blog Donbiki-Style

筆者:どんびき(地域によりカエルの意)

5月2日の行状

2017-05-11 22:50:01 | 旅行
いよいよ道北の旅も最終日である。
スケジュール的には10時25分に稚内空港行きのバスに乗らなくてはならず、稚内から新千歳、新千歳で乗り継いでそのまま富山に向かうことになっていたから実質は「帰るだけ」の日になるはずだった。
前日の曇り空とは違い爽やかに晴れ渡っていた朝、バスまでの時間を何とか有効に使おうと、宿を早めに出てそこから徒歩圏内にある稚内公園を散歩することにした。

稚内公園は市街地を見下ろす丘の上にあるため、近いと言ってもそこそこの急坂があって思いのほか時間を食った。
しかし、登りきった後に見えた風景は大変素晴らしく、朝の逆光を受けながらも写真を何枚も撮った。





旅の最後にここに来てよかったなと思えたのは、最北の街=国境の街、つまりは沖縄などの南方ばかりでなくこの北端の地も先の戦争によって多くの犠牲を出した土地であると知ることができたからである。
観光ガイドにも稚内市のシンボルとして紹介されている「氷雪の門」。
名前こそ抽象的だが、犠牲者の悲しみを象徴する女性の像の手前には「樺太慰霊碑」の文字が見て取れる。



もう一つ胸を締め付けられたのは「九人の乙女の碑」。
樺太の真岡(現ホルムスク)郵便局に勤務する電話交換手の若い女性9名が、旧ソ連軍の侵攻を目の当たりにして、写真の文言を残して服毒により自ら命を絶った悲しい出来事である。
この碑の近くには、昭和43年に昭和天皇・皇后両陛下が行幸啓された際、この出来事について詠まれたお歌の碑も残されている。



港町ならではの景色に感動しつつ多少の胸の痛みを抱えながら丘を下り、再び市街地から空港連絡バスが出る稚内駅に向かうようにして歩いた。
宿からも見えていたが、北防波堤ドームというひと際目立つ建造物に惹かれたので行ってみた。
その重厚な造りから北海道遺産の一つとして指定を受けている。







まだバスまでは1時間半近くあったので、稚内駅をいったん過ぎ、フェリー乗り場に近い市営の施設に足を運んだ。
離島行きのフェリーを利用する乗客に対応するためか、シャワー室やコインランドリー、和室の休憩所などを備えていて、港のそばとしてはこういう施設を見るのは初めてだった。
私は肌着や靴下を洗濯するだけの用事で使ったが、職員の方が話しかけてくれ、やはり春の連休といえども北海道全体のハイシーズンはもう少し先なので観光客はまだ少ないと言っていた。

稚内駅のビルでお土産を買い足し、定刻通りにやって来た空港連絡バスに乗って、いよいよ旅も終わりである。
稚内空港は市街地から約10km、広大な原野の中にポツンとターミナルビルがあった。



わずかに時間があったので写真スポットを探したら、前日は見えなかった利尻山が見事に見えたので何枚も撮った。



新千歳行きの機体は70人乗りのプロペラ機であった。



この写真では分からないが、もう少し望遠をかければわずかにサハリンが見えたはずである。
稚内の海岸からわずか43km、今は日本人が気軽に行けない土地であることが何とも悔しい。
いろいろな学説や主張があることは承知しているが、北緯50度以南の樺太はいまだ「帰属未定」というのが大方のところである。
それでも、現時点で一般人が行ける最北端に足を運ぶことができ、念願であった道北も訪問し、充実した4日間であった。
寒い以外は天候にも恵まれ、富山に至るまでの交通にもハプニングはなく、正午近くに稚内にいた体は16時前には故郷である富山に無事にあった。
空港から北アルプスが見えた時にはなぜかホッとして肩の力が抜けたような気がした。
その日はすぐに実家に向かってもよかったが、カレンダーの赤いところの日は営業していないという富山市内の某スナックから熱心なお誘いを受けていて、短い時間ながら久々の再会に加えて北海道のおみやげ話で楽しんだのであった。

実家にやっかいになったのは3日から5日までの正味3日間、期間としては長過ぎず短過ぎず、ちょうどいい感じにはなり、両親との時間も多くあって十分にリラックスできた。
正月以来帰らなかった故郷で、ささくれ立った心を何とかリセットして愛知に戻ってくることはできたかと思う。
とはいえ職場は戦場、その職場中心に毎日が進む当地での生活では引き続き気持ちの切り替えを大切にして、無駄なストレスをためないように日々過ごしていきたい。

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