森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

笑うかどには福来る

2007年08月13日 12時56分14秒 | 過去ログ

「よさこい祭り」も終わり、夏が終わったという感じだ。まだまだ、暑さは続くが熱くなることはないかな。今年は120名の大所帯の宮田塾であったが、全体的なまとまりがあった。これは、リーダーの力であること以前にやはり、個の「こころ」の持ちようの違いだと思う。その個(ニューロン)と司令塔であるリーダー、そして、枝葉のシナプスのスタッフが情報伝播し続けた結晶だった。

その情報を伝播したのが、お互いの感情である。

個人の情動(快刺激)は扁桃体で作られるが、それを感情(喜び)に変えることができるのは、人と人との紡ぎあいである。個人の快楽から、それが喜びとして、記憶にたくわえられるためには、コミュニケーションが必要である。これは、言葉ではなく身体での感じあいである。

身体と身体が共鳴する。

そんな感じだ。


子どもの脳は「肌」にあるというような本が出版されるように、そもそも生物としての原点が、そこにあるような感じだ。


だから、祭りを見に来ている人たちも、一緒に曲を口ずさんでくれたり、一緒に踊ってくれたりする。観客も自然とからだが動く、からだから楽しんだ。ここに理屈はいらない。

これが、きれいで整ったショーアップされたダンス(よさこいでもそういうところが多々ある)には共鳴しない。

きれい過ぎるからだ。

つまり、観客はオリンピックの体操をみたり、シンクロをみたりしている自分なのだ。
究極で言うと北朝鮮のマスゲームだ(YOSAKOIソーランにはその傾向がある)。

それは「美しい」と思うが、それは視覚的なものしかない。体感的な「美しさ」ではない。体感的な「美しさ」には人間らしい「こころ」が発生する。この「こころ」が五感を喚起させ、記憶に蓄えられる。

多少、乱れているぐらいがいい。
それが人間社会だから。
人間の脳だから。
人間のこころだから。

ニューロンの伝播はいつも正確ではない。
その時々の環境に左右される。

逆にきれいすぎるということは、人間のコミュニケーション伝播を失うのかもしれない。
たぶん、そうだ。
ロボットがコミュニケーションをとれないのは、このファジーさがないからだ。
カオスかファジーがまた論議しないといけないだろう。



感情は伝播する。

霊長類にしかないミラーニューロンだ。

「こころ」からの笑顔は伝播するが、つくり笑いは伝播しない。
笑顔のミラーニューロンとは、「笑顔には笑顔を返す」傾向が人間には備わっているというものだ。

踊り子同士、踊り子と観客、その脳同士が共鳴しあい、神経伝達する。見ている人も同じ感情を抱く。それが、よさこいにあるし、このチームにある。

人の笑顔は伝染する。

「笑うかどには福来る」

人が人を呼ぶ。

昔のこういったことばには本質がある。つまり、モノがなかったから、感覚(厳密に言えば五感の統合による第六感)がすぐれていたのだ。

理屈ではなく共感する。議論するよりはまずは大枠の物語性、「真面目」だけでなく、標準偏差を意識した「遊び心(童心に戻るためには必要)」、そして「個」と「全体」。

なんだか、身体と脳そのもののようだが、どちらかといえば、右脳的である。
踊り子は右脳で感じ、それをとりまくスタッフが左脳で操作し、それらがお互いに情報伝達する、そういう感じかな。

片方(右脳)だけでも秩序をなくし、片方(左脳)だけでも自由をなくす。


いずれにしても、脚本が大事。


脚本(物語性)が将来を見通し、予測し、計画を立て、説明するために最も大切である。それをする塾長にはいつも感心させられる。

その「ことば」はいつもあたたかい。

しかし、物語だけでもだめだ。
事実を受け止め、物事をはっきりさせ、きちんと自省(比較照合)することが大事。
みかけの楽しさだけでも、本当の楽しさは生まれない。


しかし、それも理屈かもしれない。


からだで楽しさを感じる。


それが「よさこい」だし、「人間」なんだと思う。


全国でよさこいが行われていると思うが、本家の高知にかなわないのは、この共感システムが違うからだ。


観客が「美しい」あるいは「激しい」ショーを見るのでなく、自分が踊っているような感じがする。そして、自然とからだが動いてしまう。脳であれこれ考える前に、動いてしまう、そういう祭りにしないと、「祭り」ではない。

