逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

神、我らと共にいます

2023-06-26 11:59:24 | 説教要旨
2023年6月25日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「神、我らと共にいます」 マタイ福音書1章18-25節
 長野県中野市で4人が殺害された事件で逮捕された男は、殺害された近所の女性2人に「ひとりぼっちと言われたように聞こえ、恨みを爆発させた」などと動機を語ったという。家族と一緒に暮らしながら「ひとりぼっち」、孤独を感じ、孤立を深めていたことがうかがえる。
 私たちは「いっしょに遊ぼう」とか、「いっしょに行こう」、「いっしょに生きていこう」などと、だれかから言われるとうれしいものだ。一方では「自分でやれ」「ひとりでできるだろう」「他人に頼るな、甘えるな」と言われて育ってもきた。確かに厳しい社会を生き抜くには「自立と自律」が必要。しかし、「いっしょに」と言ってもらうと、自分は独りぼっちじゃない、見捨てられていないと感じて、少しは頑張れそうな気がしてくるから不思議だ。この安らぎを覚えることができる「人間的居場所」がとっても大切であることが社会心理学でも言われている。
 良い親は「こうしなさい」「ああしちゃいけない」と模範を示しながら、「いっしょにやってみよう」「お母さんも我慢するから、あなたも守ってね」と、いっしょの低い目線で励ます。良い教師は「さあ、ここまでこい」と目標を示したり、「何でそんなことをしたんだ」と反省を促しながら、一方で「いっしょに学ぼう」「おれも背負うから、お前も頑張れ」と励ます。共に汗を流すのだ。
 たぶん人間は、いっしょにいるように造られているし、いっしょにいるときが一番うれしくなるように定められているのだろう。旧約聖書の創世記には、神ははじめ一人の人間を創造したが、やがて「人が独りでいるのはよくない。彼に合う助け手をつくろう」と言って、もう一人の人間を創造し、二人をいっしょにいるようにしたとある。
 つまり、「他者」とは、「いっしょにいるべき助け手」なのだ。いっしょにいてもちっとも助けてくれない、と感じることもあるかもしれないが、いっしょにいること自体が、すでに助けなのだ、ということである。この世で、他者から言われて最もうれしい言葉の一つは、間違いなく「あなたといっしょにいたい」だと思う。   
 聖書には、神ご自身が「あなたと一緒にいたい」という意思をはっきりと表明している個所がある。それが今日の聖書個所。少し順を追って見ていこう。18節に「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」と書き始めているが、じつはイエス・キリストの誕生の目的を、主イエスに与えられた「名」を手がかりにして示しているのである。そこには「二つの名」が記されている。一つは、ヨセフの夢に現れた天使が告げた名。21節に「彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい」と言われている。その理由は「彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」と書かれている。もう一つの名は、預言者を通して言われた名として「その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」である。23節だが、これはイザヤ書7章14節のみ言葉から引用されている。この「インマヌエル」という名はどういう目的を示しているかというと、「神われらと共にいます」という意味である(23節)と言われている。そのことを目的としてイエス・キリストは誕生したというのである。「名は体を表す」とよく言うが、「名前にそのものの本当の姿が表れている」という意味だ。「イエス」にしろ「インマヌエル」にしろ、その二つの名は神の本当の姿というか、本性を表しているといえるだろう。
 主イエスの生涯は、この「インマヌエル」の名の通り、神が我らと共におられる生涯だった。主イエスの言葉もいろいろな行為も「神が我らと共にいます」ことを示していた。4つの福音書はそのことを証している。主イエスが病人を癒された時、神の恵みの力が働いた。主イエスが徴税人を招いて共に食事をされた時、神が共におられて神の国の食事の前ぶれ、先取りが起きたのだ。ともかく神は、どうしても、あなたといっしょにいたいのである。それは神の愛から出てくる必然である。神の本性、「神は愛なり」から出てくる「共に」であり「一緒に」である。
 そのことをマタイによる福音書は、さらにはっきりと示している個所がある。マタイ福音書の最後28章の最後の場面。それは高く挙げられた主イエスの言葉として理解されるが、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」と書かれている。これを「囲い込み」という。囲い込みというのは、マタイ福音書の全体は、1章23節の「インマヌエル」名と最後の28章20節の「いつもあなたがたと共にいる」という主の言葉によって、囲われていることをいう。そうだとすると、キリストの誕生の目的は、主がただ十字架にかかるためだけでなく、十字架にかかった方として復活し、高く挙げられ、高く挙げられた方として「いつも私たちと共におられるため」であった、そして今もここに臨在するためであったというのである。高く挙げられ神と一つにされた主イエスは「いつも」、「今日も」私たちと共におられる、というのである。
 その具体として、私たちの目に見える形で与えられているのが、信仰共同体としての教会である。教会は礼拝をとおして、この神と共にいる、合わせて、信仰の友と共に生きていることを実感する場、居場所である。そこから生きる力、慰め、励まし、助け、癒しなど多くの恵みをいただき、この世へと派遣されていくのである。

