昨日は疲れているせいか、すぐに帰宅。
慣れ親しんだサッカーを観戦。
しかし、前半を終え、「1-0」だが、これはダメだなと思い、横になる。
予感は的中。スコアも。
結果はご存知の通り。
一番苦手とするチームだったと思う。
どうも、動き始めが遅い。
これは、0.秒の世界だが、感覚的(潜在的)なものか、意識的(顕在的)なものかの違いだと思った。
どうも、探索している。
感覚を入れて、その場で判断しようとしている。
過去の経験記憶が生かされていない。
「自由意志」は、そのときの「心」により改変されてしまうのか?
だとすれば、操り人形ではないのか・・・・いや、操り人形なのか・・・・Libetの顔が浮かんできた。
これには、戦略的情報の与え方(受け方)に少し落ち度があったように思える。
感覚情報を制限し、相手の脳を操作するというものである。
相手に「想像」させ、「不安」にさせる。
そして、当日に「感覚」を入れようと「探索」させるようにする。
これでは、場当たり的なものであり、どうしても動き始めが遅れる。
「力」のスポーツでなく、なかなか点の入らないサッカーは、将棋のように何手先まで読む。さらに、それを将棋のように顕在的には行えず、潜在的に行わなければならない。顕在化できるのはハーフタイムだけである。
これが、「野球」や「バスケットボール」「バレーボール」などの他の競技とは違う点である。
少々乱暴な言い方だと「馬鹿」にはできない。
これがプロである。
どうも「情報」に問題があったのではないか?
相手にもすべて与えていたし。
それが、俗っぽく言うと「気持ち(感情)」の問題に反映されるのである。
自分の力とは「マイペース」な力というのではなく、そのときの意識を自己制御できる自己制御能のことである。
相手の「干渉」に対して、合わせるのでもなく、それをまったく意識せず、プレーする(マイペース)のでもなく、相手の意識を干渉させ、プレーや判断を遅らせるようにすることである。
自己意識とは、他者との間に生じるものである。
いずれにせよ、選手が今一番苦しいと思う。
楽しいだけでスポーツ(仕事)はできない。
私のような素人よりも、それを感覚的、感情的、論理的に肌で感じていると思う。
これをプロセスとして、未来のために、次の「クロアチア」との戦いに挑んでもらいたい。
プロセスを結果に変える。
それは日本人の得意とするところです。
みなさん、ほんとに先を読む眼力を持っている人たちだから。
これは、万人、どのような職場にも言える。
私の世界とあなたの世界、それを討議して備える。
症例検討など、いろいろやられているが、患者の結果でなく、私(セラピスト)の世界(私がそのとき、どう感じ、どのような思考をし、どのような論理で解決しようとしたか、そして、それはどのように変わっていったか)を討議してみては?
いずれにしても、近くにも「動き始めの遅い者」、つねに「感覚入力を与えないといけない者」、「他者意識はどうでもよく、マイペースという名ばかりで生きている者」など、学生にフィードフォワード制御を求めるのであれば、新たな問題に出たとき、それをどう制御するのか?それはみなさんに課せられた問題である。
臨床、研究、教育とよく分けられるが、そこには境界線がない。
「仮説検証」をとるのであれば、すべて一緒である。
未来のために「戦う集団」を作るのであれば、その言葉の罠を感じ取っていただきたい。
慣れ親しんだサッカーを観戦。
しかし、前半を終え、「1-0」だが、これはダメだなと思い、横になる。
予感は的中。スコアも。
結果はご存知の通り。
一番苦手とするチームだったと思う。
どうも、動き始めが遅い。
これは、0.秒の世界だが、感覚的(潜在的)なものか、意識的(顕在的)なものかの違いだと思った。
どうも、探索している。
感覚を入れて、その場で判断しようとしている。
過去の経験記憶が生かされていない。
「自由意志」は、そのときの「心」により改変されてしまうのか?
だとすれば、操り人形ではないのか・・・・いや、操り人形なのか・・・・Libetの顔が浮かんできた。
これには、戦略的情報の与え方(受け方)に少し落ち度があったように思える。
感覚情報を制限し、相手の脳を操作するというものである。
相手に「想像」させ、「不安」にさせる。
そして、当日に「感覚」を入れようと「探索」させるようにする。
これでは、場当たり的なものであり、どうしても動き始めが遅れる。
「力」のスポーツでなく、なかなか点の入らないサッカーは、将棋のように何手先まで読む。さらに、それを将棋のように顕在的には行えず、潜在的に行わなければならない。顕在化できるのはハーフタイムだけである。
これが、「野球」や「バスケットボール」「バレーボール」などの他の競技とは違う点である。
少々乱暴な言い方だと「馬鹿」にはできない。
これがプロである。
どうも「情報」に問題があったのではないか?
相手にもすべて与えていたし。
それが、俗っぽく言うと「気持ち(感情)」の問題に反映されるのである。
自分の力とは「マイペース」な力というのではなく、そのときの意識を自己制御できる自己制御能のことである。
相手の「干渉」に対して、合わせるのでもなく、それをまったく意識せず、プレーする(マイペース)のでもなく、相手の意識を干渉させ、プレーや判断を遅らせるようにすることである。
自己意識とは、他者との間に生じるものである。
いずれにせよ、選手が今一番苦しいと思う。
楽しいだけでスポーツ(仕事)はできない。
私のような素人よりも、それを感覚的、感情的、論理的に肌で感じていると思う。
これをプロセスとして、未来のために、次の「クロアチア」との戦いに挑んでもらいたい。
プロセスを結果に変える。
それは日本人の得意とするところです。
みなさん、ほんとに先を読む眼力を持っている人たちだから。
これは、万人、どのような職場にも言える。
私の世界とあなたの世界、それを討議して備える。
症例検討など、いろいろやられているが、患者の結果でなく、私(セラピスト)の世界(私がそのとき、どう感じ、どのような思考をし、どのような論理で解決しようとしたか、そして、それはどのように変わっていったか)を討議してみては?
いずれにしても、近くにも「動き始めの遅い者」、つねに「感覚入力を与えないといけない者」、「他者意識はどうでもよく、マイペースという名ばかりで生きている者」など、学生にフィードフォワード制御を求めるのであれば、新たな問題に出たとき、それをどう制御するのか?それはみなさんに課せられた問題である。
臨床、研究、教育とよく分けられるが、そこには境界線がない。
「仮説検証」をとるのであれば、すべて一緒である。
未来のために「戦う集団」を作るのであれば、その言葉の罠を感じ取っていただきたい。