今日は実習地訪問day.
2施設の実習施設に巡回指導に向かう。
順調のようで、何よりだ。
評価は標記の通りであり、
双方向に思考することが大切。
トップダウンのみならバイアスがかかるし、
何より経験がなければ、それも難しい。
学内実習の経験は、基本には意味があるが、
いわゆる臨床的といわれるものには、そう意味がない。
若き教員時代には、どんなに丁寧にやっても、
現場のPTには、その臨場感(三次元空間、そして、学生が感じる身体知覚)から敗北してしまうことを感じた。
それで良いのだと最近は思う。
教員はあくまでも基盤作りであり、
ある面、黒子に徹することで、
臨床PTのよさを感じさせることのほうがよい場合が多い。
目の色が変わるというのは、だいたい実習を終えてからだ。
一方、ボトムアップでも要素還元になってしまう。
バラバラで全体がつかめない。
学生のよく陥るパタンであるが、
基本操作を学ぶ面では意味がある。
いずれにしても、どっちかでもだめだし、
どっち優先でもだめだし、
それを双方向に学ぶことで、
経験が作られ、予測制御に向かうのだと思う。
「やってもないとわからない」「みてみないとわからない」「さわってみないとわからない」「うごいてみないとわからない」
生物の根源、それは情報を得るために動くこと。
はじめから決め付けずに、とにかく、進めてみること。
僕自身は、今もそうしているし、
勉強や執筆を始めるときもそうしている。
色々考えるが、結局はやりながら改変しているのである。
最初から決まったものはないし、
シミュレーションしてないわけでないが、しつくしたものでは決してない。
頭で考えず、からだで感じて考えるほうが「動物」らしい。
そんなことを実習訪問で考えた。
トップダウンでもボトムアップでもどちらでもない。
その関係性から現象・awarenessが起こるのかもしれない。
まるで脳のなかの双方向の神経信号の流れのように。
システムとして考えてもそれは大きくは間違っていないと思う。
双方向に流れて、どこかでスパイク(衝突)したところ、
それが創発現象となり、ときに、腑に落ちる偶然となるのだろう。
serendipityとなるには、偶然から幸運を得ることであり、
おそらくニューロンスパイクがどっかで同期化した瞬間であろう。
2施設の実習施設に巡回指導に向かう。
順調のようで、何よりだ。
評価は標記の通りであり、
双方向に思考することが大切。
トップダウンのみならバイアスがかかるし、
何より経験がなければ、それも難しい。
学内実習の経験は、基本には意味があるが、
いわゆる臨床的といわれるものには、そう意味がない。
若き教員時代には、どんなに丁寧にやっても、
現場のPTには、その臨場感(三次元空間、そして、学生が感じる身体知覚)から敗北してしまうことを感じた。
それで良いのだと最近は思う。
教員はあくまでも基盤作りであり、
ある面、黒子に徹することで、
臨床PTのよさを感じさせることのほうがよい場合が多い。
目の色が変わるというのは、だいたい実習を終えてからだ。
一方、ボトムアップでも要素還元になってしまう。
バラバラで全体がつかめない。
学生のよく陥るパタンであるが、
基本操作を学ぶ面では意味がある。
いずれにしても、どっちかでもだめだし、
どっち優先でもだめだし、
それを双方向に学ぶことで、
経験が作られ、予測制御に向かうのだと思う。
「やってもないとわからない」「みてみないとわからない」「さわってみないとわからない」「うごいてみないとわからない」
生物の根源、それは情報を得るために動くこと。
はじめから決め付けずに、とにかく、進めてみること。
僕自身は、今もそうしているし、
勉強や執筆を始めるときもそうしている。
色々考えるが、結局はやりながら改変しているのである。
最初から決まったものはないし、
シミュレーションしてないわけでないが、しつくしたものでは決してない。
頭で考えず、からだで感じて考えるほうが「動物」らしい。
そんなことを実習訪問で考えた。
トップダウンでもボトムアップでもどちらでもない。
その関係性から現象・awarenessが起こるのかもしれない。
まるで脳のなかの双方向の神経信号の流れのように。
システムとして考えてもそれは大きくは間違っていないと思う。
双方向に流れて、どこかでスパイク(衝突)したところ、
それが創発現象となり、ときに、腑に落ちる偶然となるのだろう。
serendipityとなるには、偶然から幸運を得ることであり、
おそらくニューロンスパイクがどっかで同期化した瞬間であろう。