逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

感謝で始まり、感謝で終わる

2023-09-25 11:01:28 | 説教要旨
2023年9月24日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「感謝で始まり、感謝で終わる」フィリピの信徒への手紙4章6-7節
 祈りについての聖書の言葉と言えばいろいろあるが、イエスが弟子たちに教えた「主の祈り」はすぐ思い浮かぶだろう。また、それに劣らず思い出すのが今日与えられた聖書個所ではないだろうか。
 「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(ヒィリピ4:6⋯7)。
 何も思い煩うことはないではないか。あなたがたは、祈ることができるではないか。パウロは、思い煩いを振り切ってこそ、初めてなしうるかと思われる祈りを勧めている。そのような祈りは、事ごとに感謝をもって、祈りと願いとをささげればよいのだと言うのである。ここでも私たちの求めるところを何でも申し上げたらよいではないかと勧められている。ただし、よく読めばすぐ分かることだが、いかなることについても、感謝を伴う祈願をせよと言う。パウロは、あらゆる求めが、常に感謝を伴うものであるはずだと言っているのである。様々な求めというのは、それが満たされて初めて感謝することになるのではないか。常識ではそうなると思う。しかし、ここでは、求める祈りが先にあって、そのあとに感謝がくるというのではない。感謝が先立っている。感謝に始まるのである。何を祈り求めても、それに感謝を添えるのである。そして、もちろん感謝に終わるのである。感謝に始まり、感謝で終わる。そういう祈りこそ、私たちに深い、人の知恵では測ることのできないほどの平安が与えられ、祈る私たちの心を守るのである。この時、パウロが、「キリスト・イエスによって」とはっきり言っていることを忘れてはならないと思う。
 祈りについてのパウロの言葉と言えば、もう一つ、すぐに思い起こすものがある。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケ人への第一の手紙5:16-18)。
 パウロは、その手紙で語っているようなことをいつも教会で語り、教えていたと思う。いつも祈りについて教えていた。そして、この二つの手紙、かなり異なった状況で、異なった教会に宛てられた手紙の中で、祈りについてほとんど同じようなことを教えていることは、パウロが、何を大切にしていたかをよく示していると思う。ここでパウロは、絶えず祈りなさいと言う。祈りを絶やすなと訴える。そして、その祈りを勧める言葉を、サンドイッチのように挟んでいるのは、一つは、いつも喜んでいなさいという勧めであり、もう一つは、すべてのことについて感謝しなさいという勧めである。いつも、絶えず、すべてのことについて、喜び、祈り、感謝する。ここにパウロの信仰の理想が語られているともいえるだろう。いやむしろ、ここにパウロ自身の信仰の生活が反映しているのではないだろうか。パウロの言葉に即して言うならば、これこそ「キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられること」なのである。ここでも、「キリスト・イエスにおいて」とはっきり語られているのを心に刻むべきだろう。
 しかし、私たちの生活には、感謝することができないほどにつらいことがあり、悲しいことがあり、困ったことがあるもの。苦しみが続いて、もう何日も感謝の祈りなどしたこともないということもあると思う。それならば、パウロは、そうした私たちとは違って、いつもよほど恵まれた生活をし、そのためにいつも感謝していたのだろうか。もちろん違う。パウロの手紙は、いつも苦難について語る。彼自身が強いられてきた労苦の数々を語る。そこで言う、いつも感謝しなさいと。私たちがもし、このような意味での感謝を知らないままに祈っているとすれば、そのために、結局は感謝するすべもなくうろついているとすれば、私たちはそこで、祈りにおいて最も大切なものを見失っていることになるのではないだろうか。いつでも祈れる、絶えず祈りに生きることができるための手懸りを失ってしまっているということになるのではないか。  
 確かに私たちの人生には、様々なことが起こる。思わず感謝の叫びを呼び起こすようなことも起こる。しかしまた、私たちを不安にさせること、恐れさせること、苦しめること、悲しませることも起こる。それゆえ心の表面には絶えず波乱が起こる。私たちはそのたびに揺れ動く。しかし、そのような時にも、私たちの心の深いところには、存在の深いところにと言った方がよいかもしれないが、その深いところで揺るがない平安がある。それは、いつどんなところにおいても、主が共にいてくださるからである。「キリスト・イエスによって」「キリスト・イエスにおいて」とパウロが言っていることである。インマヌエルの主である。愛の主である。これこそ感謝すべき第一のこと。感謝することによって、私たちはこのことを繰り返し、神のみ前で承認する。繰り返し新しく、この信仰の事実に立ち返る。そこから祈りが始まる。そこからこそ、どんなことでも祈れる祈りが始まる。だからこそ、感謝がなければ祈りは始まらず、祈りは続かないのである。何事も感謝をもって祈ろう。主が共にいてくださる。

