逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

前へ―キリスト信仰の姿勢

2019-10-29 16:44:29 | 説教要旨

2019年10月27日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治
「前へ―キリスト信仰の姿勢」フィリピの信徒への手紙3章12~14節

スポーツは信仰生活とよく似ている。今日の聖書箇所でパウロは自らの信仰生活を「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走る」(14節)と語り、スポーツ競技に信仰生活をなぞらえている。そして、パウロは、「なすべきことはただ一つ」、「後のものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」(13節)、「目標を目指してひたすら走る」と言っている。しかし、私たちはしばしば忘れている。ぐずぐずしたり、小さなことに拘泥して立ち止まったり、逆戻りしようとする。逃げようともする。しかし信仰の生活に「なすべきことはただ一つ」、「前へ」なのである。
 
なぜ、「前へ」なのか。信仰生活とスポーツ競技とはこの一点で大きな類似点がある。それは、どちらにもゴールがあるということ。目標があり、そして終わりがある。そこを目指している。ゴールがなければ、どっちが前かは分からない。どちらに向いて走り出せばいいかわからない。しかしゴールがある。ゴールがあるので、そのゴールに規定された生き方がなされていく。パウロはそこで「賞を得る」(14節)とも語っている。それは、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞」。「忠実な僕よくやった」という最後の神の国における賞である。これもスポーツ競技と類似している。
 
スポーツにも一種の「終末論的な構造」があるといってよいかも知れない。終わりがあり、そこで審判がなされ、そしてはじめて最後に賞が与えられる。途中でどんなに状況や具合が悪く見えようと、問題なのはゴールである。そこでこの終わり、ゴールから規定され、ゴールに向かって、それ以前の走りを考えるわけである。またそのための訓練も生まれてくる。よくアスリートたちが言う「オリンピックのメダルを目指して、なすべきことを悔いなくやっていきたい」と。
 
そこでもう一つ重大なのが、この「前へ」というあり方の眼のつけどころ、目の位置ではないか。「目標を目指して」だが、目標がマラソンの場合のように目の前に見えない場合もあるだろう。これについてはヘブライ人への手紙にこう記されている。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(12:2)。これが信仰生活の目の位置である。「目標を目指して」ということは、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」ということなのだ。イエスを見つめることが、目標を見つめること。それがまた「前へ」ということでもある。主イエスを見て、主イエスに向かっていくのが、信仰の歩み、それが前へ進むことなのである。
 
今、主イエスがどう一歩前、数歩前を走っておられるか、これを知ることは聖書に従って、み言葉に示されて、決して不明瞭ではない。問題は、私たちの目が主イエスから離れること。脇目を振ったり、うつむいて下を見たり、振り返って後ろを見たりしてしまうことである。主イエスを見ないで、現実を見てしまうことである。主イエスではなく、あのロトの妻のように自分たちが出てきた元の町を見たり、ペテロのように、主イエスを見つめず、足元の嵐や荒波を見てしまうこと(マタイ14章)。「イエスを見つめながら」、これが信仰のいつもの姿勢ではないか。
 
ヘブライ人への手紙はこの直後、簡潔に受難の主イエスを描いている。十字架の死を耐え忍んで、神の右に座しておられる主イエスである(12章2節)。この主にじっと目を向けて、このイエスを見つめながらキリスト者は生きる。それが前進するキリスト者、前へと進む信仰者の姿勢である。
 
他のものへと眼をそむけないこと。パウロは「後のものを忘れ」と言う。「後のもの」に目を向けない。確かに実際にはこれがなかなか出来ない。人間は、忘れようとすればするほど、かえって、それにこだわるようになる。目を向けまいとすればするほど、そっちに目が行くということもある。自分の失敗とか、果たせなかった責任とか、隣人の失敗とか欠陥とか、性格がどうとか、能力がどうとか、気になり出すと、頭から離れない。小さな些細なことが忘れられなくなったりする。教会のことでも、眼がうつむき、下向きになる。そして「前へ」を忘れてしまう。本当に重大な教会の使命が、主イエスの十字架と神の国の福音を伝えることであること、「福音の前進」に仕えることであることを忘れてしまう。 