まごわやさしい

2023-06-13 09:41:22 | コラム
 「まごわやさしい」という言葉をご存じでしょうか。食品研究家で医学博士の吉村裕之博士が提唱されているバランスのよい食事で、覚えやすいように考えられたものです。がん予防にもよいそうで、『がんが消えていく生き方』(船戸崇史著、2020)にも紹介されていた。船戸医師はこれに最後「ヨ」を加えましょうとすすめている。さっそく紹介しよう。
 「ま」は「豆」、大豆やあずきなどの豆類。「ご」はゴマ。ゴマ、ナッツ、クルミ、アーモンド。「わ」はわかめ。わかめ、昆布、海苔などの海藻類。「や」は野菜。野菜、根菜。「さ」は魚。魚(特に小型な青魚)。「し」は椎茸。椎茸、しめじなどのキノコ類。「い」は芋。里芋、ジャガイモ、サツマイモなどの芋類。最後の「ヨ」はヨーグルト。
 「まごわやさしいヨ」。覚えておくと食生活が充実してきます。お勧めです。

みんなも呼びな 神さまを呼びな

2023-06-13 09:37:11 | 説教要旨
2023年6月11日 横浜戸塚バプテスト教会 主日礼拝宣教
「みんなも呼びな 神さまを呼びな」 マタイ福音書6章25-34節
 八木重吉というクリスチャン詩人の詩に「神を呼ぼう」という詩がある。「赤ん坊はなぜにあんなに泣くんだろう /あん、あん、あん、あん/あん、あん、あん、あん/うるせいな/うるさかないよ/呼んでいるんだよ/神さまを呼んでいるんだよ/みんなも呼びな/神さまを呼びな/あんなにしつこく呼びな」。
 確かに赤ん坊は泣き叫ぶ以外、何の手段をもっていない。しかし、赤ん坊は生まれながら神さまを知っているかのように、叫び続ける。それは私たちが手段も方法もない時、何をなすべきかを教えているかのようだ。赤ん坊は全身をもって泣き叫ぶ。言葉も知らない、歩いて取ることもできない、物を使うすべも知らない、まさに何もできない、その時、神が唯一与えた手段は、神に呼び求めることだったのだ。赤ん坊は、その目的のものが与えられるまで、決して泣きやまない。神への信頼、あるいは要求の激しさだろうか。全身をふるわせて泣き叫ぶ。それは私たちの祈りに対する指針ですらあるようだ。私たちの祈りは、ぼそぼそとしていないだろうか、それは叫びだろうか。神を呼ぶと言えるものだろうか。
 有名な詩編23篇1節にこうあり。「主は羊飼い。わたしには何も欠けることがない」。これは自分が羊であるという自覚を歌っている。羊というのは、羊飼いの守りと導きの中で生きるし、その中でしか生きることができないのだ。その羊飼いが自分の前にいてくださる。だから自分には乏しいことがない。それで自分には十分だと歌っているのだ。人間としての満ち足りた生き方がそこに比喩的に描かれている。
 しかし、私たちは、あれがあればこれがあれば満ち足れる、自分の生活は安定するのではないか、と考える。しかし、実はそうではなくて、私たちが導かれて生きるということの中に、私たちの満ち足りた人生があるということがこの短い言葉の中に歌われているのではないだろうか。だから、私たちが何か道を開拓するというのではない。神に導かれながら私たちは歩いていくのである。導かれながら、一つひとつ前に開かれていく道を歩いていく。これが人間本来のあるべき姿。私たちはそれを信仰と言うが、信仰というのは特別なことではなくて、人間が本来あるべき姿、歩き方のことではないか。
 イエス・キリストは言われた。「明日のことまで思い悩むな」(マタイ6:34)。思い悩んだところで、明日は私たちの手の中にはない。よく言われるように一寸先は闇。何が起こるかわからない。どんな災難が待っているかわからないということ。私たちの人生は誰にとっても、不安といえば不安、頼りないといえば頼りない。だから、私たちは明日というものを自分のもとに確保しようと思う。だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩む(25,31節)。その私たちに対して主イエスは言われる。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも伸ばすことができようか」(27節)とはっきり言われる。明日の命は、私たちの手の中にはない。といって、明日のことまで思い悩んでもしょうがないではないか、と短絡的に主イエスは言われているわけではないのだ。
 その前に、前提がある。空の鳥をよく見なさい、野の花を見なさい、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる、野の花を装ってくださっているではないか、というのである。さらにまた32節で、あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である、といわれるのである。
 これらの言わんとすることは、要するに、天の父、父なる神によって私たちは養われている、そういう存在だということである。命は私たちの手の中にはない、それは神の手の中にある。ヨブ記1:21「神は与え、神は奪う」とあるとおり。だから神は創造者としての責任と愛をもって養ってくださるのだ。必要なものは与えてくださるお方であるということ。だからその神に求めなさい。だから「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われるのだ。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる、と約束されている。
 その前提のうえで、だから、「明日のことまで思い悩むな」と言われているのである。そこで私たちに求められていることは「何よりもまず、神の国と神の義を求め」ること。赤ん坊のように「みんなも呼びな/神さまを呼びな/あんなにしつこく呼びな」と八木重吉が歌っている通りである。

