2019年5月26日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治
「罪の赦し」マルコによる福音書2章1~12節
主イエスは宣教開始に当たり、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)と言われた。福音はよきおとずれ、グッドニュースと言われる。では、私たちにとっても本当に良い知らせなのだろうか。今回はそのことに迫ってみたい。
福音は私たち人間にとって驚きである。主イエスの教え、御業はどれをとってみても驚きである。私たちは主イエスの話を聞いて、とても素晴らしいお話でしたとも、立派なお話でよく分かりましたと腹にストンと落ちることはない。当時の人々もひたすら驚いている。山上の説教で、「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた」(マタイ7:28)とある。今まで聞いたことのないことを耳にした人々の反応がうかがえる。今日の箇所もそうである。「人々は皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない』と言った」(2:12)とある。神の御言葉や御業は、そのような反応を人々に起こすのだということである。神の御言葉が語られるところでは、人々の心も揺さぶられ、騒ぎ立つのである。
もともと神の御言葉は人間にとって異質であるばかりか、むしろ受け入れ難いものである。立派な教えです、有難いことですと歓迎して受け入れられる類の心地よいものを持っていない。「そんなことは聞いたことがない」と言うのが正直な私たちの反応ではないか。もし神の御言葉を聞いて、よく分かりましたというほどのものであれば、それは人間の言葉の範疇にとどまるだろう。神の御言葉が人間の理解を超えるのは当然だと言わねばならない。その意味では、聞いて驚くのが自然の反応である。驚かなければ、逆に神の言葉ではない。新生讃美歌50番にある通り「ああ驚くべきイエスの愛よ」である。
さて、私が今日の聖書の箇所で驚くのは、「イエスはその人たちの信仰を見て」と語られていることである。主イエスが中風の人の信仰を見られて、というのではない。あるいはまた、中風の人が悔い改めて主イエスの所に来たので、というのでもない。中風の人が何かをしたとは全く語られていない。自分で主イエスに近づいたというのではない。本人は何もしていない。でも、救いはその人のところに来たのである。驚くべきことである。
主イエスはこう言われる。「イエスはその人たちの信仰を見て……」。「その人たちの信仰」とは、中風の人を運んで来た四人の信仰である。中風の人の床を持ち上げ、重い床をイエスの所まで引きずってきて、屋根にまで高く運び上げて、屋根をはがして、綱をつけて、主イエスの足下にまで男を降ろした四人の信仰である。この四人がいなかったら、中風の男はどうなっていただろう。いつまでも、いつもの自分の居場所に居続けて、生涯の決定的な転機を経験することもなかったであろう。完全に救いのない生涯、祝福されない人生、これからどうなるのかもはや知ることもないような状態。しかし、この中風の男のために労を惜しまず運んでくれた四人がいてくれたということが、この人に救いをもたらしてくれた。これは驚きの出来事であると同時に、私たちにとって希望の物語となる。自分の努力や修行や業績ではなく、救いは向こうからやってくる。主イエスからやってくる。そのためのとりなしをしてくれる者がいるということ。まさに希望である。
もう一つ、この中風の男の物語で私が驚くのは、イエスがこの中風の男にこう言われたこと。「子よ、あなたの罪は赦される」。連れてこられたのは病人。癒しの業を行われるのかなと思っていたら「子よ、あなたの罪は赦される」である。私たちには驚きと同時に理解できない。罪の赦しなんかより、癒して欲しい。それが人間の本音ではないだろうか。なぜ主イエスはそういわれたのか?