それでは、どうしたら、後のことを忘れられるだろうか。ヘブライ人への手紙で言えば、「すべての重荷やからみつく罪をかなぐり捨てて」(12:1)となる。どうしたら「重荷」や「罪」を捨てられるか。なかなか捨てられないからこそ重荷であり、また罪であるわけだ。しかしそれは「かなぐり捨てなければ、走れない」。古代の競技は裸で走ったといわれる。余分のものを背負っていたり、身につけていては、走れないからだ。同じように、信仰生活において罪だけでない、信仰の馳せ場を走りにくくするものは、かなぐり捨てよというのである。これは、やはり「十字架の主をじっと見つめる」ことと関係がある。主を見つめることなしに、気を転じ、眼を転じ、重荷をかなぐり捨てることは出来ない。やはり、十字架にかかられた主イエス、この主が私たちに信仰を与えて下さり、また信仰を完成させて下さるのだ。この主を心の内でじっと見つめることだ。主を見つめることで、足元の嵐や荒波に目を奪われなくなるのである。「すべての重荷やからみつく罪」を「十字架の主イエス」にゆだねて、その足下に置く。「後のこと」を主に任せる。主に信頼すること。

「前のものに全身を向けつつ」「イエスを見つめて」信仰生活を最後まで走り続けようではないか。







主の祈りに学ぶ

2019-10-21 16:08:04 | 説教要旨

2019年10月20日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治
「主の祈りに学ぶ」ルカによる福音書11章1ー4節
     
 主の祈りは、キリスト教の小さな学校と言われる。主の祈りを学ぶとき、私たちが祈りをささげる神さまがどのようなお方であるかを知ることができる。また、キリスト信仰が本来どのようなものなのかをやさしく教えてくれる。さらに、私たちの祈りが、自分勝手な祈りになってしまうことから守ってくれる。
 
 主の祈りは弟子たちがイエスさまに、「祈ることを教えてください」(ルカ福音書11:1)とお願いし、イエスさまから直接、教えていただいた祈りである。イエスさまの弟子たちも、基本的には旧約の時代から続いている自分たちの祈りの生活を持っていたはずだ。しかし、彼らはイエスさまの祈りを見た時に、自分たちが「祈り」だと教えられてきたものとは根本的に何かが違うのではないか、と考えざるを得なかったのではないだろうか。一人で静かなところで祈っておられるイエスさまの祈りの姿が、あまりにも自分たちの祈りの生活と違ったのだろう。だからこそイエスさまに、「祈りを教えてください」と願ったのだ。
 
 イエスさまは、まるで夢中になって、父なる神さまとの祈りの時間をいつも持っておられた。神であるならば、祈らずとも、言葉を交わさずとも、互いの思いや考えていることはわかるはずなのに、イエスさまは祈られる。それは、父なる神も子なるイエスも、互いに言葉をもって「話したい」と願っておられる神さまだからだ。これを神格的な交わり、三位一体の交わりの中にある神さまであるということが言えるのではないだろうか。
 
 この交わりが、私たち人間にも向けられ、神さまがわたしたちとも「話したい」と願っておられるのだ。創世記3章に神さまが人間とはじめて会話する場面がある。エデンの園でアダムとエバが禁断の木の実を食べて、神を恐れて隠れた場面で、神が「どこにいるのか」と呼ばれ、アダムが「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。」と答える場面。創世記1章27節に「神はご自分にかたどって人を創造された」とあるが、神さまは最初から私たちと「話したい」と願って「ご自分にかたどって人を創造された」のではないだろうか。
 
 さて、今私たちが祈る「主の祈り」は「天にまします」という言葉で始まる。これは同じ「主の祈り」について書かれたマタイ福音書6章9節に「天におられる私たちの父よ」から来たもの。この祈りの言葉から、私たちの信じている神さまは、「天」というところにおられるということがわかる。「天」という言葉は、私たちの目を上に向けさせる言葉である。「天」とは全体を見渡すのに最適な場所であり、神の視野を妨げるものは何もない。神こそ世界にその視野を持っておられるお方である。そして今、どこで何が起こって、どんな必要があるのかが見えるところにおられるのである。
 
