blog Donbiki-Style

筆者:どんびき(地域によりカエルの意)

最後は自分

2017-03-10 21:13:53 | 日記
今週の勤務が終わった。
大きなミスもなく無事に終わることができたのは何よりである。
ただ、今週は他の人の休暇や通院などで全員集合になった日がなかった。
最近あったようなやや身勝手な抜け方ではなかったので腹が立つなどということはないが、いない人のカバーのために通常はやらない仕事もけっこうやった。
限られた人数でやっている以上、多少人が抜けても回るくらいでないと始まらないし、そのためには経験がないからと尻込みして人任せにしてばかりもいられない。
難しい要求があるわけでも、必要以上に仕事を振られるわけでもない。
自分自身が休む日は誰かがカバーしていることを思えば、勉強のためにいろいろな場所に首を突っ込んでおくことは大事だ。

さて、週の最後の金曜日、自分の仕事は大過なく終え自席に戻ると何やらメンバー同士が言い合いをしていた。
どれくらい続いたのかは知らないが、話の結論は出ないままだったようである。
仕事上でのほんの小さな「こだわり」に起因して不毛な言い合いを起こす人物はだいたいいつも同じである。
当人の中で譲れない部分があるのは分かるが、何か一つ言われた時の反応があまりにも過敏なため、こじれなくてもいい普通の話がなぜか毎度毎度ややこしくなるというのは見ていてやはり変だなとは思う。
よほど図抜けた能力があると自他共に認めるくらいの人物ならまだしも、言っては何だがわがチームの仕事は特別な知識や資格を必ずしも必要としない。
主役にはなりえないチームの中で当人がどれだけ自信を持って取り組んでいようと、第三者から見れば大したことはないし、それは私に当てはめても同様だ。

私の周辺が特にそうなのかもしれないが、それなりの年齢を重ねていながら「他人に認められたい」欲求が強い人が多いように感じる。
その欲求が強すぎると自分を大きく強く見せようとする方に意識が行って、少しのことでも自らの評判が落ちるのではないかと心配する。
その気持ちの裏返しが過敏な反応となって現れ、時にはウソやゴマカシ、虚言や妄言につながる。
ミスを矮小化して報告するのも一つ、見下ろせる人に対しては徹底的に攻撃するのも一つ、たった今仕入れたばかりの知識を昔から知っていたことのように吹聴するのも一つ、である。

他人に認められないと満足できないというのはまさに地に足が着いていないということと同義であって、仮に自分を認めてくれる人が現れたと感じた時にはその相手に自らをドップリ預けてしまう危険がある。
相手が自分に近づいて悪意で利用しようとしているかどうかの区別はおそらくつかない。
痛い目に遭うまではいかなくても、期待するような現象がなかなか起きず、長い月日が経ってようやく気づくことになっても後の祭りである。

私自身も、判断の基準が他人にあるうちは幸せではなかった。
心ない他人に振り回されたりももちろんしたわけだが、不満を他人のせいにしているうちは自分自身には進歩がなかった。
心から幸せと感じられない人生が少しずつ変わり始めたのは、結局「他人に振り回されるような生き方をしてきた自分が間違っていた」と腹の底で実感できた時からである。
ずいぶん時間はかかったが、物事の判断を自分に委ね、その判断に基づいて行動し、その結果生じる利益も不利益も全部自分で面倒を見ることができるようになってからは、生きているという実感を得られるようになった。

私よりもはるかに長い時間を生きているのにいまだ「幼児」同然の振る舞いをするのを見るにつけタメ息の一つもつきたくもなるが、今後も変わらず今の調子で悔いのない日々を重ねていきたい。
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