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2200年前の地下大軍団 -西安ー 1995.11.07~11.10
西安の解説書「絲綢之路的起點」=シルクロードの起点
紀元前1134年、周に築かれた都は以来11王朝の都として1000年以上栄え、唐代には「長安」と名を変え、シルクロードの東の起点として栄えた都、「西安」。
華清池は、唐代玄宗皇帝が楊貴妃を伴って毎年越冬した温泉。「春寒くして浴を賜う華清池温泉水滑らかにして凝脂に注ぐ」と白楽天が詠んだ場所。それほど大きくない池を取り囲んで建物が配され、楊貴妃が使ったとされる湯殿も復元されている。
楊貴妃がどこかから現れそうな早朝の華清池
朝、皆に散々冷やかされたF君も二日酔い状態ではあるが、元気な姿で参加している。
華清池から兵馬俑坑への途中に秦始皇帝陵がある。西安市の東30kmにある何の変哲もない高さ47mの丘であるが、実は盛り土だそうで、史記には想像を絶する地下宮殿があったと記されている。
バスの車窓から見た始皇帝陵墓
始皇帝陵南東約2kmの所に秦始皇帝兵馬俑坑博物館がある。始皇帝は生前に陵墓を造営し、それを守る兵馬俑坑を建設した。俑とは死者を葬る時に添える土偶の意味である。
20年前の1974年、地元の農民が井戸を掘っている時に地下に埋もれた一大歴史遺産が発見された。発見された1号坑は最も大きなもので、東西230m、南北62m、深さ4.5~6.5mの所に6000体の陶塑の衛士と軍馬が東を向いて眠っていた。
(左)秦始皇帝兵馬俑博物館 (右)兵馬俑の解説書(人民中国出版社)
2200年前の地下大軍団 秦始皇帝の兵馬俑(人民中国出版社)
2200年前の武人と記念撮影(博物館入口にて)
現在3号坑まで確認されているようだが、1.8mくらいある兵士の衣装、表情、髪型等、どれ一つ同じものはないと言う。およそ千点の金銀の装飾具をつけた、今にも走り出しそうな4頭だての青銅製の馬車。始皇帝の駿馬は史書に7頭の名が伝えられている。この銅製の車馬は、当時万里を馳駆した馬車と駿馬をモデルにしたものなのであろう。
このような高度の技術を有する中国の文明に驚嘆せざるを得ない。
(左)1号銅車馬 (右)2号銅車馬
博物館前の土産物売り場
市内に戻り、大雁塔で有名な大慈恩寺に立ち寄る。大雁塔は、寺の住持であり三蔵法師で有名な玄奘がはるかシルクロードを経てインドから持ち帰った経典を納めるために建造された。7層64mの塔の最上部からは西安の街が一望出来る。
西日に映える大雁塔
晩秋の太陽が西に傾き、薄暗くなり始めたシルクロードの東の都は、1周12kmの城壁で取り囲まれている。唐の長安城の皇城を基礎に明代に造られた城壁で、4つの城門とそれぞれに角楼を備えている。人影のないそのうちの一つに昇ってみる。西日に映える無人の角楼、家路に急ぐ人々の流れ、2000年の時の流れが回り灯篭のように空想の中に展開される。そして、視界の中には近代中国の躍進の波がこの内陸部の古都にまで及んでいる。
夕暮れの城壁に建つ何か物悲しさを感じる角楼
今夕は、調査団の解散式。市内のレストランで中国内陸部の3大都市訪問の様々な印象を語り合い、白酒抜きの身内の宴が盛り上がった頃、レストラン内で新作チャイナドレスのファッションショーが行われるという。
こりゃ、ついてるね!と一同すっかりおじさんになって、ショーの始まるのを待つ。ピンク、赤、白、黄、緑5色のドレスを身に纏ったモデルが我々の前でファッションショーを繰り広げる。大きく割れた背中とスリットの間に見え隠れするすらりと伸びた脚に目線が釘付けに。全体的にスリムな中国娘にあって容姿端麗なモデルが通り過ぎる度に甘い香水の香が中国最後の夜を癒してくれる。
何故かレストランでのファッションショー
成長著しい沿岸部と未だ遅れている内陸部、経済格差はそう簡単に埋まりそうにない。今は全体として順調に経済成長が続き、皆が生活レベルの向上感を味わっているため、さほど問題が表面化しないだろうが、経済が停滞しだすとこの内々格差が国内事情に悪さをしなければ良いが……..。