 私たちがしばしば祈りについて持つ疑問は、「祈りは聞かれるのか?」というものだろう。その疑問は、私たちが自分の必要しか目に入っていない、考えていないところからくるのではないだろうか。しかし、「天にまします」と祈りつつ、天に場所を持っておられる神さまに目を上げる。その時、私の必要もご存知だが、すべての人の必要もご存知であることを想い起こさせられる。そうして、私の目にも、他の人の必要が目に入ってくる。この神さまがすべてを見渡せる場所で、私たちの最善を願い、祈りに応えようとしてくださっていることを信じることができる。だから、次に続く言葉が「私の父よ」ではなく「我らの父よ」と複数形になる。私だけの父ではない。「我らの」、すべての人にとっても父なのである。そのことを教えてくれる。そうすると、私たちの信仰生活はどうあるべきか、どのような姿勢で生きるべきかがおのずとわかるであろう。天、神を見上げて、我らである隣人を常に意識していく。それは神を愛し、隣人を愛することにつながっていく。
 
 今朝も、「天にまします我らの父よ」と祈ることで、今日という日も神は最善の選択をなしておられるのだと信じて、私たちも平安に一日を過ごすことができる。

主の教えを愛する

2019-10-17 15:42:39 | 説教要旨

2019年10月13日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治
「主の教えを愛する」詩編1編1ー6節
     
 冒頭「いかに幸いなことか」とこの詩人は歌う。この言葉は、神の祝福に満たされた状態を称賛する感嘆の言葉である。この幸いは確固たる現実をさしており、神によって約束され、かつすでにそこに実現している幸いである。
 
では、だれが幸いなのか、どんな人が幸いなのか。それが以下3節までに述べてある。「神に逆らう者」とは、ただ単に道徳的な善悪を問題にしているのではなく、神への服従か不服従か、神との関わりを問うている言い方である。そして、そのような者の計らいに従って「歩まず」であり、「とどまらず」、「座らず」である。動詞の否定形が使われている。それは逆に言うと、この世の中の現実は実に多くの「神に逆らう者の計らい」や「罪ある者の道」や「傲慢な者の席」があるということである。
 
ここで詩人はそれらに「歩まず」「とどまらず」「座らず」という、態度、姿勢、選択、それが「幸いだ」と言う。そして、そのような人は「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」であると言うのである。この「主の教えを愛し」の「愛し」は「喜び」と言った方が元の意味に忠実である。だから、ここは「主の教えが私を喜ばせてくれる」である。この喜びこそ、恵みとして与えられているものである。主体は向こう側、主の教えにあることがよくわかる。
 
そのことは次の3節を見ると、なおよくわかる。「幸いな人」を木にたとえている。流れのほとりに植えられた木が実を結ぶのは、木の功績、努力、その報酬でもない。生命の源である水にしっかりと結びついて、そこから生きる力を得ているからにほかならない。そのように、主の教えにしっかりと結びついている人は、自らの力や努力によらず、主の教えを通して与えられる力によって繁栄をもたらす。それが幸い。だから、主の教えを喜ぶのである。 
 
しかしながら、もう一歩突きつめて考えたときに、果たして、現実の社会においてこのような幸いな人が存在し得たのであろうかという疑問である。1~2節に描かれているような人が存在しただろうかという疑問。我々人間は、皆4~5節に書かれているような存在ではないだろうか。少なくとも、主イエスに出会い、救われるまでの人生はそのようなものではなかったか。また旧約聖書に描かれる人物の中で、この人こそはと思う人はだれがいるだろうか。アブラハム?モーセ?ダビデ?確かに彼らは偉大な信仰者、指導者、王ではあったが、しかし、いずれも、一点の欠けもない義人であったとは聖書は語っていない。パウロも「義人はいない、ひとりもいない」(口語訳ロマ書3:10)と書いている。とすれば、私たちはこの詩篇をどのよう受け取ったらよいのか。
 
宗教改革者ルターは、この幸いな人とはキリストを指す、と言っている。確かに聖書はキリストを指し示す神の言葉であって、私たちは聖書のどこにおいてもキリストを指し示され、キリストに出会うように導かれる。詩篇においても、私たちはキリストに出会わせられるが、ルターによれば、この詩篇の第1篇において、すでにキリストに出会うという。確かにここに描かれた幸いな義人は、イエス・キリストについてのみあてはまる。私たちは福音書や使徒たちの証言を通してそのことを知らされ、信じている。したがって、私たちは、この詩篇をルターにならって読みとることがゆるされるのではないか。
 
