逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

人生の再解釈

2022-05-24 17:22:34 | 説教要旨
2022年5月22日 主日礼拝宣教
「人生の再解釈」詩編22編2-22節
 22編は人間の苦悩とは何か、一体、信仰者はどういうことで苦しむのかをよく言い表している。死の苦しみの呻きだろうか。この詩人は今ひどく不安に襲われている。死の病に取りつかれ、熱と苦痛、そして不安のために身の置き所がない。その上、周囲の人々が、彼を苦しめる。「わたしは虫けら」「人間の屑」「わたしを見る人は皆、私を嘲笑い」とある(7-8節)。彼は苦痛の中にあって、しかも孤独である。「助けてくれる者はいないのです」(12節)と叫ぶ。
 そのような中にあって、この詩人は苦しめる最大のことは、病の苦痛でもなく、また人間の非難や中傷でもなく、それは「神に見捨てられること」であると語っている。ここで詩人は、何よりも深い苦しみは、神に見捨てられること、神が私たちの嘆きの言葉から身を背け、遠くにいて、身を向けてくれないことだと言うのである。それが人間を絶望の淵に落とすのだ。
 しかし、この詩人は、その絶望の中でなお「わたしの神、わたしの神」と呼んでいる。それは、絶望の中でなお神を信じ、神に信頼を寄せているからである。それは、「母がわたしを身ごもった時から 私はあなたにすがってきました。母の胎にある時から、あなたはわたしの神」だからである(11節)。この自己理解、この自己の人生の再解釈。詩人はここでこれまでの自分の歩みを振り返っている。また、自分の先祖の歴史を想い起してもいる(5-6節)。そして、そこに示された神の憐れみを想起しているのだ。そのことがこの詩人を支えているのではないか。
 だれでも自分の人生を再解釈することができる。解釈し直して、正しく理解することができるのである。10節に「わたしを母の胎から取り出し、その乳房にゆだねてくださったのはあなたです」というように、誰でも人生をそう受け取り直すことができるのである。それは、神さまと出会い、神の愛を受け入れ、神の救いを信じることから起きる。
 では、その救いとは何か。この詩人の場合、病を癒されたのでも、敵がいなくなったのでもない。そこにあるのは、25節に記されている「主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません」「御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださる」ということである。苦しむ者の苦しみを軽んじない神がおられるのである。それが神の救い。病が癒されたか、敵から救いだされたか、それは分からない。しかし分かっていることは、救いに入れられると人間は変わる、人間は救いの中で変えられるということ。新しく生まれ変わるということ。それは、今までの人生の歩みを振り返った時、その意味が再解釈されるからである。
 主イエスが十字架の上で、この詩篇22編の祈りをご自分の祈りとされたことが福音書に書かれている。マタイ福音書やマルコ福音書の十字架の場面。それは、この詩人の苦しみ、そしてこの詩に託されたイスラエルの民とあらゆる人間の苦しみをご自分のものとされたということである。そのことは、苦しむ者の苦しみを神は軽んじないということが、主イエスの十字架によって決定的な証拠をもったということである。そこに救いがあるのだ。
 神が御子イエスの受難の中で、苦しむ者に目を向けてくださり、苦しむ者の苦しみまで降りて来られたといことだ。それだけではなく、主イエスは苦しむ者、神に見捨てられたと思われる者の身代わりになられた。主イエスは、苦しむ者の傍らにいてくださり、代わってその苦しみを負ってくださったのだ。それは苦しむ者も神に見捨てられていないということ。ここにわたしたちの救いがある。
 救いとは、あなたの苦しみを神が軽んじないということ。神があなたに恵みをもって全身を向けてくださること。神が愛をもって共におられ、捉えてくださるということ。そのとき、わたしたちも変えられ、人生の再解釈がなされ、感謝と賛美を歌うことが出来るのである。