2200年前の地下大軍団 -西安ー 1995.11.07~11.10
西安の解説書「絲綢之路的起點」=シルクロードの起点
紀元前1134年、周に築かれた都は以来11王朝の都として1000年以上栄え、唐代には「長安」と名を変え、シルクロードの東の起点として栄えた都、「西安」。
華清池は、唐代玄宗皇帝が楊貴妃を伴って毎年越冬した温泉。「春寒くして浴を賜う華清池温泉水滑らかにして凝脂に注ぐ」と白楽天が詠んだ場所。それほど大きくない池を取り囲んで建物が配され、楊貴妃が使ったとされる湯殿も復元されている。
楊貴妃がどこかから現れそうな早朝の華清池
朝、皆に散々冷やかされたF君も二日酔い状態ではあるが、元気な姿で参加している。
華清池から兵馬俑坑への途中に秦始皇帝陵がある。西安市の東30kmにある何の変哲もない高さ47mの丘であるが、実は盛り土だそうで、史記には想像を絶する地下宮殿があったと記されている。
バスの車窓から見た始皇帝陵墓
始皇帝陵南東約2kmの所に秦始皇帝兵馬俑坑博物館がある。始皇帝は生前に陵墓を造営し、それを守る兵馬俑坑を建設した。俑とは死者を葬る時に添える土偶の意味である。
20年前の1974年、地元の農民が井戸を掘っている時に地下に埋もれた一大歴史遺産が発見された。発見された1号坑は最も大きなもので、東西230m、南北62m、深さ4.5~6.5mの所に6000体の陶塑の衛士と軍馬が東を向いて眠っていた。
(左)秦始皇帝兵馬俑博物館 (右)兵馬俑の解説書(人民中国出版社)
2200年前の地下大軍団 秦始皇帝の兵馬俑(人民中国出版社)
2200年前の武人と記念撮影(博物館入口にて)
現在3号坑まで確認されているようだが、1.8mくらいある兵士の衣装、表情、髪型等、どれ一つ同じものはないと言う。およそ千点の金銀の装飾具をつけた、今にも走り出しそうな4頭だての青銅製の馬車。始皇帝の駿馬は史書に7頭の名が伝えられている。この銅製の車馬は、当時万里を馳駆した馬車と駿馬をモデルにしたものなのであろう。
このような高度の技術を有する中国の文明に驚嘆せざるを得ない。
(左)1号銅車馬 (右)2号銅車馬
博物館前の土産物売り場
市内に戻り、大雁塔で有名な大慈恩寺に立ち寄る。大雁塔は、寺の住持であり三蔵法師で有名な玄奘がはるかシルクロードを経てインドから持ち帰った経典を納めるために建造された。7層64mの塔の最上部からは西安の街が一望出来る。
西日に映える大雁塔
晩秋の太陽が西に傾き、薄暗くなり始めたシルクロードの東の都は、1周12kmの城壁で取り囲まれている。唐の長安城の皇城を基礎に明代に造られた城壁で、4つの城門とそれぞれに角楼を備えている。人影のないそのうちの一つに昇ってみる。西日に映える無人の角楼、家路に急ぐ人々の流れ、2000年の時の流れが回り灯篭のように空想の中に展開される。そして、視界の中には近代中国の躍進の波がこの内陸部の古都にまで及んでいる。
夕暮れの城壁に建つ何か物悲しさを感じる角楼
今夕は、調査団の解散式。市内のレストランで中国内陸部の3大都市訪問の様々な印象を語り合い、白酒抜きの身内の宴が盛り上がった頃、レストラン内で新作チャイナドレスのファッションショーが行われるという。
こりゃ、ついてるね!と一同すっかりおじさんになって、ショーの始まるのを待つ。ピンク、赤、白、黄、緑5色のドレスを身に纏ったモデルが我々の前でファッションショーを繰り広げる。大きく割れた背中とスリットの間に見え隠れするすらりと伸びた脚に目線が釘付けに。全体的にスリムな中国娘にあって容姿端麗なモデルが通り過ぎる度に甘い香水の香が中国最後の夜を癒してくれる。
何故かレストランでのファッションショー
成長著しい沿岸部と未だ遅れている内陸部、経済格差はそう簡単に埋まりそうにない。今は全体として順調に経済成長が続き、皆が生活レベルの向上感を味わっているため、さほど問題が表面化しないだろうが、経済が停滞しだすとこの内々格差が国内事情に悪さをしなければ良いが……..。
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