世界各国の祭りはショーでなく、祭りなんだから。

暑い高知の一番熱い日~夜さこい!~

2007年08月09日 06時26分54秒 | 過去ログ

 

さあ、今日の教授会が終了すれば、故郷へ帰ります。

今日より、第54回よさこい祭り が始まります。

十彩 (トイロ2) やほにや(これは原宿のやつやね)も”えい”かもしれんけんど、宮田塾もHappy!やきね。

祭りとはショーじゃない。見世物じゃない。完璧なんぞ、ない。

笑顔耐えない人間らしさを見せるもの。楽しい、という進化の過程のまつりごと、というものに原点があるように思う。

ショーアップされた舞台のやつはちょっと、いやだ  いやだいぶいやだ。

そうだとミラーニューロンシステムが賦活しない。

シンクロや体操をみるのと一緒だ。

 

本家の魂が舞う。

 

さあさあ、

本部競演場(追手筋)の出番を確認して、見にきてね。

2日目は、そのまま、帯屋町になだれ込み、ラストランをするき!

なんせ、200ぐらいチームがでるらしいき。

全国大会らあ、みてもしょうがないきね。本祭との違いを感じてちょうだい!

GETSunnyArt Wave系でも自由を感じてちょうだい!

 

自由は土佐の山間より

 

ヤス!愛宕町の1kmの競演場でたおれんとってね。

朝から夜の10時までおどりっぱなし、酒を飲みっぱなしやきね。

インターネットライブ中継

中継も追手筋やきね。

 

 

 


年輪

2007年08月07日 08時08分48秒 | 過去ログ

昨日は大学内での仕事。

久しぶりに図書館で2007年の欧文を調べ、コピーをした。午後は大学院の説明と、4回生ゼミ生のスケジュールを確認した。

大学院を希望される方は、事前に指導教員への照会があるので、お忘れなく。

ここんとこ、仕事のいい意味での効率を考えている。悪い意味での効率はバイアスによる省略化である。

昨日の健康科学研究所開所記念シンポジウムのポスターを企画・作成すると、自然に5時間以上費やし、結局は22時ににもなっても仕上がらないので、いったんやめた。適当に作ればいいんだが、それもできない。デザインというのは妥協ができない代物で、論文とは少し違う。私の内面を見られそうな感じがあるので。

しかしながら、時間を費やしていれば、やるべき(やろうとしている)プロジェクトがどんどん遅れる。

ましてや、学部生の卒論(16名)の研究計画もそろそろ真剣に目を通さないといけないし、もちろん院生も。

自分のやるべき仕事である「痛みの認知機構~大脳皮質における二重性」などが、どんどんずれこむ。

これでも教育研究生活も長くなって、授業などの要領は身についてきたが、新たな創造性、つまり新規なプロジェクトにとりくもうとすると、大脳皮質が総動員されるために、なかなか進まない。

しかしながら、これが楽しいんだけど。

一方、人前で話すことは、もはや、私の脳のなかに数多くの「認知テンプレート」つまり経験が蓄積されているために、意外と余裕がある。

記憶の豊富さというようりも、どちらかといえば、その引き出しの多さといったところであろうか。

もちろん、先輩方の講義を聞くと、いつもそのテンプレートがまだまだであると感じる。

こうしたことを考えていると、意識・注意の向け方に違いがあるのではないだろうか。

若いと外(外界)に向ける注意・意識が多いが、年輪を重ねると、内(内界)に向かう注意・意識が多い。

これはもちろん記憶、経験に由来するが、直感的パターン認識によるものだと思う。

もちろん、結びつけ能力や、フレーム能力が優れていることになる。

 

このときである。

 

 

いわゆる大人であってもこの年輪の形態が最低二つあるように思う。

ひとつはバラバラな状態から結び合わせるときに、バイアスに縛られず、関係のないことから、「わかる」瞬間に出会う人たちである。

これが、発想につながるし、問題解決のための知恵となる。

 