とすると、ここにいう神に従う人とは、第一にキリストを指すことになる。だから、6節「神に従う人の道」とは、キリストにおいて示された道ということになる。キリストご自身も、二つの道を示され、狭い門から入れと言われた(マタイ7:13-14)。またご自身こそが「道」であると言われた(ヨハネ14:6)。
 
第二に、キリストを信じてキリストの道を歩む人が、神に従う人なのである。パウロが「キリストへの信仰によって義としていただく」(ガラテヤ2:16)と語っているのは、このことではないか。さらにパウロはキリストによって義とされて生きている自分のことを「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と告白している。私たちがこのような信仰に立って、この詩篇を味わうときに、この詩篇を自らの祈りとすることが出来るのではないだろうか。

新聞拾い読み その2

2019-10-08 16:09:40 | コラム

新聞拾い読み その2

 朝日新聞の連載小説「ひこばえ」(9月5日)から。老人ホームの施設長の主人公が「悲しさには、はっきりした理由やきっかけがあります。病気で言えば、急性のものです。でも、寂しさは慢性なんです。ふと気づくと、胸にぽっかり穴が空いていて、いつの間にかそれが当たり前になって、じわじわ、じわじわ、悪化していって……」と語る場面。だから、その寂しさを紛らわすため、寂しさの穴を埋めるために、施設でイベントや講座を企画するのだと言う。さらに主人公は「人生の長い旅の、最後の最後に行き着く先が寂しさなんて、悔しいじゃないですか」と言うが、イベントや講座でその穴が埋められるのか?その時だけの気休め、まさに紛らわせているだけではないか。
 寂しさは多くの場合、喪失感からくる。長年連れ添った伴侶を失う。退職して肩書がなくなる。災害で家を失う。故郷を失う。では、そのぽっかり空いた穴をなにで埋めることができるか。パスカル(フランスの哲学者)はそれは神の存在であると書いている(「パンセ」)。究極の穴埋めは神、信仰。           

土の器に宝あり 道徳と福音の違い

2019-10-08 11:24:42 | 説教要旨

2019年10月6日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治
「土の器に宝あり 道徳と福音の違い」コリントの信徒への手紙二 4章7ー15節

 「いのちはどこにある?」私が教員時代、生徒たちによく問いかけた問いである。それは「いのちって何だと思う?」と考えさせ、さらに「生きる」とか、「共に生きる」ということはどういうことかを考えさせるためであった。
 
 「君たちは、自分のいのちを持っている?」と問いかけると、生徒たちは「持っている」と答える。「じゃあ、どこに持っているの?」と聞くと、「身体全体」とか「心臓」とかいろいろな返事が返ってくる。しかし中学生ともなると、多くの生徒は黙り込んで考え始める。そこで、「じゃあ、心臓や身体がいのちなの?」と聞くと、生徒たちは「違う」と言う。心臓が止まれば人間は死んでしまう。それは確かだけれども、だからといって、心臓や身体がいのちなのかというとそのようには思われないと生徒たちは感じているのである。だから、考え込む生徒も多く出るのである。
 
 さあ、そこで次のような突っ込みを入れる。「風は見ることができますか?空気は見えますか?見えませんね。でも、確かにそこにあって、人間が生きていく上で欠かせないものですね。いのちも目で見ることはできないけれども、確かに存在するものです。見えないもののなかにとても大切なものがあるんだよ」と言って結ぶ。そして「聖書という本にこういう言葉があるよ」と紹介する。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(第二コリント4章18節)。 
 
 そしてさらに問いかける。「君たちにとって、いのちと同じように、目に見えないけれど、確かに存在するし、大切なものって、ある?」。生徒たちは「友情」とか「愛」とか「感動」「こころ」などという言葉を返してくる。そこで、「じゃあ、その目に見えないけど大切な友情とか愛は、どうやって示すの?また、どんなことが友情や愛の行為なの?」。もう生徒たちは気づき始めている。「人の嫌がることをしない」「相手の喜ぶことをする」「励ましたり声をかけたりしてあげる」。私はただうなずいて、「そうだね」と言うだけ。
 
