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昨日記151115日(健康・私の寿命と終活<追>・絆  塔本ひろこ展・花ものがたり)追

2015年11月16日 14時08分38秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
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14日夜寝る前に目覚ましを切って寝たので、昨日の起床は8時前だった、
起床が遅くなったのと、最近かなり不規則な生活になり、食事時間も乱れ食事時間も遅くなっていて、昨日朝はなんとなく胃がすっきりしないので、朝食を抜いた。

アメリカでは、休日の朝食は、ブランチと称し、朝食抜きで昼ごはんと兼用していたし、私が若いころは平日も朝食抜きのライフスタイルが若者の間で流行っていて、私も長い間朝食を意図的に抜いていた。
今では、ばかなことをしたと思うが、当時の栄養学の知識はそれほど発達しておらず、栄養といえば、炭水化物にタンパク質とビタミンが主で、塩分や脂質の取りすぎとか、ましてやメタボといった概念は全くなく、当然サプリもない。
スポーツでは、運動中は水を飲まないのが常識で、今では足を痛めるということでやらない、うさぎ跳びがよく行われていた。
私が生きてきた70年余りの間に、医学・生理学の進歩により健康や栄養に関する知識や考え方は全く違ったものになった。

私が中学生の頃は60歳代といえば、腰の曲がったおじいさんを想像し、60歳から80歳の間に亡くなるのが常識で80代以上といえば長寿で珍しかったが、今では80歳まで生きる人は普通で90歳でも長寿と思うが驚いたりしない。
私は今70代になったが、ジムに通い自己記録のさらなる向上を目論んでいる。

今年のNHKの番組で健康に関する未来予測をした番組があったが、その中で数10年後には平均寿命が100歳に達するというような研究者の予測を伝えていた。
私の現状や、同窓会の参加者の健康状態や、医学の進歩を見るとそういう可能性もありそうだと思っている。
ただ、中年になって健康に配慮していない人は、生活習慣病になる人が多いようだが、生活習慣病は、運動することで、かなり防げる可能性があるという。
どうせ長生きするなら、元気で動ける体で、できるだけ長い期間過ごしたいと思う。
というのは、人間すべての人が死ぬ前に必ず体の機能が衰え老衰状態となって寝たきりとなる期間があるという。
その期間は短いほうがいいに決まっている。
私なんかは、貧困の独居老人なので、自活できなくなれば、どこかの施設に引き取られるのだろう。

そういえば、私が好きだった俳優の山城新伍は、誰にも告げず、施設でさみしくなくなったのを思い出す。
たとえ、家族がいても独居老人状態で亡くなる人も多いのかもしれないと思っている。
というのは、私の兄はパーキンソン病で長期入院し、いくつかの病院を転院したが、その間私は週1回以上見舞いに行ったので、病院の同室の人達や付き添いの人や看護師からそうした可能性のある話をきいたのだ。
たとえば、長期入院していてよく見舞いに来る家族は、全体的にかなり少ないという話は、いろんな人や病院関係者から聞いた。
そのうちの何人かは、自分の子供は、それなりの社会的地位のある仕事をしているのに、月に一回程度しか見舞いに来ないし、来てもすぐ帰るとぼやいている患者さんや、家族がいるのに全然見舞いに来ない患者がいるという話も複数聞いた。
そうした話は、家族がいても独居老人状態で亡くなる可能性を想像させるのに十分だ。
(多分、トータル数十人程度から聞いた話だが、殆どの違う病院の患者や看護師からそうした話を聞いたということは、稀な話ではないようだ。)