信仰から出た友情

2022-05-19 10:50:49 | 説教要旨
2022年5月15日 主日礼拝宣教
「信仰から出た友情」マルコによる福音書2章1~12節 
 福音は私たち人間にとって驚きだ。主イエスの教え、主イエスの御業はどれをとってみてもみな驚きである。私たちは主イエスの話を聞いて、「とても素晴らしいお話でした」とも、「立派なお話でよく分かりました」と腹にストンと落ちることはない。当時の人々もひたすら驚いたのだ。山上の説教のところだが、マタイ福音書7章28節にも「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた」とある通りだ。今まで聞いたことのないことを耳にした人々の反応がうかがえる。今日の箇所もそうだ。12節「人々は皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない』と言った」とある。神の言葉や神の御業は、そのような反応を人々に起こすのだということである。神の言葉が語られるところでは、人々の心も揺さぶられ、騒ぎ立つのである。
 もともと神の言葉は人間にとって異質であるばかりか、むしろ受け入れ難いものだ。「立派な教えです」「有難いことです」と歓迎して受け入れられる類の心地よいものを持っていない。「そんなことは聞いたことがありません」と言うのが正直な私たちの反応ではないだろうか。もし神の言葉を聞いて、「よく分かりました」というほどのものであれば、それは人間の言葉の範疇にとどまるだろう。神の言葉は、人間の理解を超えるのは当然だと言わねばならない。その意味では、聞いて驚くのが自然の反応である。驚かなければ、逆に神の言葉ではない。新生讃美歌50番にある通り、「ああ驚くべきイエスの愛よ」である。
 さて、私が今日の聖書の箇所で驚くのは、「イエスはその人たちの信仰を見て」と語られていることだ。主イエスが、「中風の人の信仰を見られて」というのではない。あるいはまた、中風の人が悔い改めて主イエスの所に来たので、というのでもない。中風の人が何かをしたとは全く語られていない。自分で主イエスに近づいたというのではないのである。本人は何もしていないのだ。でも、救いはその人のところに来たのだ。驚くべきことである。
 主イエスはこう言われる。「イエスはその人たちの信仰を見て……」。誰の信仰であろう。中風の人を運んで来た四人の信仰である。中風の人の床を持ち上げ、重い床を主イエスのおられる家まで引きずってきて、屋根にまで高く運び上げて、屋根をはがして、綱をつけて、主イエスの足下にまで男を降ろした四人の信仰である。この四人がいなかったら、中風の男はどうなっていただろう。いつまでも、死ぬまで、いつもの自分の居場所に居続けて、生涯の決定的な転機を経験することもなかったであろう。完全に救いのない生涯、祝福されない人生、これからどうなるのか、もはや知ることもないような状態。しかし、この中風の男のために労を惜しまず運んでくれた四人がいてくれたということが、この人に救いをもたらしてくれた。これは驚きの出来事であると同時に、私たちにとって希望の物語となる。自分の努力や修行や業績ではなく、救いは向こうからやってくる。主イエスからやってくる。そのためのとりなしをしてくれる者がいるということ。まさに希望である。
 ところで、私は一人の友のために四人の友が必死になっているこの話に「友情」の世界を垣間見る。それはもちろん信仰から出た「友情」だ。4人の友の信仰とは、主イエスに対する信頼である。あのお方なら癒してくださるという信頼だ。ならば、あの中風で苦しんでいる友を連れて行って癒してもらおう、という友情である。だから、「イエスはその人たちの信仰を見て」と書かれている。彼らの主イエスに対する信仰から出た友情である。彼らがこの中風の人とどんな関係だったのか分からない。しかし、一人の友のために屋根をはがし寝床をつり降ろすという行動に感動を覚える。現代の日本は、人間関係そのものが希薄になり、仕事や趣味など、何か一緒に協力してやることはあっても、それが終われば個人の世界に戻り、それほど繋がらないような時代である。人間関係に淡白だと言ってもいいだろう。孤独な世界が蔓延し、一緒に「事」はできても、一緒に「人」「人格」に向き合うというような連帯性や親密性を持つことが難しい時代なのではないだろうか。だから、やたらと「繋がり」とか「絆」という言葉があふれているのではないか。
 私たちは「屋根をはがし、寝床をつり降ろす」ほどの大胆で大変な努力を要することはできないかもしれない。しかし、信仰から出た友情を共に分かち合いたいと思う。たとえそれがささいなことであっても。神の愛から出た友情を共に分かち合いましょう。     






祈りに始まる信仰生活

2022-05-09 12:22:13 | 説教要旨
2022年5月8日 主日礼拝宣教
「祈りに始まる信仰生活」使徒言行録1章6~14節
 使徒言行録の冒頭において、主イエスが弟子たちに「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)と約束して昇天された。その後、最初に弟子たちがしたことは何だったのだろうか。それは二階部屋に集まることだった。そこで彼らが行ったのは、敬虔なる平凡事ともいうべき行為だった。すなわち「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」のだった(使徒1:14)。
 聖霊降臨の力と全世界に対する証人となるという約束が弟子たちに告げられて、それによって弟子たちを奮起させたのだとすれば、その直後に予期することは、弟子たちがより活動的な形で実際の反応を示すということではないだろうか。「さあやるぞ」と言って、福音を宣べ伝える証人として、一斉にエルサレムの町に飛び出していく姿が目に浮かぶのだが、ところが違った。弟子たちは「心を合わせて熱心に祈っていた」のだ。聖霊によって力を受け、地の果てまで主イエスの福音を宣べ伝える活動を始めるにあたって、弟子たちが最初にしたことが祈りだったのだ。弟子たちは、主イエスから「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」(ルカ18:1)と教えられていた。祈りは使徒言行録に出てくる初代教会の主要な活動であり、それは他のすべての活動に優先するものであって、イエス・キリストによってこの世界に生じた出来事を言葉と行動によって証言しようとする教会の力の源泉となるものであった。だから、祈りは、教会のひとつの「活動」というよりも、むしろ教会の生命そのものに関わるものである。教会に求められる行動主義とは、たんなる息もつかせぬ忙しさとか激しい人間的な努力といったもの以上のことであり、それが祈りなのだ。 
 私たちの祈りも私たちの信仰に先行する。その具体的なものとして主日礼拝がある。週の初めの日の朝、私たちは礼拝をする。一週間の信仰生活を始めるにあたり、まず礼拝をする。すなわち主日の礼拝行為は、私たちの月曜日以降の私たちの生き方に先立つものなのである。礼拝とは、ギリシア語の原意によれば「人々の仕事」を意味する。教会における私たちの礼拝は、この世界における私たちの仕事に先行するプレリュード(前奏曲)であり、その源泉ともなる。私たちの生活は礼拝に始まって、礼拝に戻ってくる。私たちの生活は祈りに始まって、祈りに終わると言ってもいいだろう。その間、いろいろなことがあるだろう。必ずしもよいことばかりではない。悲しいこと悔しいこと苦しいこと、いやなことなどもあるだろう。しかし、祈りに始まって、祈りに終わる信仰生活においては、すべてのことはこの祈りにはさまれている。祈りによってサンドイッチにされているがゆえに、苦しみは苦しみでなく、悲しみは悲しみで終わらないのである。祈りによって慰められ、励まされ、力を受けるのである。そして、立ち上がり、主のために用いられていくのだ。
 以上のことから、キリスト教の信仰生活の中心は礼拝にあり、祈りにあると言っていいだろう。ローマ12:12に「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」、第一テサロニケ5:16-18に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」とあります。共に祈りに励みましょう。