一方、年輪を重ねて、カチコチの頭になっている人は、直球勝負というか、関係のないことから問題を解決する術がない。

つまり、それまでにどう生きてきたかに相当左右されるのだが、前者は切り株にしたときに、その年輪は相当に密なんだろう。一方、後者は同じ半径かもしれないが、その年輪の密度は少ないのだろう。

「これはこうなんだから」という後者の大人によく出会うのは、私にとっても学生にとっても不幸なことだ。

 

「これはこう」なんていうのは科学でない。

 

反証可能性について、セラピストもきちんと勉強すべきであるし、そういうカリキュラムがないと、リハビリテーションは科学から抹殺されるであろう。

そうなれば、近い将来、ロボット脳なセラピスト、プログラムにしか反応しない者が生産される。

 

同じ60歳であったとしても、年輪、すなわち「認知テンプレート」が豊富な人になりたいものである。

 

この多さが賢者になる。

 

老いということは、すばらしいことなんだ。

 

そういうことを日野原先生が冬木学長をみると、感じる。

 

他人・仕事・勉強(外界)に惑わされない。

 

どしっと構えて余裕がある。それは、そういうことなんだろう。

 

花火大会ですね、自宅から花火が目の前に見えました。

 


農耕民族と狩猟民族

2007年08月05日 16時13分26秒 | 過去ログ
最近の朝のセミの鳴き声は元気だ。
家では全くエアコンはかけずなので、朝はもっぱらセミの鳴き声で起こされる。
家の周りは大きな木ばかりなので、仕事場に行く間はセミの大合唱のなかを進むことになる。
そこで、すごく耳障りな泣き声に遭遇した。
これは私にとってというか、人間の身体に対する振動にとってというか、とにかく違う。耳をつんざく音だ。
周波数、デシベルなどなど、が違ってそういう意識が発生したのだと思う。
これは繰り返すと順応が起こると思うが、セミの中での関係性はどうなんだろうと思った。
セミには昆虫なので大脳はないが、神経はある。
だが、大脳がないので、セミ同士が意識しているといのはおかしい。
ただ、その違いは響きでわかるのか。
響きの違いがわかったとしても自己に置き換えることはないので、そのセミをほかのセミが意識することはないのだろう。
いずれにしても、違いという視点で、自己と他者の存在を意識するのは霊長類の機能なんだろう。
日本人はとくに違いに敏感な民族だと思う。
四季の違いを肌で感じるっていうのもあるが、そもそも農耕民族で、同じということを意識しすぎている民族でもある。
まわり近所すべて同じという意識である。
それに伴い、安心感が生まれるというものである。
個がないとよく言われるが、それは主張せず、他とは違わないということを意識しているのであろう。
だから、同じ意識を持つ人たちとは共存、協調できる。
とりわけ日本人としてのやさしさ、米百俵の精神などといわれるが、それは同じ意識であるという視点から生まれるのであろう。
だから、他の民族に比べ、違っているというのに大変敏感である。

欧米は縄張り意識な狩猟民族であったために、この違うという点にはそれほど敏感でないのではないか。

そこでである。
日本のイジメの特有さは、とかく、「違う」というものに対して攻撃する傾向がある。
これは「社会」に出ても同じである。
イジメとまではいかないが、とかく、自らの来歴に存在しない者に対しては、防御し、攻撃する傾向がある。

セミにはそんなものは存在しないだろうなと思い、道を歩いて職場に来る。
そういや、7~8年前に北海道へ出張で出かけたとき、カラスのいじめにであった。
カラスの集団がある1羽のカラスをくちばしでつついていじめているのである。


いろいろあるわ。

そういう感覚(経験)に出合うと、自らの意識はUP DATEされる。
そういう現象をそのまま受け入れれば、おもろいが、いつも自らの解釈(記憶)に洗脳されてりまう。

いずれにしても、経験だし、「それを」経験していないものが、「それ」を否定してはいけないと最近つくづく思うし、世の中の人間は、そこからstep upなかなかできない。

