逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

いのちの主を畏れよ

2022-09-21 18:26:55 | 説教要旨
2022年9月18日 主日礼拝宣教
「いのちの主を畏れよ」 第一コリント3章5-9節
 アポロという人物は、アレクサンドリア出身のユダヤ人でキリスト者となり、コリントにも伝道した人。彼は大変熱心で雄弁家だった(使徒18:24以下参照)。だからパウロとともに人々を引きつけ、結果的にコリントの教会にパウロ派、アポロ派に分かれる騒ぎまで生じさせてしまった(3:4)。このような教会だけでなく世間一般にありがちな問題をパウロがどのように収拾したかを見ることは、私たちが同じ問題を抱える時、益となるのではないか。
パウロはコリント教会内の分裂騒ぎに根本的な態度を示す。その一派にパウロ派があったのだから、普通ならうれしいだろうが、彼はそれを否定する。彼はまず「あなたがたはただの人にすぎないではありませんか」(3:4)と言う。 「ただの人」つまり「肉の人=ただの人間」。「あなたがたはそれでもクリスチャンか」と問うていることになる。分裂が起こっている時は、ただの人間になっているのだから、キリスト者としてのアイデンティティーはどこに行ったのか、キリスト者としてのアイデンティティーを取り戻しなさいと戒めているのである。
 さらに5節で「アポロとは何者か」「パウロとは何者か」と言い、どれだけの値打ちがあるのかと問うている。アポロにしてもパウロにしても、彼ら自身も自分の力で伝道したのではなく、ただ神の恵みによるのだ、ということを指摘している。しかも、主から与えられた分だけ働かせていただいたに過ぎないのだと説く。しかし、なかなかそのことに私たちは気づかない。鈍い、鈍感なのだ。肉の欲にとらわれているからだ。この神の恵みは、神のために懸命に励み、神の前に自分を低くしていくことによってのみ気づかされていく。それは、6節の「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」という信仰の告白へと私たちを導く。
 さらにパウロは7節で「ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」と言って、キリストを介して神を中心に置き、神の前では、自分も含め人間、および人間に所属するもの一切が相対化されるべきことを述べている。要するに、自分を絶対化しないということ。判断の決め手を示している。それによって、逆に自分のしていることを冷静に見つめることができる。周りも冷静に客観的に見ることができる。
 そうしてはじめて、キリストの前で共に生きる、共に成長していくことの本質が見えてくる。共にかけがいのない神から与えられた「いのち」を生きていることに気づかされていく。その私たちを成長させてくださるのは「神」。私たちは互いに水をやったり、手入れをするだけなのだ。
 私たちキリスト者が立つべき立ち位置というものは、神が私たちにかけがいのない「いのち」を与えてくださり、そして「育ててくださる」「成長させてくださる」という信仰に立つということではないか。そして共に生きていこう、共に成長していこう、という姿勢で関係性を大事にしていくということではないか。言い換えるならば、いのちの主を畏れ、かけがいのないそれぞれに与えられた「いのち」を感謝して大切にする、ということではないか。そして、人それぞれには神から与えられた人生があり、生活があるのだから、その歩みを尊重しつつ、成長させてくださる神に信頼し、期待して共に歩んでいくことではないか。主と共に、隣人と共に。