 しかし、さらに別の角度から突っ込む。「今、日本人の出生率はどのくらいか知ってる?」。正確には合計特殊出生率といって、出生可能な年齢層のなかで何人の子どもが生まれるかということなのだが、生徒たちはほとんど知らない。そこで「じゃあ、君たちの兄弟は何人?その辺から考えてみたら」と問うと、「2,3人かな」と言う子や、「1.5人」という生徒もいる。「正解は1.4」(20年以上前の話)と言うと、みんな変に納得した顔をする。少子化はすでにその頃の子どもたちは実感していたのだろう。「それでは、次の質問。日本人の死亡率は、上がっているか下がっているか?」。「上がっている」と多くの生徒の声。高齢化社会をイメージしているのだろう。「残念でした。日本人の死亡率は、昔から100パーセントでした。みんな死にます」。生徒たちは「引っかけ問題だ!」ともう大騒ぎ。さあ、これからが肝心なところ。「そう、私たちは親や周りの人たちから大事にされて生まれ、育てられてきた。しかし必ずみんな死ぬ」。生徒たちはシーンと静かになる。「その間の人生をどう生きるか?って考えることは、とても大事だと思うよ」と投げ掛けていく。

 自分が持っている時間、自分が使える時間が「いのち」そのものであって、その時間をどう使うかが私たち一人ひとりに与えられた課題であると話す。与えられたいのち(時間)をどう生き、どのように返すか、それを真剣に考え、そして一日一日を精一杯生きていくことが大切であることを話して、「いのち」を生きる授業は終る。生徒に問いかけ、考えさせる。考えることが生きることでもあるだろう。

 さて、聖書では、「いのち」「生きる」ということについてどのように言っているか。実に様々な物語、出来事、教え、祈りなどを通して語られている。そこで、今日は第二コリント4章7~15節から見ていきたい。7節に「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」とある。「キリストの内住」といわれる御言葉である。これは何か神秘的な体験ではない。キリストの内住とは、キリストが支配する自分になることである。自分は自分の主人公であるから、誰でも自分だけは人に明け渡したくない気持ちがある。しかし、このような自分をキリストに明け渡すとき、はじめてキリストが私たちの中に住んでくださるのである。何もこのようなことは特別なことではない。人間社会でもよくあることだ。例えば、これからはこの人についていこう、この人に命を預けるつもりで頑張ろうといって、その人の言動を見習いながら修行したり仕事を覚えていったりということがある。その人に人生をかける、命を預ける、そのようにして生き、成長していった芸人やアスリート、職人などいくらもいる。

 「宝を土の器に納めている」、素晴らしい言葉、まさに福音。しかし、私たちは、とかくこの土の器の方を問題にしやすい。人は器を嘆く。こんな不幸な人生はない、これでは嫌だと。しかし、問題は器ではなく、その中身なのである。大事なことは、その中に何が入っているかだ。高価な器でも、中に泥水が入っていたらだめだ。失望したり、立ち止まったり、ひがんだりする必要はない。触れれば壊れるような土の器であっても、そこにキリストという宝があるなら、素晴らしい人生になると聖書はわたしたちに語っている。8節「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」とある。なぜだろうか。
 
 パウロは7節で続けて「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」と付け加えている。「この並外れて偉大な力」とは「神の力」。ギリシャ語でダイナマイトの語源でもあるデュナミスという。爆発的な力。並外れて偉大な力。宝はそれを持っている。その宝のことを10節では「イエスの命がこの体に現れる」とか、12節「あなたがたの内には命が働いている」、13節「信仰の霊を持っている」と表現している。いずれにしても「わたしたちから出たものでない」、神から与えられた恵み、それを宝と言い、命と言い、信仰の霊といっている。

 「宝を土の器に納めている者」、信仰を持っている者は、何があろうと躓かない、七転び八起きの人生を送ることができるといった、将来の安心保証を約束しているわけではない。人生には困難、試練、悲しみなどいろいろある。あるけれども、あれほどの困難な事があったのに、気が付けば乗り越えている自分がいるではないか、とパウロはあらためて自分を振り返っているのである。それはなぜか、キリストの死と命が私たち土の器である体によって現れるからである。「虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」。これこそ本物の信仰者の強さである。これが福音。〈/font>