日々恵みに追われて

2022-05-03 15:31:07 | 説教要旨
2022年5月1日 主日礼拝宣教
「日々恵みに追われて」詩篇23篇1-6節
 この23篇は、詩篇の150篇の中で、これまで最も愛唱されてきた歌だといわれている。私もこの23篇を何度も読み、特に6節の「命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う」という約束の言葉によってどれだけ力づけられてきたことだろうか。「命のある限り」とある。死ぬまで、天国に行くまでというのである。そして神の恵みと慈しみが「いつも」、悲しい時も苦しい時も悩みの時もいつも、「わたしを追う」とある。追っかけてくるというのだ。私が神にそっぽを向いても、神に無関心であった時にも、神に対して不信感を持った時もである。何という神の深い愛だろうか。
 本当にこの23篇は、何千年もの間、貧しさ、不安、あるいは戸惑い、どうしようもない行き詰まりの中にあった人たちに、大きな力を持って臨み、励ましてきたのである。それはこの歌が、乏しい中で主に養われ、渇いているときに憩いのみぎわにともなわれた経験を通して、「主がそれをなしてくださった」と率直に告白しているからである。そしてこれが私たちの希望であり、信仰の立ち位置なのであることを教えてくれる。
 羊飼いである主は私に青草を豊かに与え、命の水に導かれる。穏やかで何不自由ない営みが繰り広げられているかのような光景だ。しかし、生きていることが平穏無事に守られている以上に、人は生きるための命をどのように養われているかの確認の歌でもある。23編の中で何度も「主はわたしを……」、「あなたがわたしを……」、「あなたはわたしに……」というように、この詩人は告白している。生きるための命を養ってくださるのは、羊飼いである主であると告白しているのだ。
 現実の羊飼いがどれほど過酷な職業であるかは、創世記に描かれているヤコブの姿によく表れている(創世記31:38以下)。主イエスも言われた。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)。激しいまでの過酷な労働を伴うのが羊飼いであり、ついには一匹のために命を捨てるのが羊飼いであるなら、私たちの命のためにどれほどの代償が払われているかをあらためて見つめ直してよいのではないか。命の育みのためには、目に見えないところで羊飼いとしての主なるお方の働きがあることを覚えねばならない。
 私たちは信仰生活の中で、ともすると無気力さに陥ることがある。礼拝に出席しても単に守るべきものとして出席しているだけで、そこには何の喜びも感謝もない時がある。また、どんなに聖書のことを知っていても、知っているだけでは本当の信仰のメッセージ、力は湧いてこない。
 信仰は発見しなければならない。信仰は見抜かなければならない。そのためには気づかされる必要がある。そうして信仰は与えられる。そこで神と出会わされる。出会って、そこで、「主はわたしに……」と言って告白し、そして神に望みを置くという、そこに立つことができるのである。気づくということ。気づきの連続といってもよいだろう。だから、日々感謝の生活ができるのである。そういう意味で主に出会った人々が、何千年もの間、この詩篇を読むたびに、心の中でアーメン(確かにその通りです、しかり)、アーメンと唱えながら、この詩篇を歌い続けたということは、なんとすばらしいことだろうか。
 5節にあるように、私たちは「主の食卓」に招かれている。そして主はいつもあふれるばかりの恵みと慈しみを与えてくださっている。「命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う」。追いかけてまで、私たちに恵みと慈しみを与えてくださる。これにまさる喜びと感謝はない。今朝も主は私たちに呼びかけておられる。招いておられる。その主に祈りをもって応えていこう。「主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう」。主の家に帰ろう。