逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

常識破れの神の愛

2019-07-31 11:11:16 | 説教要旨

2019年7月28日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治
「常識破れの神の愛」ルカによる福音書15章11節~24節

 昔、こんな話を聞いた。ある教会の駐車場で深夜たむろして騒いでいた若者たちを牧師が注意すると、案外素直に聞き入れて帰っていったのだが、その時、ある娘さんが「帰るとこ、ないっちゃ」とつぶやきながら去っていったというのだ。そして、その言葉が牧師の心に妙に残ったというのだ。牧師も言っておられたが、彼らには帰る家がないわけではない。ハウス(家)はあるのだ。しかし、ホーム(家庭)がないのだ。そのようなことを思い出していると、新生讃美歌455番が口について出てきた。「『われに来よ』と主は今やさしく呼びたもう。などて愛のひかりを避けてさまよう。『かえれや、わが家に帰れや』と主は今呼びたもう」。今日の宣教の結論は、この455番の讃美歌の歌詞にあるとおりである。

 この物語は「譬え」で語られている。聖書の譬え話はただ単に例話ではなく、それ自体が「教え」であって、相手(我々)に決断を迫るものである。もう少し違った言い方をすると、聞く一人一人に「あなたはどこに立ってこの話を聞いているのか」という問いかけをしているのである。そして私たちは何らかの応答を迫られるというわけである。
 
 ある人に息子が二人いた。弟は父親がいまだ生きている中に彼の財産を要求したが、こうした要求は父の死を願うことであり、当時のユダヤの社会では考えられないことで、父親に罰せられることだという。ところが、この物語の父親は財産を弟息子に与えたのだ。この父親は地上のいかなる父親からも期待できないような愛を弟息子に示したのだ。私は、「なんて甘い父親なんだ。どうしてそんな甘いことをするんだ。そんなことをしたら息子のためにならないよ」と思わずつぶやいた。この私の立場は、弟でも兄でも父親でもなく、まさに律法学者やパリサイ派の人々の立場から父親を裁いている、としか言いようがない。

 さて次の13節に「遠い所へ行き」とある。父から離れる。神から離れたのである。その結果どうなったか。「そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果たした」。任された財産を無駄遣いすることは、神から委ねられたものを無駄にする罪だといわれている。また、つぶやいた。「そうだろう、そういうことなんだよ、う~ん、どうしようもない息子だな」。これまた律法学者やパリサイ派の人たちの立場で今度は弟息子を裁いている。裁いている意識はないのだが…。根が深い、見えない、意識されない罪とでも言おうか。
 
 しかし、ちょっと自分自身のことを振り返ってみよう。現代日本は物質的に豊かになった。物に囲まれ、物はあふれかえって、今にも物に押しつぶされそうだ。この豊かな生活の中で、「もう自分は神の懐にいなくてもよい。祈らなくてもよい。神様に守っていただかなくても、自分でやっていけるのだ」と思い始める。その時、すでに私どもの放蕩は始まっているのではないだろうか。放蕩息子は私どもの姿と重ならないだろうか。放蕩息子に自分の姿がダブって見えないだろうか。放蕩息子の立場に立ってみたら、この物語はどんなふうに読めるだろうか。

 この弟は追い詰められて、父のところへ帰ろうと考え、謝りの言葉を考える(悔い改めの言葉)。この弟には帰る家があった。私たちに帰る家はあるか。石川啄木の歌に「ふるさとの山に向ひて/言ふことなし/ふるさとの山はありがたきかな」というのがある。ふるさとの山は黙って、傷心の啄木の心を受け入れてくれる。神の愛とはこのようなものでもあるだろう。

 父親は遠くから息子の姿を見つけると、彼の方から走って行って抱擁する。無条件で赦す、受け入れる。さらに父親には息子が帰ってきたことだけで喜びがあるのだ。そこで、父親はこの放蕩息子のために祝宴を催すのである。何という大きな憐れみであり、惜しみない全く寛大な愛情だろうか。「無条件の愛」とでも言ったらよいだろうか。

 なぜ弟はこんなふうな仕方で迎え入れられたのだろうか。理由は簡単明瞭である。「この息子が死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」。父親が愛していたから。父親が喜んだから。帰ってくれたことを喜んだから。彼は息子が帰ってくるのをずっと待ち続けていたのだ。世間の良心や常識からすればとても容認することが出来ないほどの仕方で、この父親は弟息子を愛しているのだ。父親の愛というのは、世間の常識の父親ではない。
 