静かな沈黙の愛

2023-09-19 10:59:55 | 説教要旨
2023年9月17日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「静かな沈黙の愛」 ヨハネによる福音書8章1-11節
 聖書に限ったことではないが、物語というものを読む時、どのくらい登場人物の立場に身を置いて読めるかということが、とても大切なことだと思う。その感情や気持ちを拾うことが肝要である。今日のこの「姦淫の女」の物語は、特にそういう読み方が必要な話の一つ。
 当時のユダヤの社会では、姦淫の罪を犯した者は石打ちの刑を受けねばならなかった。律法に定められている。だから、掟に従って罪を裁くことで、起こった事態に決着をつける、世間はこの論理を疑うことはなかった。
 しかし、イエスは人間の問題はそれだけでは決着がつかないことをこの場面で教えられた。目を転じて、では石を投げる者自身はどうなのかと問われるのだ。イエスは姦淫の女を問い詰める人々に、「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われる。このイエスの言葉を聞いた者はどのような思いが起こされただろうか。私たちも同じ人間。言わなくても想像できる。一人去り、二人去って、女とイエスがその場に残される。この問いによって、人々は罪は石を投げることでは決着がつかないことを知らされる。イエスは女に言われる。「だれもあなたを罪に定めなかったのか」。「主よ、だれも」と女は答える。するとイエスは「わたしもあなたを罪に定めない」と言われた。だれも石を投げる者がいないということは、人の掟では決着がついていないということだ。いや、正確には掟によっては決着がつけられないということである。
 それに代わって「わたしも……」と言われるお方が、女の前にお出でになる。そのお方はどのようにしてこの女の罪に決着をつけたのだろうか。救いへと導かれたのだろうか。
 もう一度、この物語を丁寧に見ていこう。この出来事は、イエスが早朝エルサレムの神殿で、集まってきた民衆に教え始められた時に起こった。律法学者たちやパリサイ派の人々が、姦淫の現場で捕らえた女をイエスの前に突き出し、「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と問い詰めたのだ。律法違反で死罪だというのだ。
 と言っても、この質問は女の裁判を求めたのではなく、「イエスを試して、訴える口実を得るため」であって、「赦せ」と言えばユダヤ教の律法違反として訴え、逆に「殺せ」と言えば、お前の説く神の愛と矛盾するではないかと追い詰めることができる。また当時、ローマの支配下にあったユダヤ人は死刑執行権がなかったので、処刑を承認するなら反逆者として告発することもできるわけだ。要するに彼らは律法の適用をめぐって教えを請うたのではなく、イエスを捕らえるために女を利用しただけなのである。
 このような場に突き出された女の気持ちは、どんなものだっただろうか。簡単にその心の内を想像することはできないが、耐え難い苦痛であったと思う。断罪されるだけなら、恐ろしくはあっても当然の報いとして受け取ることもできるだろう。しかしそれを公衆の面前で利用されるとなると、つらさは倍増される。そしてこの恐怖と屈辱に加え、あられもない姿を男たちの目にさらされる恥辱には計り知れないものがあったに違いない。ここに人間の恐ろしさがある。何の憐みもかけず、さらし者にして利用しようとする。人間はそういう心にもなってしまうということなのである。
 さて、イエスに向かって「あなたはどうお考えになりますか」と問い続ける学者たちの前で、イエスは指で地面に何かを書いておられたのだが、やがて身を起こして、「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と返された。「罪を犯したことのない者」と言われて、自信をもって「ない」とは言えず、年長者から始めて、一人また一人と立ち去った。彼らは隠れてしてきたこと、秘密にしてあることなどを思い起こしたのだろうか、良心が痛んで立ち去ったのである。
 ところで彼女は、皆が去った後のつかの間のシーンとした静寂に何を感じただろうか。これこそ、恐れと恥辱に震える彼女の立場に身を置いて考えてみなくてはわからないことだが、それを思いめぐらしていくと、その静かな沈黙の中にイエスの温かさが感じられてならない。私はこれを「沈黙の愛」と呼びたいと思う。彼女はこの愛に触れ再生に向かったのではないだろうか。P.トゥルニエという医学者がいる。彼はキリスト教信仰と医学の結びつきを明らかにし、〈人格医学〉(medicine de personne)を提唱し、医者と患者との人格的ふれあいを重視し、精神療法を主とする臨床に当たった医学者である。そのトゥルニエがある本に次のように書いている。人が「自分の過ちを認めるに至るとするならば」、それは「彼・彼女を裁いたことのないだれかとの、打ち解けた雰囲気の中で生じてくること」(『罪意識の構造』)と言っている。彼女は沈黙のうちに視線をそらしてくれたイエスとの温かな関係の中で、真の自分の姿を見ることができたのではないだろうか。
 人々が立ち去った後、イエスが彼女に「だれもあなたを罪に定めなかったのか」と言われると、彼女は「主よ、だれも」と答えた。これに対してイエスは「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われた。ここにイエスの愛と配慮を感じるのである。恐れと恥辱の中に突き出され、やがて静かな沈黙の中で赦しの愛に触れた彼女は、どんなに平安を得たことだろうか。

