毎朝、同じ電車に乗る、ひとりの男性がいる。恐らく三十歳代であろう
その人を見るたび、私はどょ~んと暗い気持ちになってしまうのである。
その理由だが、不潔そうだから? 違う、違う。スケベっぽいから?
それも違う。じつは、彼の姿が美しくないからだ。
彼は毎日のように、その日に発売されたビジネス××だのヤング○○、
果ては少年△△という少年向けの漫画雑誌まで熱心に読んでいる。
ああ幻滅! 彼は、ビシッ(?)としたスーツ姿の大人の男なのだ。
”きちんとした服装で、漫画雑誌を読む”これは私の美学、もとい
審美学におおいに反する行動のひとつ。例え、自宅でどんなに大口を開け
て笑いころげながら漫画をみていようとも、一歩正装して外に出たら、
そんなことはおくびにも出さない。(そんなのただのエエかっこしいじゃ
ないかと言われようとも、私にとっては美しくない行動なのだから仕方が
ない)
美学といのは、ある意味でこだわりである。あれは美しい、これは美
しくないという基準を、恐らく誰もが心のなかに明確に持っているに違い
ないーーと思うのだが、どうだろう。
最近の日本人は、「美学」から遠いところにいるような気がしてならい。
自然や美術関係の美学以外の美学というのは、ほんのちょっぴりムリをし
たところにあるのではないだろうか。昔からある言葉に「伊達」という言
葉がある。伊達ということも、生きる上でのひとつの美学。でも、近頃の
若い人達は、ムリを嫌がり、ありのままというのを尊ぶみたい。あるいは、
まったくの横一線並びのほどほどか。そのくせ金銭面で自分より上えを望
むことは得意だ。それも悪いとは言わないけれど、どせなら違う面で上を
目指して見たい。
安易に周りに流されないための、ちょっぴりのヤセ我慢と、ほんのちょ
っぴりの上昇志向、それが生活する上での私の美学と言えるのかもしれない。
そして、こんな現代(いま)だからこそ、自分の美学美意識を見失わな
いよう、しっかりと生きていけたらいいな、と思うのである。
平成11年記
その人を見るたび、私はどょ~んと暗い気持ちになってしまうのである。
その理由だが、不潔そうだから? 違う、違う。スケベっぽいから?
それも違う。じつは、彼の姿が美しくないからだ。
彼は毎日のように、その日に発売されたビジネス××だのヤング○○、
果ては少年△△という少年向けの漫画雑誌まで熱心に読んでいる。
ああ幻滅! 彼は、ビシッ(?)としたスーツ姿の大人の男なのだ。
”きちんとした服装で、漫画雑誌を読む”これは私の美学、もとい
審美学におおいに反する行動のひとつ。例え、自宅でどんなに大口を開け
て笑いころげながら漫画をみていようとも、一歩正装して外に出たら、
そんなことはおくびにも出さない。(そんなのただのエエかっこしいじゃ
ないかと言われようとも、私にとっては美しくない行動なのだから仕方が
ない)
美学といのは、ある意味でこだわりである。あれは美しい、これは美
しくないという基準を、恐らく誰もが心のなかに明確に持っているに違い
ないーーと思うのだが、どうだろう。
最近の日本人は、「美学」から遠いところにいるような気がしてならい。
自然や美術関係の美学以外の美学というのは、ほんのちょっぴりムリをし
たところにあるのではないだろうか。昔からある言葉に「伊達」という言
葉がある。伊達ということも、生きる上でのひとつの美学。でも、近頃の
若い人達は、ムリを嫌がり、ありのままというのを尊ぶみたい。あるいは、
まったくの横一線並びのほどほどか。そのくせ金銭面で自分より上えを望
むことは得意だ。それも悪いとは言わないけれど、どせなら違う面で上を
目指して見たい。
安易に周りに流されないための、ちょっぴりのヤセ我慢と、ほんのちょ
っぴりの上昇志向、それが生活する上での私の美学と言えるのかもしれない。
そして、こんな現代(いま)だからこそ、自分の美学美意識を見失わな
いよう、しっかりと生きていけたらいいな、と思うのである。
平成11年記