自らの力を他人に認められたいという志向であるが、それだと、「徳」にはならない。

相撲道の心技体が最近注目されているが、「徳」というものは難しい。
「徳」というのは、他人に惑わされない精神である。

「徳」がにじみ出る人間は、その一つ一つの行為が「美」であるのだろう。

ちなみに本学の建学の精神は、

「徳」をのばす
「知」をみがく
「美」をつくる

です。

これを意識した脳教育研究会を本学内に設立できればと思う。


今週末は岡山が自習であったため、久しぶりの土日を自らの研究室で過ごしている。採点は昨日の午前中ですみ、午後はもっぱらまったり感。
いや、この感覚、空間、時間ですよ。
まさに心身がリフレッシュする。
この時空間が、以前はあった。
何をするわけでなく、本を読み、文献を読み、決して焦らない時空間が。


とはいうものの、原稿を少し書き進めておこう。



activity

2007年08月04日 18時08分50秒 | 過去ログ

 

偏差値はほんまに高くないが、世界的(アメリカ的)な大学がここにあるかもしれない。

COE、GP、研究力。世界的な教授陣で田舎の大学はあふれている。そして、よさこい・・・関係ないか・・・

地元民は・・というかもしれないが、中は中で何も縛られない自由があるのかもしれない。自由は創造性の源だ。官僚的な管理をしはじめたら大学研究はほころびをみせる。小さな大学の生き方がここにあるかもしれない。

カリフォルニア工科大は、その世界的な見本なのかもしれない。

 


精神力

2007年08月04日 07時02分39秒 | 過去ログ


昨日は検査に行き、そのあともっぱら採点タイム。
実に前期は7クラスもっているので、半端な採点でない。
そのうち7月試験は4クラスであるが、一つ一つが多すぎる。
リハビリの学校なら30名がベストなのかもしれない。
気になる点は、漢字力と文章表現力、そして、相手に対する思いやりか。
答案ひとつひとつに注意を払う。
きたない答案より、きれいな答案がいいに決まっている。
内容で勝負できなければ、そのあたりでカモフラージュすることだ。
レポートが手書きからワープロに変わり、カモフラージュできているから、実はその内容のレベルが停滞・低下しているのかもしれない。
先日の学会抄録も査読の段階では???のものも多かったが、刷り上れば、形になっていると人間の目はだまされる。
記憶がそうさせているのかもしれない。
一種の錯覚とバイアスだ。

最近、人間とはなぜ自分の意見(経験)を押し付けるのかということを考えている。
それが、経験だし、感情なんだが、人を攻撃する前に、自分の行動(歴史)を省みるということを自分の脳から忘却している。
実は他人を攻撃していることは、自分の弱さを攻撃しているのではないかと思う。
討論という名の下、そのようなことを考えた。
少々、自分が疲れ気味なのかもしれないが、そういう人間関係性にはあまりかかわりたくないと思い始めた。

政治的に勝負せずに、学問のみで勝負したい。
いや、勝負という言葉はおかしい。
ようは楽しみたいのである。

Life is beautiful.

人生にとって何が幸せで大切かを最近切に感じる。
そんなことが、新著にも少し現れていると感じられた読者はいますか?
もっと大きく生きたいものです。

いつも空想にひたる、本来は大学教員の仕事はそうであるに違いないが、結果至上主義が小中学校の教諭のみならず、最高学府の大学にまで侵食している。

とぼやいてもしょうがない。
それ自体が私の内に向けた志向だから、それを外に向け、ポジティブに変えていかなければならない。
いつになっても悩む、それが仕事なんだし、それが人間らしさで、その悩むことから生まれる解決力、そして、ひらめきに遭遇したときの感動は、とっても幸せなんだから。


さてさて、学生のみなさん、いつも残って、夜11時までも残って、教室で勉強していますね。
巷の教員はよく勉強しているね。
というかもしれません。

私は言いません。

その行為がきたる臨床実習のとき、凶とでるかもしれない不安がよぎるからです。
勉強はなんぼだって、やればいいのですが、その環境設定(そういう環境がないとできない)に大きな問題があるのです。

精神力。

他人のがんばりをみないと、自分ができない。
そんな悪循環に陥っていませんか。

勉強というものは他人の感覚刺激が入らずともやるものです。

感覚刺激がないと動けない、そんな機械になっちゃいますよ。
そうなれば、問題解決能力を失うのです。

最終的には自分ひとりの力で壁をこわしていかないといけません。
(本来、友達との勉強は情報を共有し、それを修正していくプロセスである。
これは同じ感覚刺激であっても、それに対する注意が異なるから情報の捉え方が違うので、それを意見交換から共有し、お互いに修正する脳間操作系のシステムである。エピソード記憶も多く付与されるが、意味記憶の量としては少ない。)