それは人は癒される以上に、まず救われなければならないことを明らかにされるためである。中風を病む人の癒しに先立って、主は罪の赦しを宣言される。すべての人は罪人であって赦しの対象である。健康であろうと病気であろうと、幸福であろうと不幸であろうと人間としては罪人なのだから赦しを受けねばならない。中風の人に向かって、「あなたの罪は赦される」と言われるのは、病人である前に人間であることを主は認めておいでになるのである。そして赦しはその人の全存在を包むもので、しかも永遠の命に結ばれるのだから、生き死にを越えた出来事としてその身に起こる。癒しは、それに反してあくまでもこの世のことであり、肉をもって生きている限りのこと。いかに癒されたとしても死ねばそこまでのことである。癒されただけでは救われたことにはならないのである。
福音は驚き。しかし、そこに神の真実、神の愛が示されている。この愛を聖霊の助けをいただいて受け入れ、救いの確信を持つものとなろう。
2019年5月19日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治
「あなたにとってガリラヤとは」 マルコによる福音書1章14ー20節
ヨハネは旧約聖書の最後の預言者である。その預言者が捕らえられたということは、旧約の時代が終ったことを意味している。実際の歴史的事実としては、主イエスの活動時期とヨハネの活動時期がどのように重なっているのか福音書によって違いがあるため、議論のあるところだが、マルコ福音書では、両者の交代は鮮やかにはっきりと描かれている。新しい時代の到来として、主イエスが登場してくる。
主イエスの登場から、すべてが始まったと言えるだろう。主イエスはガリラヤに行かれる。ガリラヤは主イエスの故郷であり、宣教を開始した場所である。私の人生にイエスが登場するのも、私のガリラヤにおいてである。そこで主イエスが登場し、しかも復活した主として現れてくださるのである。では、自分の人生のいったいどこが、ガリラヤだったのだろうか。自分にとってのガリラヤとは?そこで主イエスと出合い、イエスに従っていくことが出来る出発点であり、絶えず戻ってくる場所。原点ともいえるもの。
さて、シモンとペテロにとってのガリラヤとはどのようなものだったのだろうか。この二人は漁師で、ガリラヤ湖で魚をとって生計を立てていた。漁師は当時の庶民のありふれた職業の一つ。これをメタファー(比喩)として読むならば、ユダヤの民にとって、山は神の住む世界である。例えば、シナイ山でモーセは十戒を受け、タボール山で主イエスはご変容された。また主イエスは山の上で教えを述べられた(山上の垂訓)。それに対して、海は世俗悪の世界を象徴している。例えば、レビヤタンという怪獣は海に住んでいる。それは基本的にユダヤ人が陸の民で、海の民ではなかったからだと言われている(日本人は海の民なので、発想は少し違うが)。この二人が漁師だったということは、世俗の世界に関わっていた人間のあり方を象徴している。つまり、私たちが毎日の生活で、お金儲けに忙しく働いたり、あのことこのことで何かと心を煩わせている生活そのものを意味している。主イエスが湖のほとりを歩いておられるとは、神自らが私たちの人間の世界に関わってくださることを意味している。だからこそ、神の国が私たちに近づいているのである(14、15節)。
注意すべきは、人間が神の国の方に行くのではない。逆である。主イエスが人間の方に来てくださるのである。神の国の方が勝手に私たちの方に来てくださるのである。極端に言えば、探し求める必要は何もない。ただ向こうから来ているものに気づくだけでよい。日本人の宗教観と大いに食い違う点がここかもしれない。日本人の宗教心の原点は求道心であり、道を求める者がそれを見つけていくことだろう。発心して仏門に入るというのが普通である。座禅でもお稽古ごとでも、まず道を求めるものが門をたたいて、師匠に入門が許される。聖書の世界は逆。まず、神が人間を求めている。神の国が向こうから来る。主イエスが私たちの方に歩いてくるのである。生活のただ中に、そして、突然に。ということは何の準備も用意もなく。ということは無条件で神さまの方から来てくださるのである。
主イエスは彼らに声をかける。主イエスがかけた言葉は「わたしについて来なさい」である。私たちも確かに同様の呼び声を聞いた。いつ、どこで、どのような状況の中で主の呼びかけを聞いたか、気づいたかは、人それぞれだろう。多くの方からそのような体験の証しを聞くことがある。それらはすべてユニークな体験であり、祈りの最中のこともあれば、賛美しているときもある。喜びの体験の中の出来事だったということもあり、悲しくつらい最中に、あるいは散歩をしているときになどなど。
では、主イエスについていくとは、どういうことだろうか。「人間をとる漁師」になることだと主イエスは言われる。今までは魚という世俗のできことに関わる生活だったが、そこから人間相手の仕事へ。愛に方向付けられた生き方へ。神の国の広がりを手伝う仕事へと向かっていくのだ。ただ世俗的な繁栄を求める生き方から、神の国の繁栄を求める生き方へ。それには主イエスが人間に近づかれたように、私たちも人間に向かっていく生き方へとシフトしていくように呼ばれている。言い換えて言うならば、自分中心に何事も考え行動している生き方から、他者に向かって、そして他者と共に生きていく生き方へと変わっていくことである。私たちキリスト者の生き方は基本的に他者へと向かっていく生き方である。それが宣教の働きとして用いられていくのである。