こうした話は家族の絆と関係する。
大震災以来「絆」が、強調されるが、絆は作っていかなければ出来ないものではないかと思う。
混乱時は、みんな必死で協力し絆が生まれるが、やがて落ち着く自由を求めるようになり、その絆が煩わしくなる。
「絆」はある意味おせっかいでもあるし時に負担でもあるし、さらに心情的に義理人情や一方的思いやりに根差した拘束力も持っている。
それでも、弱者は絆に支えられるより生きるすべはないし、関係者はその絆を守る義務感を感じる人も多いのだろう。
家族ですら、お互いに自由を求める家族観では、絆はなく家族崩壊や仮面夫婦になる。
家族の絆については、多分大きく次の3パターンに分かれるのではないかと想像している。
御互い殆ど干渉しない冷たく独立した個人の集合体。お互い多少の自由を制限し個々の独立はある程度許し認め合って共同生活する緩やかな集合体。お互いの独立を意識せず個人のすべてを共有する集合体。(最後の例の場合は、家父長の独裁か、昔の長屋的(寅さん的世界)な敷居のない全員平等的関係になる。)

健康や寿命の事を書いているうちに、なんかつまらぬ話に脱線してしまった。
普段私は健康のことはよく考えるが、終末期の事は考えないというより、結論ははっきりしていて、多分現状では貧困の独居老人で死ぬであろうから、無縁仏として行政処理に任すだけだと思っている。
それまでに、周囲に迷惑をかけないように終活はきっちりとしたいと思っていて、今のところ全く進んでいないが、私の終活は持ち物の処分が中心だが、動ける間は、生活や社会的活動や趣味は、体力に応じて積極的に活動するつもりだ。
単純に、歳相応に活動を縮小するつもりは全くないが、体力が衰えればそれに応じて縮小する予定だ。
私は100歳までは生きるつもりでいて、90後半までは体の機能を健康に保ち自活できる状態に維持したいと思い、日々努力している。
ジム通いもそのためであるが、私が積極的にジムに通うのは、そうした後ろ向きの考えは全くなく、今を積極的に楽しむためには気力体力を充実させなければ楽しめないと思いからである。
実際、私の体力は、50代でギャラリーを経営していた時より筋力や持久力もかなり強くなっていて、50代のころも、よく京都のギャラリーも回ったが、回った後かなり疲れを感じていたが、今は同じコースを歩いても、ほとんど疲れを感じなくなった。
そうしたことを見ると私が目指した肉体強化は、成果を上げてきたと思っている。
(この段落は、2018年9月25日に一部追加・確認した。現在もジムに通い体力の衰えはほとんどないが、中年のビジネスマンと比べ多少歩行速度が遅くなっているようだ。少なくとも2018年9月現在、筋力では50代後半から60代の一般ホワイトカラー系男性と比べて引けを取らないと考えている。)

余談が連続して長くなった。
さて、昨日は午前中一昨日の続きの副食製造を続け、10食分を完成させた。
午後からJR高槻駅東の駅前ビル(グリーンプラザ3号館)にあるギャラリーマーヤ(高槻市紺屋町3-1-216 駅の陸橋からそのまま南東にあるビルの2Fに行ける)で17日まで開かれている塔本ひろこ展「花ものがたり」に行った。
塔本さんご一家とは、ギャラリー時代からのお世話になっていて、シスコさん・賢一さん・ひろこさん・研作さんとご一家の展覧会も開かせてもらっていた。
賢一さんの母であるシスコさんは、亡くなられた後も多くの美術館や公的ギャラリーで大規模な企画展が開かれ、作品が美術館に収蔵されている。塔本シスコさんの画集や本も出版されている。
賢一さんも、メジャーな現代美術コンクールで何度も受賞し国立近代美術館をはじめいくつかの美術館や企業にコレクションされている。
賢一さんの妻であるひろこさんも毎年個展を開催し、多くのファンを持っている。
近年は、花ものがたりシリーズで作品を発表していて、メルヘンチックな作品は、多くの人の心を和やかにし、いやしている。

昨日、ギャラリーマーヤに行くと、壁面には大作も含めひろこさんの作品が展示され、ギャラリーはメルヘンチックなやさしい空気に包まれていた。
ギャラリーの中央のテーブルを囲んでご夫妻がおられ、来客も次々と訪れ、来場者の方たちも含め話が弾み楽しい会話が続いた。


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