神に向かう沈黙

2022-09-13 17:55:20 | 説教要旨
2022年9月11日 主日礼拝宣教
「神に向かう沈黙」詩篇62篇2-13節 
 詩篇62篇は「個人の信頼の歌」として類別される。「神への信頼」がこの詩の主題である。この「信頼」というものがどういうものであるかこの詩編から教えられたい。
 この詩人は「私の魂は沈黙して、ただ神に向かう」と言っている。そして、「神に私の救いはある」、6節では「神にのみ、私は希望をおいている」と言って、希望と救いの確信を告白している。そして、それゆえに「神こそ、私の岩、私の救い、砦の塔」であり、「私は決して動揺しない」と神を讃美しているのだ。なぜこのようにこの詩人は、神の救いと希望を確信し、神を讃美することが出来たのか。それは神への沈黙の中にその原因を見ることが出来るのではないか。
 「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。(口語訳)わが魂はもだして、ただ神を待つ」。この沈黙には二つの内容が考えられる。
 一つ目、この沈黙は、神への信頼に満ちている。神が語って下さるのを待っている。どんなに動揺しても、自分が「いたく動かされる」ことはないと知るところから生まれる沈黙である。そして「御前に心を注ぎ出せ」(9節)とあるように、この沈黙は心を注ぎ出す沈黙である。生活の中で、自分の心の悩み、わだかまり、苦しみを神の前にさらけ出していくことである。しかし、どんなに行き詰まった絶体絶命の状態であっても、それを神の前に注ぎ出すということは、本当に神を信頼しなければできないことである。そして、待つことに集中する。この沈黙は神に向かって心を注いでいる。心を開いて祈っているといってもよい。心のカギを神のみ腕にゆだねるような心であり、祈りである。「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存知なのである」(マタイ6:8)との主の約束を信じきっているところから生まれる沈黙であり、祈りである。
 このように「沈黙」ということに思いをめぐらしていると、どうしてもイエス様の沈黙されたところを思い出さずにはおれない。十字架にかかられる直前のところである。一切の業を終えられて十字架の死を待つのみであったイエス様は、ローマ総督ピラトの裁判において、イエス様が「それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。」というところである(マタイ27:14)。一切を神に委ねることを決意されたイエス様にはピラトの法廷においてただ沈黙あるのみであった。この沈黙の中に、イエス様の父なる神への絶対的な信頼が見られる。その信頼の中身は「神の力」であり「慈しみ」である。さらに「ひとりひとりに、その業に従って、あなたは人間に報いをお与えになる」という神の公平な裁き、取り扱いに信頼していることがうかがえる。だから沈黙されていたのではないか。いや、沈黙することができたのではないか。
 沈黙のもう一つの内容は、神と出会う沈黙である。私たちは祈りの言葉が中断し、真実の意味で黙ってしまうことがある。言葉にならない、祈りにもならない、ぎりぎりのところでの沈黙である。それは、私たちの側から言えば、むなしくなること、空っぽになることである。しかし実は、それは空しいどころか、充実した沈黙である。なぜなら、このところで私たちは、自分の罪を、自分がいかなるものであるかを深く知り、そしてそこでこそ、私たちは神と出会い、救いを知るからである。
 森有正(1911-1976年、哲学者、フランス文学、思想家)が「決してある神学的な教条や教典やまた思想体系の中で人間は神様に会うことは出来ない。人間にはいかなる場合でも隠そうとするあるいは隠された一隅はあります。……人にも言えず親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこでしか人間は神様に会うことは出来ない」と書いている。「そこで」の沈黙。それは人間の言葉が満たすのではなく、神の言葉に満たされていく沈黙となっていく。そしてそれは、さらに神にすべてを明け渡していく沈黙となっていく。
 「わが魂は黙して、ただ神を待つ。わが救いは神から来る(口語訳)」。私たちの祈りの心に深く刻みつけるべき喜びの言葉である。

80歳の壁を超えていく

2022-09-10 11:36:19 | コラム
 和田秀樹さんの『80歳の壁』(幻冬舎新書2022年)は高齢者専門の精神科医の豊富な経験をもとに、大変分かりやすく、高齢者(著者は「幸齢者」と呼ぶ)の幸せな生き方について書いている。今売れているという。 
 本の最後に「残存機能を残すヒント」として50音順でカルタ風に書かれている。いくつか紹介しよう。
 (あ)歩き続けよう。歩かないと歩けなくなる。(い)イライラしたら深呼吸。水や美味しいものも効果的。(か)噛めば噛むほどに、体と脳はイキイキする。(て)テレビを捨てよ、町に出よう。(ぬ)ぬるめの湯、浸かる時間は10分以内。(も)もっと光を。脳は光でご機嫌になる。…「もっと光を!」は文豪ゲーテの最期の言葉として有名。「幸せホルモン」のセロトニンを手っ取り早く増やすには日光浴。(れ)「レットイットビー」で生きる…ビートルズの代表的な名曲。意味は「あるがままに」とか「なすがままに」。明日は明日の風が吹く、です。(わ)笑う門には福来る。…楽しいから笑うのではない、笑うから楽しいのだ。
 以上です。興味ある方は直接ご本をお読みください。