命の重さ

2023-09-12 11:01:58 | 説教要旨
2023年9月10日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「命の重さ」 創世記4章1-16節
 兄カインは神に腹を立て、激しく怒り、顔を伏せる。理由は、弟アベルには目を留めたのに、なぜ自分には目を向けてくれないのか、というもの。神が、カインに声をかける。「なぜ怒るのか?」それは、神が決してカインを無視していたのではないことを示しており、カインが神と語り合う絶好のチャンスだった。しかし、カインはその声に応えなかった。なぜカインは素直に胸の内を明かさなかったのか。どうして怒りの気持ちをぶつけなかったのか。振り返ると、私たちもカインと同じように、腹の立つ相手に向かい合う勇気がなく、不可解なことを尋ねる勇気もない。そして顔をそむけて黙り込み、自分の内側に逃げ込んでしまう、そのような経験があるのではないか。
 そしてカインの激しい怒りは、より弱い立場の弟アベルに向けられた。弟さえいなければ、との恨みの思いが心に溢れてきたのだろう。自分のことしか見えなくなっていた兄は、弟を呼び出し殺した。その時のカインは、神に対する思いも隣人に対する愛情も消えうせていた。結果、自分を支配している激しい怒りに自分自身が見えなくなっていたのだ。
 兄のカインだけが残った。神は、カインに声をかける。カインはすぐさま「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と開き直ったような言い方で答える。彼は、最初の神の声には答えなかったが、二度目の声には即答している。とはいえ、どちらも、神に向かってまともに「応えていない」。最初の神の声には顔を伏せ、口を開かなかった。二度目の神の声には知らぬ振りをした。どちらも、まっすぐ神に向かって答えていない。声をかけられても、逃げ隠れ、ごまかそうとする点では同じである。カインは神から逃避している、逃げている。同時に、罪に飲み込まれる弱い自分自身を受け入れることができず、自己からも逃避している姿がそこに見え隠れする。 
 弱い人間の姿が、ここにも描かれている。聖書は、アダムとエバの物語で表した人間の罪「自己中心、エゴイズム」をここでも表現している。「何ということをしたのか」。真実を見抜いている神の目は、まっすぐカインに向けられる。この神の言葉は、彼の父母アダムとエバに向けられたかつての言葉(3:13)と同じである。「何ということをしたのか」。 
 神はさらに「お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」(4:10)と言われる。神のこの言葉は、殺されたアベルの姿を彷彿とさせる。カインは、ドキリとしたに違いない。神から暴露されたカインはパニックに陥ったことだろう。「今、お前は呪われる者となった」(4:11)。神の言葉はストレートである。「お前は地上をさまよい、さすらう者となる」(4:12)。三度目の神の言葉になって、カインは初めて答えた。「わたしの罪は重すぎて負いきれません」(4:13)。カインは、初めて神に向かい合ったのだ。と同時に、自分自身が見えてきた。何ということをしてしまったのか、彼は自分の罪を自覚した。この時、自分自身がはっきりと見えたのである。神に向かい合うことは、同時に自分を見つめることであることがよくわかる。 
 弟の命を奪ったカイン。彼自身は生き続けようとしたが、生きることの重さを、今さらのように気づかされたのだ。与えられた自分の命を生き抜くことは、それだけで、実に重いことである。他者の命を奪うことは、自分の命に加えて、他者の命の重さをも背負うことになる。奪った命をどこかで放り出すことはできない。どこまでものしかかってくる。それは背負いきれない重さとなる。命を与え、命を奪うのは、神の業である。人を生ける存在とし、また土に帰るものとするのは、神のご計画の中にあることである。人は神にはなれない。神の業を行なうことはできない。だから、人には「命」を奪うこと・捨てることが許されていない。他者の命のみならず自分自身の命をも、人間は手を付けてはならないのである。なのに、カインは神のように命を操ってしまった。その罪はあまりに重いものだった。 
 けれども……、と創世記は伝える。神は、誰も彼を撃つことのないよう、生き抜くことができるようカインに印を付けられた、と伝える。神は、負いきれない重荷を担いつつも生きることを望まれ、徹底的に命を大切にされる、と伝えている。神は、殺人者カインを殺しはしない。むしろ誰もカインを撃つことがないようにと、カインに印を付けられる。この印は、カインが罪を犯したことを示すと同時に、共同体を追われ命の危険にさらされるカインを、「これは私のものだ、手を出すな」と神が保護していることを示すしるしでもある。神はカインの殺人に対して、殺さないことで応え、さらに印を与えてカインを殺させないようにし、報復の連鎖を断ち切られる。こうして神は、罪は罪として明らかにしつつ、なお憐みをもって生きる道を与えられる。
 私たちは、時に感情に支配され、罪を犯す者でありながら、なお神の憐みのなかに生かされているカインの末裔だといえるのではないか。神が私たちにしてくださっているように、どんな状況に置かれても決して殺さず、相手を否定せず、対話し向き合っていきたい、と思わされる。祈りと感謝をもって歩んでいきたい。

