逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

祝福の確かな根拠

2024-01-29 14:31:11 | 説教要旨
2024年1月28日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「祝福の確かな根拠」 マルコによる福音書10章13-16節
 祝福は美しい言葉であり、美しい行為だ。入学・就職・結婚・出産といった慶事に接するとき、「おめでとう、お幸せに」という祝福の言葉が私たちの口からごく自然に出てくる。そして私たち自身も祝福の言葉を慈雨のように注がれて、誕生から今日までを歩んできた。
 今日の聖書個所もそうだが、祝福はとりわけキリスト教に縁の深いものでもある。試しに手許の国語辞典で「祝福」という言葉を引いてみてください。そこには「幸福を喜び祝うこと」という一般的な意味と並んで、「キリスト教で神の恵みが与えられること、神から与えられる恵み」といった解説が必ず載っている。祝福がキリスト教の本質に関わるものであることが、辞書の中にちゃんと記されているのだ。
 先週の説教でもお話したが、まさしく聖書は最初の1ページから祝福を語る。言葉によってすべてのものを無から創り出された神様は、御自分の作品を一つ一つ確かめて「よし」とされた。この無条件の肯定の中に、原初の祝福が現れているだろう。世界がよいものとして創造されたことは、私たちに与えられている祝福の第一の根拠である。
 しかし、ことはそう簡単ではない。祝福とともに始まった人間の歴史の綻びは、ほかならぬ祝福をめぐる不条理を通じて明らかになっていく。まず創世記4章に出てくるアベルとカインの兄弟の話。アベルの捧げものは祝福されたのにカインのそれは祝福されず、兄弟殺しの悲劇を生んだ。聖書の中での人類最初の殺人事件だと言われている。次に出てくるのは、長子に与えられる祝福を争ってヤコブはエサウを騙した話。さらに、ヨセフ物語では、父親から可愛がられたヨセフは兄たちの憎しみをかった。諸民族間でも争いが絶えない。敵対する諸民族の間では、一方の祝福は常に他方の呪いであり、終わりのない報復合戦が続く。それは現在のウクライナやガザにまで延々とつながってきている。
 それは戦場に限らず私たちの日常の中にも、祝福をめぐる不公平や不条理は至るところに満ちている。今日の聖書個所でもそれが現れている。13節に「イエスの触れていただくために……」とあるが、それは主イエスから祝福をしていただこうと子どもたちを連れてきたのに、弟子たちに拒まれた、というのだ。このような差別と偏見に満ちた不公平や不条理は本当にわたしたちの日常生活の中でいくつも見られる。こうした現実を前にして、原初の祝福は私たちの目に遠く霞んでしまいます。この世のどこに祝福があるのか、祝福はどこへ行ったのかと私たちは問う。そしてこのような懐疑と不信は、私たちが旧約の世界に留まっている限り払拭することができない。
 疑いを吹き払い祝福の真の意味を教えてくれるのは、言うまでもなく新約聖書に書かれている福音のメッセージである。その福音の中心のメッセージが十字架の贖いであり復活の主の臨在である。成功や繫栄や長寿は祝福のたかだか半分でしかない。それらがすっかり失われた逆境のさ中にも主イエスがおられ、どこまでも私たちと共に居続けてくださること、インマヌエル(主、共にいます)の約束こそ祝福の第二の根拠であり、より強力な真の根拠なのである。
 さて、祝福の確かな根拠は分かったのだが、そのことを素直に受け入れることができるのかという問題がある。今日の聖書個所で主イエスは幼子(乳飲み子)を引き合いに出して話される。乳飲み子という言葉からしても、幼子は飲み込む、素直に受け入れるという特色がある。その受け入れるという点にこそ、幼子を主イエスが引き合いに出されたゆえんがある。
 私たちの信仰生活を考えると、入ることができたら受け入れていこうという態度があるように思う。分かりやすく言うと、お金がもうかったら、病気が治ったら信じようという態度である。神の国に入ったら、神の国はよかったから受け入れていこうという態度である。それに対して、主イエスは受け入れることによって入ることができるのだと言われた。
 主イエスはヨハネ福音書6:35で「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」と言われた。私たちは飢えることがなかったら、この人は命のパンだと思うが、イエスを信じなければ、イエスが命のパンであることが私たちにはわからないと言われた。イエスが特別に強調されているのは、幼子のように「神の国を受け入れる」、信仰を受け入れ、信じることが先であり、その後に神の国に入ることができるのであるという点である。信じる者は救われる、である。

