blog Donbiki-Style

筆者:どんびき(地域によりカエルの意)

違いを受け入れられるか

2017-05-24 22:19:15 | 日記
私が当地に来て一年半と少しが経った。
この間、当地では「よそ者はよそ者としてしか扱われない」という現実について何回か書いてきた。
Google検索で、「愛知」の後にスペースを入れ、ひらがなの「よ」を打ち込むだけで検索候補の2番目くらいに「愛知 よそ者」と出て来てしまう(愛知を名古屋に変えても同様)のは、同じようなことを調べたい人がけっこう多いということか。
ネットの知恵袋・教えて系のページにも驚くほど同じような疑問が載っているので、一面としてそういうことは確実に存在するのだとは思う。
なお、私自身の経験は何度も書いているので繰り返さない。

では、私の故郷である富山ではよそ者にも優しいのかと言われるとそんなこともないと思う。
売薬さんや北前船を例に挙げるまでもなく、富山の人間は自ら外に出て稼ぐことは多くても、外から多くを受け入れて発展してきたイメージは薄い。
富山の方言には「たびのひと」というものがあり、「県内出身でない人、他から移って来た人」を意味する。
言葉としてこういうものが存在する以上、やはり土着の人間とそうでない人間を区別する意識があることは間違いのないところである。
富山県民そのものも一部では閉鎖的だとか陰険だとか散々叩かれているし、必ずしも当地ばかりがよそ者に冷たいのではないとは言える。

我が国においても、同じ県の中で、あるいは同じ市の中で、小さな地域どうしのくだらないエゴのぶつかり合いによって、新幹線の駅や高速道路のインターの名前などがイイとこ取りの長ったらしいものか、どうしてこうなったのかと首をヒネるようなものになっている例はたくさんある。
ライバル心が強いのか単に仲が悪いのか、それなりの規模の備えた都市どうしが何かといがみ合うことも少なくない。
どこの土地の人間でも自分の地元はやはり可愛い。
当地でも尾張と三河の対立構図があり、近場では静岡市と浜松市のそれ、地元北陸では富山市と金沢市(なぜか金沢に付きたがる富山県高岡市も含め)のそれといった具合に、感情的な争いは避けられはしないものだ。

かつて魚津の港町のスナックで、一人のご老人が「欲望がある限り争いは無くならない」と言った。
欲望とは少しニュアンスは違うが、世の中には今も「違い」が原因となって起こる争いで満ちあふれている。
自分たちと違うものは正しくないとされて排斥の対象になり、それが結果として争いを生む。
二度の大戦の経験から、欧米を中心に世界標準への試み(グローバリゼーション)も行われてきたが、それは今の時点でほぼ実現不可能なものとなり、先進国と言われる国々の間でも自国第一を掲げる勢力が急成長して、多くの国が国論の分断に悩まされ始めている。
今のところは急進的な勢力は健闘止まりではあるが、以前なら泡沫であったろう主張が国の半分近くを占める事態になっている。
いずれグローバリゼーションなる概念は消え失せ、世界の国々はそれぞれの国境線の内側でそれぞれの道を歩む時代に戻るのか。

極論すれば「よそ者や違う物への抵抗感」は、誰しもが持ち合わせていると言ってもいいのかもしれない。
今は移民が欧州を揺るがしているが、朝鮮半島有事には我が国にも近隣から多くの難民移民が流入するだろう。
厄介なのは、その出どころがほとんどが我が国を敵とみなす国や地域であろうことで、百害あって一利なしそのものである。
恋人どうしですら時にささいな行き違いからケンカすることもあるのに、最初から反日と分かっているところからの難民移民は絶対に受け入れてはならないし、来られたところで分かり合えるはずもない。

市町村を超え、都道府県や州を超え、国々を超え、世界が分かり合い手をつなぎあえる日が来るのかと問われれば私はかなり懐疑的である。
誰しも「違い」に抵抗を感じると仮定する以上は、せめてよそ者にだけは自らの地位やポジションを奪われたくはないと考える、という結論に達する。
ならば、一度世界の国々は国境線の内側に入り、グローバリゼーション疲れを癒し、それぞれがそれぞれの幸せを目指す方向にいってもいいのではないだろうか。
この瞬間にも増え続ける、ある日突然住み家を失ってさまよう人々のケアは大切な例外として。

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