キリストによる和解

2023-09-05 11:23:30 | 説教要旨
2023年9月3日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「キリストによる和解」 エフェソの信徒への手紙2章11-22節
 ここでパウロはエフェかった時、神の民に属さず、歴史の支配者である神の約束とも関係なく、この世でソの人々に向かって、エフェソの人々がかつてキリストを知らなの希望を持たず、神の慰めや平安、約束、希望などと遠く離れて生きていた「異邦人」であったと言う。ここでいう「異邦人」とはユダヤ人以外の人を指し、「割礼のない者」「律法を持たない者救いとは無縁なものとみなされていた。無縁なものとみなされていた。ここにはユダヤ人から見た差別と偏見、その裏返しの彼らの選民意識と特権意識が背景にあった。彼らユダヤ人は神から選ばれた民、神の救いを約束された民であるという意識である。それがユダヤ人たちに自分たち以外の民族を異邦人とみなして、差別、偏見を生み出していったのだ。それは民族間だけでなく、ユダヤ人同士の中にも「隔ての壁」をいくつも作っていくことになった。それは神殿の作りからも見て取れる。その壁を打ち破ったのがイエス・キリストであった。どのようにして?それは「今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって」(13節)である。「血によって」、「肉において」(14節)、「十字架」(16節)の出来事によってである。
 そのように神から遠かった異邦人(私たち)が今やキリストの十字架の出来事によって、神に近い者、神を知り、神と共にある者、キリストによって生きる者、希望を持って生きる者とされたと言うのである。この十字架の出来事、救いの恵みは今やすべての人々に開かれている。すべての人々を主は今招かれているということである。
 そのことを以下、具体的にパウロは述べていく。「実に、キリストは私たちの平和であります」(14節)という意味が、「二つのものを一つにし」「隔ての壁を取り壊し」「律法を廃棄した」という三つの文章で示されていく。
 「一つ」とは一致とも訳されるが、それは画一化や同化ではなく、むしろ和解の意味である。「二つのもの」とはここではユダヤ人と異邦人との二つのグループを指している。「二つのものを一つにし」、そこに主イエスの言葉が響く。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(ヨハネ10:16)という主の言葉である。主イエスの言われる神の国、救いとはそういうものなのだということである。
 次に「隔ての壁」とは、ここでは異邦人をユダヤ人から隔離し、差別していたエルサレムの神殿の壁のこと。当然その壁は双方の敵意の象徴であった。この他にも女性をさえぎり閉め出す壁、祭司以外の人を入れない壁などがあった。このように人々を「規則と戒律ずくめ」(15節)にして、がんじがらめにして、差別を助長し、救いを独占し自己絶対化するような律法をキリストはご自身の生き方を通して廃棄された。