手を差し伸べよ

2022-09-10 11:29:50 | 説教要旨
2022年9月4日 主日礼拝宣教
「手を差し伸べよ」マルコによる福音書9章33-37節
 9章30~32節で、主イエスが弟子たちに何のためにエルサレムに向かおうとしているのかが改めて話されている。しかし、弟子たちはいまだにその意味を理解していない。理解していないというより、理解できなかった。彼らは、主イエスが地上の王国をつくり、自分たちがその支配階級になることを願っていたらしいことがその後に書かれている。主イエスが十字架に向かおうとしているときに、誰が一番偉いかと論じていたのだ。そこに弟子たちが考えている権威と栄光を持つ人の子イエスと主イエスご自身が語るこれからの受難と復活の出来事との間に大きなずれがある。
 人間にはそれぞれの役割の違いがある。賜物の違いもある。しかし、違いによって人間に価値の上で序列をつけることは大きな罪である。主イエスはその罪を見逃すことは出来なかった。主イエスは弟子たちに「何を論じていたのか」と尋ねられた。弟子たちが黙っているので、主イエスは「だれでも一番先になろうと思うならば、一番後になり、みんなに仕える者とならねばならない」と教えられた。主イエスは、弟子たちの「偉くなりたい、一番先になりたい」という願いを否定せずに受け止めた上で、その意味をまったく新しく作り変えられたのだ。「一番先になりたい」、いいでしょう、ならば、「一番後になり、みんなに仕えなさい」と言われたのだ。
「すべての人の後に」という最後の者とは、どんな人たちだろうか。それは集団の中で最も軽んじられ、ほとんど疎外された立場に置かれた人たちである。しかし、そのような立場から「仕える」という積極的な意志を表すのである。主イエスの言われるこのような生き方は、具体的にどのような活動、生き方を言うのだろうか。
 この当時のユダヤ社会では、幼な子と女性は一人前の社会の成員とはみなされていなかった。今でも「女、子どもが」という言い方で差別的な言い方をする人がいる。当時、特に幼な子は人間としては価値の小さいものとみなされていた。理由は生産性がないからである。しかし、主イエスは、その「幼な子を受け入れる」ことを弟子たちに求められた。幼な子を受け入れるということは、自分にとって得にならないような相手をも神に創られた一人の人間として大切にすることである。さらに、主イエスは幼な子と自分とを同一視しておられる。主イエスの弟子として生きることは、この世的な栄誉や成功を第一に求めることとはまったく異なるということだ。「幼な子に仕えたところで目に見える報いは期待できないし、人々からも注目されないかもしれない。しかし、幼な子を大事にすることは、私を大事にすることなのだ。それが私の弟子としての生き方だ」と主イエスは言っておられるのだ。
 私たちの世界の一つの問題は、人間を有用性や功績によって測る価値観があまりにも強く支配していることである。人がそれぞれ持っている能力をふさわしく発揮することは大切なことである。しかし、そうした有用性、あるいは生産性が人間の価値そのものであるかのごとくみなされてしまうのは誤りである。
自民党の杉田衆議員は2018年、《LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。》と月刊誌「新潮45」に寄稿して批判を浴びた。
有用性、生産性とは付随的な価値である。その人がその人であるという人格の存在価値は、有用性などにかかわりなく尊いものであることをもっと真剣にとらえることが求められている。なぜなら、神は一人ひとりの存在をまず愛してくださっているからだ。何かができ、何かを成し遂げたから愛されるのではない。
 主イエスは、いと小さき私たちをすでに価値ある尊いものとして受け入れてくださっている。その意味ではすでに偉いものとされているのであるから、偉くなろうとする必要はない。だから、安心して幼な子を受け入れ仕えることが出来る。自分を評価してくれるか否か、得になるか否かにかかわらず、主イエスが大切にしておられる幼な子に代表される「いと小さき者」を私たちも大切にする。そして、その人に仕えても表面的には何の見返りもないかのように思える相手に対しても、その存在の価値を大切に思うがゆえに心をこめて仕えていくことこそが、十字架の主イエスに従う生き方ではないだろうか。
 「受け入れる」は元来、手を差し伸べる受容の姿を表すという。こちらから手を差し伸べる、という積極的な働きかけである。積極的にこちらから仕えていく姿勢で主に仕え、隣人に仕えるは同じことである。主に仕え、隣人に仕えるは、主を愛し、隣人を愛することと同じ。その愛は無条件で一方的で無限で永遠で、何ものにも代えがたい尊いもの。その愛を私たちは主イエスを通して与えられている。その愛を精一杯、分かち合って、主イエスの愛に応えていこう。