写真で綴る気ままなすぎさん

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東御苑 天守台ほか (元江戸城本丸天守台御殿) 

2023年11月27日 06時00分00秒 | 東京散歩

皇居 東御苑 二の丸庭園の後、梅林坂を登ると江戸城本丸天守台~
梅林坂 最初に城を築いた太田道濯が、この辺にに天神社をまつり、数百株の梅を植えた事から「梅林坂」の名が付いたと云われています。現在は約70本の紅白の梅が植えられ、12月末から2月まで梅の花が楽しめます。

梅林坂を天守台が見えます。天守台で・・・江戸城本丸御殿が建物があった場所です。

天守台 徳川家康の入城以来、江戸城では、慶長度天守(1607年)、 元和度天守(1623年)、寛永度天守(1638年)と3度、 天守が建てられました。最も規模が大きかった寛永度天守は、 地上からの高さが約58mあったといわれています。 この天守台は、寛永度天守が明暦の大火(1657年)により 焼失した後、天守再建を目指して万治元年(1659年)に築か れたものですが、幕府内で、天守は不要との結論が下され、この 天守台には天守が建てられないままになりました。 江戸時代の江戸城は、天守があった50年間の後、天守がない 状態が210年間続いたことになります。

江戸城の天守閣は、徳川家康が江戸幕府を開いた1607年に完成。将軍が代わるたびに2回築き直され、最後の天守閣は1638年に完成した。しかし、1657年の「明暦の大火」で焼失し、再建される事はありませんでした。現在は皇居東御苑に高さ約11メートルの石垣の台座(天守台)だけが残っています。天守閣は50年間だけ存在しましたが、築城後の度重なる火災によって、多くの建造物が焼失してしまいました。
江戸城天守復元模型 確かな時代考証に基づく復元が可能な寛永期の天守を1/30スケールで制作したものです。

天守台

天守台から風景① 

天守台から風景① 

桃華楽堂 桃華楽堂(とうかがくどう)は、皇居東御苑にある八角形の音楽堂

天守台 

皇居東御苑の竹林には、日本や中国の竹や篠類が13種植えられています。竹林は大きな林ではなく、本丸の天守台の近くにあります。

石室 江戸城本丸御殿の大奥の脇に位置し、石室の用途は諸説あり、火事などの非常時に大奥用の調度などを避難させた蔵と考えられています。また、江戸城の抜け穴や御金蔵との説もあります。

富士見多聞 城郭の石垣上に建てられた長屋で、城壁よりも強固な防御施設

富士見多聞の内部 

御茶畑 皇居東御苑の本丸の西側には茶畑があります。茶畑ではチャノキが咲き、葉に隠れながら下向きに咲く小さな花がほのかに甘い香りを放ります。

反対側の景色 

反対側の景色 休憩室、売店があり、江戸城天守復元模型 あります。

ツワブキ キク科の常緑多年草であるツワブキが群生しています。

松の大廊下跡 本丸跡左手、本丸大広間と白書院(将軍との対面所)を結ぶL字形の廊下がありました。ここが「忠臣蔵」で有名な「松の大廊下」です。

富士見櫓 本丸南端に位置する三重の櫓で、櫓の高さは約16メートル。どこからみても同じような形に見える事から「八方正面の櫓」とも呼ばれています。

皇居東御苑には、果樹古品種園があり、ミカンや柿などの果樹が植えられています。

中雀門跡 旧江戸城の本丸に通じる最後の門です。立派な石垣が残っており、その石垣の上には桜が植えられています

中雀門跡から下り坂で大番所、百人番所などを通ると大手門です。 

大番所 大手中之門の内側に設けられ、他の番所よりも位の高い与力・同心によって警備されていたといわれています。江戸城本丸へは最後の番所、

百人番所 大手三の門を守衛した江戸城本丸御殿最大の検問所でした。鉄砲百人組と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、廿五騎組の4組が交代で詰めていました。

 



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