 そして、ここが大事なところなのだが、父なる神の愛は、私たちがそのことに気づくまいが、反発しようが、関係なく在り続けることだ。息子にとって父親ははじめから、そしていつまでも父親なのだ。そして、それは父なる神自らが、愛するひとり子イエスを私どもに与えてまでも愛されておられることに表されている。その大いなる愛をここから教えられる。だから、私たちはただ、そのままで、罪とがあるままで、父の家へ帰ればよいのだ。あの放蕩息子のように。

地の塩、世の光

2019-07-23 16:21:13 | 説教要旨

2019年7月21日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治
「地の塩、世の光」 マタイ福音書5章13-16節

 先日、あるキリスト教学校の懇談会で、「キリスト教学校の校歌の歌詞の中で、一番多く用いられている聖句が『地の塩』『世の光』である」ということを知った。私は、なるほど、そうなんだ、さもありなん、と妙に納得した次第である。

 この「地の塩、世の光」の聖句はミッションスクールだけではなく、むしろ、教会にこそふさわしいみ言葉ではないだろうか。地の塩としての教会、世の光としての教会。皆さんはどのようなイメージを持たれるだろうか。教会がどのような働きをすればそのような地の塩、世の光としての教会になれるのだろうか。

 主イエスが山上で語られた、「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」との「教え」の第一のポイントは、「塩」も「光」も私たちの生活にとって必需品であり、なくてはならないものであるということ。「あなたがたは塩や光のように、この世でなくてはならない大切な存在である」と語っている点である。当時、イエスのそばに集まってきた群衆の多くは、名もなく貧しいユダヤの人々で、ローマ帝国の支配、ユダヤ王ヘロデの圧政のもとで、精神的にも経済的にも寄る辺ない生活を強いられた人々だった。それ故、彼らは自分に自信が持てず、だれも自分を認めてくれはしないと思っている人々だった。自己肯定感の少ない人々。そのような人々に主イエスは「あなたがたは塩のようになりなさい」とか「光のようになりなさい」と言ってハッパをかけておられるわけではない。そうではなくて、「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」と言われている。既に「地の塩」であり「世の光」なんだと言っておられるわけである。この世において、この社会においてかけがえのない大切な存在だと言っておられるのだ。これを聞いた人々はどんなに大きな励ましをうけたことだろうか。

 第二のポイントは、「あなたがたは地の塩である」と同時に「世の光である」と語っておられるということ。二つを切り離しておられないということ。切り離してみると、本来主イエスが語ろうとしている意味が十分には伝わらない。ここで「塩」と「光」の特性について考えてみたい。「塩」は自らの姿を隠し、中に入り込んでいく性質、浸透性があり、「光」は周りをくまなく照らし、存在を広く知らしめる性質、顕現性がある。
 
 ここでイエスの言う「あなたがたは地の塩である」と共に「世の光」であるというメッセージを、私たちの生活、活動の場での人間関係、対人関係に当てはめてみるとどうなるだろうか。もし、私たちが「塩」としての側面だけを強調しようとすれば、人々の交わりに中に溶け込んでいこうとするあまり、自分を押し殺し、主体性をなくしてしまわないだろうか。逆に「光」の持つ特性だけを強調するならば、自己主張が強く、他者と歩調を合わせず、わがまま、放縦に走ってしまうだろう。主イエスは、「塩」と「光」、両者は反対概念であり、地の塩(浸透性)、世の光(顕現性)の両者が緊張関係を保ちつつ、それぞれを生かすバランスの取れた生き方、他者との関係の取り方、そこにこそ成熟した人間の在り方があると言っているのではないだろうか。
 
 それならば、具体的に私たちが「地の塩」「世の光」として生きるとはどんな生き方を指すのだろうか。また教会として、どのような宣教活動をしていけばいいのだろうか。塩味の利いた生き方。周りを明るく照らす光の働き。その働き、生き方こそが主の栄光を指し示すものであることを覚えつつ、具体的な実践に取り掛かろう。それぞれに違う塩味、塩梅があることだろう。それぞれに違う明かりがあるだろう。