主の訓練を覚えよ

2023-06-05 15:10:24 | 説教要旨
2023年6月4日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「主の訓練を覚えよ」 申命記8章1~10節
 イスラエルの民たちは指導者モーセに率いられて、奴隷であったエジプトの地から脱出し、約束の地を目指して荒れ野を40年間旅をした。旅をしたという言い方はきれいごとで、実態は40年間、荒れ野をさまよっていたのだ。それは主に従うための訓練の時だったと言えるだろう。しかし今度は約束の地カナンに入り、豊かになるとイスラエルの民たちは主の恵みを忘れ去っていったのだ。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」である。イスラエルの民たちだけの話ではない。それは私たちにも当てはまる話ではないか。そこで申命記は、モーセの口を通して「荒れ野の旅という原点を忘れるな。荒れ野で主が教えてくださったことを忘れるな」と繰り返し語るのである(2節)。皆さんは、自分の生きる上での原点、何かあるといつも思い出して戻るところはありますか。
 イスラエルの民たちの原点は40年間の荒野の旅だった。それは次のようなことから始まった。イスラエルの民が荒野の旅に出てすぐ、パンが食べたいと言って泣き言を言ったのだ。その時、主は彼らにマナという食べ物をお与えになった。マナは毎朝、露のように大地に降ってきたのだ。朝起きると一日分のマナだけ拾うことができた。しかし余分に拾っても次の日には腐ってしまったという(出エジプト16章)。それは、「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるため」だったと言う。蓄えがきくパンがあれば、神を信じなくても生きていける。しかし主は、パンでなくマナを与えることによって、明日の分までがむしゃらに蓄えようとする生き方を戒められた。このようなマナによる生活は、信仰生活そのものだと言えるだろう。民は、明日マナを用意していてくださる主の愛と恵みに信頼して夜、床につく。そして朝起きては、そのマナ、すなわち主の励ましと戒めと愛のこめられた食事を味わって一日一日を生きたのである。それは主による訓練だったのだ。
 ただしイスラエルの民に言わせれば、こんな大変な旅が訓練だなんてかなわない、主は我々を苦しめようとしているだけじゃないか、というところだったかもしれない。しかし、40年の旅の間、着物はすり切れず、足もはれなかったではないか、必要なものは満たされていたではないか、とモーセは民に語りかける。大変な旅だったに違いない、しかしその大変な中を、主が支えてくださったのではないか、とモーセは静かに問いかけている。この苦しい訓練の間、主は涼しい所から高みの見物をしておられたのではなく、マナを降らせ、服を保たせ、足取りを支えてくださったのである。主は、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって民を照らし先導し、民を離れることはなかったのだ(出エジプト13:22)。共にいてくださる愛の主なのである。このような主の愛を受けた旅路こそ、イスラエルが決して忘れてはならない原点なのである。
 この訓練は、確かに苦しいものだったが、しかしそれは民を幸いに導こうとするものだったのである(16節)。私たちに対する主の愛は、私たちに何の試練に遭わせないことではない。それなら私たちは神のロボットでしかない。しかし主は私たちを人格として尊び、私たちがぶつかる課題を取り去るのでなく、この課題に直面する私たちに寄り添い、勇気を与え、励まし、支えてくださるのである。こうして与えられた出来事に主と共に取り組んでいく時、その出来事を通してしか得られない恵みを受け取ることができるのである。苦しい日々を主に信頼して歩む時、その経験は他の何ものによっても得られない宝となるのではないだろうか。