良しとされる神の愛

2024-01-23 12:41:38 | 説教要旨
2024年1月21日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「良しとされる神の愛」マルコによる福音書10章13-16節
 キリスト教は「愛の宗教」であるとよく言われる。では、キリスト教の言うところの「愛」とは何か。それは「神の愛」。では、それはどんな愛なのか。まず、「神の愛」とは、愛の対象がすべてのもの。さらに無条件で一方的で、無限、永遠にあるものである。それは神の本質そのもの。神とはそういうお方であるということである。「神は愛なり」である。神イコール愛。愛イコール神。
 そのことを聖書は最初から宣言して、私たちに示している。創世記の最初の天地創造のところに、「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。」とある。「良しとされた」。この言葉は繰り返し語られ、31節で「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と続く。神はすべてのものを良しとされた。神はすべてのものを否定しないで肯定される。これが究極の愛。「よし」とされる肯定こそ愛の表現である。
 卑近な例でお話しよう。赤ちゃんが泣くと、母親は赤ちゃんを抱き上げて、軽く揺すりながらあやして言う。「おお、よし、よし」。優しい、なんと愛情のこもった言葉だろうか。人が生きるうえでの原点となる、尊い言葉だと思う。この「よし、よし」はもちろん「良い」という意味の「よし」だから、母親は「おお、良い、良い」と言っているわけで、この時、赤ちゃんは「良い存在」として全肯定されている。先ほどの天地創造の時、神が宣言された「よし」と同じである。赤ちゃんにしてみれば、「腹減った」とか「眠い」とか、理由があって泣いているのだから、ちっとも「良く」ないのだけれど、母親はにっこり笑って言う。「おお、よしよし。すぐに良くなる。ほら、お母さんはここにいるよ。何も心配しなくてもいいのよ。おお、よし、よし。おまえは良い子だ。良い子だね」。このような言葉がけにはもう一つの思いが込められている。それは全面的に存在を受け入れているということ。わかりやすく言うと「今そこに生きていること」自体が「よし」とされている、全面的にその生を、命を受け入れられているということである。「いいよ、いいよ」ということだ。
 私たち大人はそんなことをもうすっかり忘れて、当たり前のように生きているが、誰もが赤ちゃんの時にそうしてあやされたからこそ、自分を肯定し、世界を肯定して今日まで生きてこられたのではないうか。生きる力を与えられてきたのではないか。「おお、よし、よし」はその人の最も深いところで、いつまでも響き続けているのである。
 今日の聖書箇所もそう。弟子たちは幼子の存在を否定的に見ている。生産性がない、有用性がない。役立たず。だから受け入れない。だから、叱った。「女、子どもの来るところではない」という差別と偏見。しかし、主イエスは「神の国はこのような者たちのものである」と肯定的に受け入れておられる。主イエスは自分の身近に呼び寄せて言われる。「このような者こそ、神の国に入ること」ができる。そして子どもを抱き上げ、祝福される。このように私たちは神から肯定され、「よし」とされ、祝福されたものとして生かされているのである。このことは何も子どもだけのことではない。女性に対しても、罪人に対しても、障害や重い病にある人にも、異邦人にも、いわゆる社会で小さくされた者、弱くされた者、周辺に追いやられている者などに対して、主イエスは正面から向き合い、教え、宣べ伝え、癒されたのである。
 その意味では、生まれて最初の「よし、よし」は、生きる上での原点ともいえるのではないか。何しろ生まれたばかりの赤ちゃんには、すべてが恐怖である。それまでの母体内での天国から突然放り出され、赤ちゃんは痛みと恐れの中で究極の泣き声を上げる。いわゆる「産声」である。この世で最初の悲鳴である。ところが、それを見守る大人たちは、なんとニコニコ笑っているではないか。そして母親はわが子を抱き上げて、微笑んで語りかける。赤ちゃんがこの世で聞く最初の言葉、「おお、よし、よし」。
 わが子が泣いているのに、なぜ母親は微笑んでいるのだろうか。親は知っているからだ。今泣いていても、すぐ泣き止むことを。今つらくともすぐに幸せが訪れることを。今は知らなくとも、やがてこの子が生きる喜びを知り、生まれてきてよかったと思える日が来ることを。親は泣き叫ぶ子にそう言いたいのだ。
 「おお、よし、よし。大丈夫、心配ない。恐れずに生きていきなさい。自分の足で歩き、自分の口で語り、自分の手で愛する人を抱きしめなさい。これからも痛いこと、怖いことがたくさんあるけれども生きることは本当に素晴らしい。大丈夫、心配ない。おまえを愛しているよ、おお、よし、よし」。 存在の孤独に、生きていることの孤独に胸を締め付けられるような夜は、生みの親の愛を信じて、そっと耳を澄ませてみよう。きっとわが子に微笑んで呼びかける人生最初の「おお、よし、よし」が聞こえてくるだろう。そして、その言葉の背後に、すべてのものに微笑んで呼びかける、宇宙最初の神の「よし、よし」も聞こえてくるだろう。そして、主イエスが「子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された」その祝福を私たちにも今日、同じように招いて祝福してくださる主イエスの声が聞こえてくるだろう。そこに私たちは生きる力を感じ、喜びがわいてくるのである。それが神の愛のすごいところ、すばらしいところではないか。この愛を心開いて受け取り、感謝しよう。

