維新ゆかりの地を巡る -禁門の変と京都御所と山桜-
2018年3月31日、阪急交通社とJR西日本の共同企画のイベントに参加してきました。NPO法人都草の案内で、桜満開のこの時期に京都府庁旧本館、京都御所、京都御苑を半日かけて巡ってきました。
まず訪れたのが京都府庁旧本館。1904年竣工の煉瓦造りの建物で国の重要文化財です。幕末維新時は、京都守護職上屋敷があった場所で、旧本館中庭にはこの時期「祇園枝垂れ桜」を中心に「紅八重枝垂れ桜」「大島桜」「容保桜」「紅一重枝垂れ桜」「はるか桜」が満開で、観桜祭も開かれて市民の憩いの場となっています。
人類初の有人宇宙飛行士ガガーリンも来日時に訪れた旧本館は解放されているので、これらの桜を2階から同じ高さの目線で見ることが出来ます。
京都府庁旧本館の案内パンフ 正門から撮影
今年の観桜祭の案内パンフ パンフの府庁舎桜の案内
議場内部(2階席は記者席) 2階から同じ目線で桜鑑賞可能 明治の波打つガラス窓越に桜を見る
「容保桜」は、大島桜と山桜の特徴を併せ持つ桜だそうで、当時の京都守護職・松平容保公の名がつけられています。一方、「はるか桜」は、復興応援のシンボルとして寄贈された桜で、NHK大河ドラマ主演綾瀬はるかさんが命名した桜だそうです。
中庭の桜(右:祇園枝垂桜 中:大島桜 左:容保桜) はるか桜(福島・東北復興を願いNHK大河八重の桜主演綾瀬はるか命名の桜)
御所への道すがら、社会福祉と保育の先駆者「和気清麻呂と広虫」を主神とする護王神社
次に、京都人が「今、天皇はお出かけになっている」と言う京都御所に移動、御所は秋の一般公開に次いで2度目。現在の京都御所の場所は、1331年光厳天皇即位後、明治天皇がお出掛けになるまでの約500年間、天皇のお住まいとして使用されたもの。
幕末期の「王政復古の大号令」「小御所会議」「五箇条の御誓文の発布」、明治・大正・昭和の天皇の即位礼が行われた歴史的舞台です。
京都御苑(蛤御門は御所南通りと烏丸通りの接点) 京都御所
それより4年ほど前、1863年8月19日の三条実美ら七卿落(8月18日の政変)後、長州藩では進発論が盛んになり挙兵を決意、1864年7月、3手に分かれて布陣、中でも蛤御門を突破した木島又兵衛隊と会津・桑名藩兵は大激戦となり、これに薩摩藩兵が加わり、結果長州藩の木島、久坂、真木等の勇士は戦死・自刃。市内は放たれた火で三日三晩燃え続け、市内の2/3が焦土と化し、「鉄砲焼け」「どんどん焼け」と言われています。この変が禁門の変(別名、蛤御門の変)と言われています。
御所の出入り口は清所門から。手荷物検査の後、出入りチェックに使われる番号タグが渡されます。御車寄→諸大夫の間→新御車寄を経て、南の建礼門、その北側に承明門越しに入母屋造、桧皮葺屋根の紫宸殿。紫宸殿前の南庭には東側に今まさに満開の左近の桜、西側に右近の橘が植えられています。
東側を北上し、清涼殿→小御所→御学問所→その前に広がる御池庭→御常御殿→その前に広がる御内庭→御台所跡を通って清所門に戻ります。
新御車寄せ 紫宸殿(内部に高御座、左近の桜が満開) 18段の階段
清涼殿(天皇の日常の御殿) 御池庭(池泉回遊式庭園)
小御所(小御所会議が開催、手前広場は蹴鞠広場、右側に御学問所と続く) 御内庭
御学問所では、1867年12月8日の朝議で、①長州藩主毛利敬親・定広父子の官位復活と入京許可、②三条実美ら五卿の放免、官位復旧、帰京、③岩倉具視ら謹慎中の6名の出仕が決められ、その後王政復古の大号令(①慶喜の将軍職辞職の許可、②新政権と天皇親政、③総裁・議定・参与の三職を置く、等々)が発せられました。
また、小御所では、12月9日夕刻より幼い明治天皇の御前で王政復古の大号令を受け、初の三職会議が開催され、徳川慶喜の処分について議論が闘わされました。領地と官位を返納すべきとする岩倉具視、慶喜を擁護する山内容堂、会議は深夜にまで及んだが、最終的に徳川慶喜の辞官納地が決定したようです。
この後、混乱を避けるため慶喜は大阪に移ったが、辞官納地に不満を持つ旧幕府側は京都に向け進軍、1868年1月3日鳥羽伏見で新政府軍との戦争が始まり、1年半にわたる戊辰戦争のきっかけとなった、という解説が都草のボランティアさんからありました。
10時からスタートしたこのツアー、この段階で13時。皆さん、お腹が空いて、歩いた距離も1万3千歩。都草ボランティアの案内で京都御苑内御所の北西側(今出川側)の旧近衛邸跡で、糸桜を見ながらの弁当昼食で解散となりました。配られたお弁当は、なだ万の春の新作2段弁当でした。
京都御苑内の御所の北西「旧近衛邸跡」に咲く満開の桜
旧近衛邸跡の糸桜を愛でながら、なだ万のお弁当で昼食
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