 さらに、パウロはこの人々の和解と平和と一致について、キリストによって新たに造られた教会を通して具体的に語っていく。キリストによって新たに造られた教会。そこにおける人々の和解と平和と一致という交わりが、国籍、家族、建物という三つのたとえで語られている。しかしそれらの言葉はまったく新しい意味で用いられている。家族や国籍という言葉は偏狭な民族主義や血縁的なものにつながりやすいものだが、そのような「血」を乗り越える意味もこめられて、13節でキリストの血が強調され、その血によって新たに造られる共同体としての家族や国籍という言葉が使われている。「神の家族」という言葉は、主イエスの言われた言葉を思い出させる。「神の御心を行う者はだれでも、私の兄弟、また姉妹、また母なのです」(マルコ3:35)。主イエスの言われる神の国、救いとはそういうものなのである。ま
 またよく体にたとえられる教会は、ここでは建物、聖なる神殿、神の住いにたとえられている。当時の建築方法では、隅に「かしら石」を置き、次に礎石、その上に段々に石を組み合わせて積み重ねていって、最後に、最上部に建築完成の決め手とも言うべき「要石」をはめ込んだ。「かなめ石」(20節)とは、最も基礎になる「隅のかしら石」(口語訳)と最後の「要石」(新共同訳)の二説があるが、そのどちらでも、また両方とも指すと考えても意味深いものがある。つまり、教会の基礎としてのキリストと、教会の完成者としてのキリスト。そのキリストにおいて多様な人々が組み合わされていくところに教会の豊かさや健全さがあり、その時、教会は成長していくというのである。この「成長し」という概念は教会が常に途上にあることを示していて、同じ主を共通の礎とし、仰ぎ見て歩むところに一致があることを私たちに教えている。
 私たちは神との和解を受け、キリストによって一つとされた神の家族である。そのことはすべての人々に開かれており、隔てはない。神の家族の教会に、すべての人々を主イエスは招かれている。この神の家族である教会につながり、「実に、キリストは私たちの平和である」といわれるキリストにつながって歩みたいと願うものである。

居場所

2023-09-05 10:50:53 | コラム
 元ヤクザの弁護士、諸橋仁智さん(46歳)は「居場所」という話をよくする。様々な事情から罪を犯す人がいる。罪を償っても社会に受け入れられず、「古巣」に戻る人もいる。人は群れの中で生きていく。どんな人間にも居場所は要る、と彼は言う。諸橋さんは「自分のような人間がいることが誰かの励みになれば」と、誤解や批判は覚悟でSNSで発信を続けている、という。(朝日新聞2023・6・17の記事より)
 教会が居場所となることを祈っている。神は我々人間と共に生きることを望んでおられる。そのために教会は存在する。確かに人は一人では生きられない。群れの中で生きていく。居場所が必要。社会に受け入れられず、孤立している人も少なからずおられる。その時に神を中心に共に生きていく(礼拝)、共に食べていく(主の晩餐)教会が居場所となるだろうし、逃れの場所となる人もいるだろう。