)ピヨートル大帝時代のヨーロッパ  (中)上空写真        (右)ピーテルの初期の街づくり(1703年~)

 サンクト・ペテルブルグ、レニングラード、ペトログラード、沢山の名前を持つこの町も、今は「ピーテル」という愛称で市民に愛されている。
 200年間(1713-1918)、ロシア帝国の首都として栄えたピーテルも、その誕生は1703年のことである。当時の強国スウェーデンの勢力圏内にあったネヴァ川河口三角州の湿地に、ヨーロッパに通じる窓口を造ろうとした人物がいた。それが、ピヨートル1世(大帝)である。タタールの軛(くびき)によって長らくヨーロッパ文化から切り離された国がヨーロッパへの窓を造ろうとしたのである。

        
(左)ピヨートル大帝         (右)大工姿に扮したピヨートル帝(通称:王様の船大工)      

 バルト海の東部、フィンランド湾の最奥部のこの地は、バルト海、ネヴァ川、ラドガ湖、更にロシア内陸部への水路網の形成という意味で戦略的重要性を有しており、更にノヴゴロド等ロシア発祥の地とも言える重要な場所で、それに目をつけたのがピヨートル大帝である。彼はどことなく織田信長に似ている。若い頃、西欧大使節団を送りながら自らも身を隠してその一員に加わり、オランダで船大工として技術取得を図るなど、やや天衣無縫な行動が見られる。

    
(左)初期のサンクト・ペテルブルグ     (右)うさぎ島のペテロパブロフスク要塞と尖塔が特徴のペテロパブロフスク聖堂

 街づくりは、まず、うさぎ島にペテロ・パブロフスク要塞を建設することから始まり、ペテロ・パウロ寺院等を建立、その後のピヨートル在位20年間に首都にふさわしい街に成長した。お手本にした街が水の都アムステルダムというのだが、ヴェネツィアにしろアムステルダムにしろ、ピーテルのスケール感とは比べ物にならない。ただ、この荒地での急な街づくりは多くの犠牲者を出し、更に松杭上の街は他と同様に今日でも沈下や洪水に悩まされ続けている。

    
(左)宮殿橋から見たネヴァ川(さしずめベニスで言えばグラン・カナル) (右)多くの橋は中央部が可動橋

    
(左・右)アムステルダムが手本という街中のカナル 多くの船が行き交う

    
(左)(冬宮の)宮殿広場(正面エルミタージュ)  (右)メインストリート「ネフスキー大通り」の百貨店

    
(左)ネフスキー大通りのカザン聖堂    (右)デカブリスト広場の青銅の騎士像とイサク聖堂

ロシアの文豪と言えば、日本ではトルストイ、ドストエフスキー等々が有名だが、ロシア国内で圧倒的人気を有するのが国民詩人プーシキン。彼の叙事詩「青銅の騎士」は、ピヨートルの街づくりへの想いを以下のように詩っている。

    
(左)芸術広場のプーシキン像   (右)青銅の騎士像 台座に「エカテリーナ2世からピヨートル大帝へ」

荒涼たる河の岸辺
壮大な想いを充ちて 彼は立ち 遠方を見つめていた。 彼の前を広びろと 河は流れ
流れに沿って ただひとつ 見るかげもない丸木の舟が走っていた。 
苔むした両岸の湿地帯には 赤貧のフィン族の住む丸太の小屋が そちこちに黒ぐろと見え 
霧にかくれた太陽の 光もとおさぬ密林が あたり一面 ざわめいていた。
彼は思った。 ここにこそわれわれは都市を築こう。 われわれがヨーロッパへの窓をあけ 
海辺にしっかと足をふまえて立つのはここだと 自然がきめてくれているのだ。 
やがて とりどりの旗を挿した客人たちが 未知の波濤を越えてここにやってくる。 
そのときは心のどこかで宴を張ろう。

(プーシキン「青銅の騎士」木村彰一訳(抜粋)、「サンクトペテルブルグ」小町文雄著 中公新書より)

日本の俳句や和歌の調べのように、このプーシキンの叙事詩はロシア語の流れで独特の調べがあるとロシアの人々が言うが、残念ながらロシア語を解さない私にはわからない。

さあ、明日からはロマノフ王朝、ピヨートル大帝が創った街をしっかり見てみよう!


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