ひとりになったとき、自分に負けないそういう精神力を鍛えてください。
精神力という言葉は昔は心理学で語られ、科学でないと考えられてきましたが、脳科学が発展することで、その人間たらしめるものが、トピックスになっています。





紀伊国屋でも平積みされはじめました。

さわってみてください!というのがいいね。
この軽さを体験できれば、自分の、そして他人の脳をもっと大事にしてくれるのかな。

そういうメタファーがこめられているのだが。

実際に作るともっとわかるはず!
とも書いていただいております。

みなさん、もう作りましたか???




How Your Mind Can Grow Stronger ?

2007年08月02日 21時06分14秒 | 過去ログ

本日は朝から会議、実習終了後、その単位の認定会議兼学生の症例発表だ。

いろいろあろうが、真摯に受け止め、未来を生きてもらいたい。

患者さんに未来を与える、そんな仕事につこうとしているんだから。

 昼からは日野原先生の講演を聞こうと思ったのだが、結局は会議が長引き、気がつけばPM3時。

日野原先生と京大時代の旧友(90歳代)に会っていただいた。

老いてなおも賢くなる脳。老いてカチカチになる脳。

日野原先生の身体は傾いていたが、その表情は豊かだった。

うちの講演を15時半に終え、そのまま京都へ移動され、さらに講演らしい。

昨年の養老先生は岐阜の講演を終え、うちへ、であった。 そのエネルギーはすごい。

忙しいということはいいことなんだ。

暇だと、余計なことを考え、心身を抑鬱させる場合がある。

暇は、本来、身体と脳にとって豊かなことなのだが、前頭葉をいらないところで賦活させるから、抑うつになる。

暇なときは、無にすること。そして、感じること。それがいい、絶対にいい。

他人のことばかり気にするから、腹が立つんだ。まあ、それが人間なんだけどね。

「コミュニケーション脳」

前頭葉はそのためにあるといっても過言でない。

 

15時過ぎから総合幼児教育研究会の方々と談話。

脳について紹介したが、僧侶のかたらしいので、子供の「身体性」について意見交換した(メルロポンティとヴァレラを出せば、西田幾多郎で返された)。

「芸術する脳」  それが今後の「教育」テーマになろう。

千住明さんの京都造形芸術大学の子ども芸術大学の話になった。

就学時前教育。鉄は熱きうちに打て・・・ではないが、本来の日本の文化とは何か、現代人が忘れかけているもの、それを教育に生かさないといけない。

日本人は概して語らず、しかし、その身体性は豊かだ。

実に自然と文化が調和している。この欧米にない身体観が育まれない教育となっている。

そうでないと創造性は極めて乏しい。

私でよければ、またかかわらせていただきますと、申した。

老いて賢くでなく、子供の感受性をいかに作るかだ。

それが大学生になったときのボキャブラリーになる。

それが最近の学生と関わり、極めて乏しいことが気になる。

それでも生きていける。

情報を自らが得ようとしなくても勝手に受け身に入る、

そして、それが入らなくても生きていける、という社会構造の悪い意味での多様性が現代若者をダメにしている。

今後は日本の国力をも脅かすと思う。

「教育改革」と政府は声高々にいうが、その構造のねじれは相当に根深い。ある危機的状況に陥らないともはやそのねじれはとれない。

すなわち、すべて解体することだ。

付け焼刃的改革ではもう難しいところまで来ている。

子どもたちは外に向かったメッセージでなく、すべてうちに向かっているからだ。

それでも肉体の塊として生きていけることを子供たちは学んでしまった・・・

 

学部の空間認知に関する研究指導を行い、さっきまで平成記念の河村先生と今後の勉強会の方向性を話し合った。

今日も何もできず・・・ 小倉リハの90枚の解答用紙を片目に見ながら、溜息がでる・・・

早く研究に向かいたい。

早く総説に向かいたい。

早く原著に向かいたい。

早く新著に向かいたい。

 

理学療法の総説論文が掲載されました。特に新しいことは書いていません。僕の本質は第三者には見えない。