逗子第一教会の23年の五大ニュース

2024-01-15 11:29:06 | コラム
 23年最後の祈祷会で、逗子第一教会の五大ニュースを考えた。数えてみよ、主の恵み、です。
 第一は何より、4月からの新しい牧師を招聘できたこと。その方との出会いは神学校週間の一環としての宣教奉仕に来てくださったこと。ここからすべてが始まった。
 第二は3名の転入者が与えられたこと。Sさん、Uさん、Iさん。壮年の頼もしい方々ばかり。3人も!これはもう奇跡、と叫んだことだ。
 第三は横浜戸塚教会との協力伝道が具体的に推進されたこと。交換講壇、合同祈祷会、除草作業の奉仕と交わりなど。香港ミッションチームとも出会えた。
 第四は秋のアコーディオンコンサート。熊坂路得子さんの素晴らしい演奏と証し。感謝。
 第五は駐車場の柵の設置と整地。これで車の駐車状況がすっきりした。するとすぐに2台の駐車依頼があった。
 本当に、数えてみよ、主の恵みです。感謝、感謝。 

気づきと感謝

2024-01-15 11:19:39 | 説教要旨
2024年1月14日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「気づきと感謝」 ルカによる福音書17章11ー19節
 私たちは、意識するとしないとに関わらず、往々にして、「その宗教がどれだけ役に立つか」、「礼拝がどれだけ役に立つか」という基準によって判断したり選択したりすることがある。すなわち「神と取引し、自分のニーズに応じて教会や礼拝に関わる」ような意識や行動が、知らず知らずのうちに侵入してきている。だからこそ、私たちはそうした危険に取り囲まれながら、信仰生活や教会生活を送っていることを常に意識し続けていなければならない。
 礼拝は人間と神が「取り引き」する場ではないし、商売でもなく、教会もそのための商店ではない。聖書は、あらゆる私たちの人間的な思いに先立って、神ご自身が私たちに本当に必要なものをご存知であると告げている。マタイによる福音書6章25節以下を読むと、「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。(中略)あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」とある。
 私たちを創造し、私たちを恵み、私たちを見守ってくださる神は、全て必要なものを私たちに与えてくださる方である。私たちが必要とするものを全て喜んで与えてくださる方に対して、どうして「取り引き」する必要があるだろう。礼拝とは、何かを獲得するために人々が集まる場ではなく、私たちに本当に必要なものがすでに与えられていることを知って感謝する人々の集いなのである。
 このことを今日与えられた聖書の箇所、ルカ福音書17章11節以下に記されている「重い皮膚病を患っている十人の人の癒し」から教えられたいと思う。この話は、当時のユダヤ社会で大変嫌悪された「重い皮膚病」にかかっていた十人の人が、主イエスによって癒され、それぞれ社会復帰を遂げることができたことを語っている。十人は全員が病を癒され、健康になった。しかし、聖書によれば、この癒された十人のうちで主イエスのもとに戻ってきて感謝し、神を賛美した人はたった一人しかいなかったというのである。宗教改革者ルターはこの物語について、礼拝とは「癒されるための条件」ではなく、「癒された者の感謝の表現」なのだと説いている。
 特にここで注目したいのは、十人すべてが癒されたという事実である。感謝した者もしなかった者も、全員その願い通りに癒されたのである。それにもかかわらず、神をほめたたえるために戻ってきたのは、たった一人だったというのだ。ここには、神と人間との関係を理解する上で、また礼拝とは何かということを理解する上で、とても重要なカギがあるように思う。キリスト教は、旧約聖書以来の伝統に沿って、次のことを主張する。「すべての人間は神の恵みによって創造され、すべての人間は神の恵みの中に置かれています」。しかし、すべての人間がこの恵みに気づいているわけではない。この恵みに気づいた者は感謝する。しかし、気づかない者は感謝しない。気づいた者は礼拝する。気づかない者は礼拝をしない。
 私たちの時代は礼拝しない人間の時代である。人間が自分の力に頼ることしか知らず、「神の愛」を信じることのできない時代である。「自分に役に立つか立たないか」を基準にしてすべてを決定し、お互いがお互いを利用する「利己主義の分かち合い」によって生きているような時代である。しかし、そのような世界の中では、人間は本当に人間らしく、安心して生きていくことは出来ないだろう。
 キリスト者が礼拝に参加するのは、神から何かを獲得したり、神と取り引きしたりするためではない。私たちが礼拝に参加するのは、神がすでに私たちを愛してくださっていることに気づき、それに感謝するためである。そしてさらに言えば、このような気づきと感謝の中で礼拝することを通して、私たちはこの世に向けて、神に感謝する生き方があること、人間は神の恵みによって生きるということを証しするのである。私たちの礼拝とは、そのような広がりの中で行われる「神の民」の喜びの告白であり、同時に宣教の業であることを忘れないようにしたいと思う。

我ら、神の同労者

2024-01-09 16:29:05 | 説教要旨
2024年1月7日 逗子第一教会 新年礼拝宣教
「我ら、神の同労者」 コリントの信徒への手紙一3章1~9節 
 人生は出会いである、とよく言われるが、信仰もある意味、出会いによって起こる出来事ではないかと思われる。皆さんはそもそも、キリスト教とどこでどのようにして出会いましたか。聖書とか、礼拝とか、賛美歌とか、クリスチャンとの出会いとか,いろいろあるだろう。その時は気づかなくても、後になって、あれがそうだったなということもあるだろう。 
 私たちは新しい年を迎えて、抱負を語り、夢を語り、希望を持ち、計画を立てる。しかし、新しいことを始める時には、それが何であっても、まず第一にそこで神と出会わなければならない。どんな計画でも、神とともに始めなければならない。私たちがあれこれ計画を立てる時に、その計画を神に捧げなければならない。そうすれば、私たちは自分の意志ではなく、神の意志に従っているのだという確信が持てるだろう。そうするならば、私たちにも光が与えられるだろう。
 ドイツの神学者が、牧師は講壇に上がる時には、右手に聖書、左手に新聞を持ってあがりなさい、と言ったという。今だったら、右手に聖書、左手にスマホだろうか。聖書の話は昔の話、遠いどこかの国の話ではなく、その聖書のみ言葉が、今起きている現実の社会とどう関わっているのか、この時代に照らして、聖書が私たちに何を語っているのか、ということを常に考えることが大事であるということだろう。それは常に現実を相対化してみるということでもある。
 今朝の招きの言葉に、「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって/主は救いの御業を果たされた」(詩編98:1)とある。神は御自身の愛をみ子イエスに託された。神は、ご自身がどんなに私たちを愛しているのか、ということを伝えるためにみ子を遣わしてくださったのである(ヨハネ3:16)。その主イエスの生涯の第一ページがクリスマスの出来事であり、その後の主イエスの公生涯(とりわけ十字架と復活)の出来事が「福音」であり、「よきおとずれ(グッドニュース)」なのである。
 「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)とあるように、主は私たちに福音を託し、福音の管理者(スチュワード)として福音の宣教をお命じになった。しかし、この福音のわざは一人の力でできるものではない。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)と語られているように、私たちは神の同労者として、今、生きて働いておられる聖霊なる神とともに託されたわざをなしていくのである。
 同労者は、目的を一つとしてともに重荷を担う。互いをよく理解し、信頼と尊敬のきずなを強めて、重荷を担い合う。パウロは、「私たちは神の同労者である」(第一コリント3:9口語訳)と言っている。神は私たちをご自身の同労者として召してくださった。神は補助者を必要とするようなお方ではないが、しかし、神は恵みと憐れみとをもって私たちを同労者として立ててくださった。私たちは神の同労者として神に仕え、奉仕し、捧げるときに、より深く神の恵みを知ることができる。スチュアードシップを通して神と私たちの関係は強められていくのである。今年も神の同労者として、共に祈りつつ、主の福音宣教の業に励もう。