逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

祈りは信仰生活の生命線

2022-01-25 11:35:30 | 説教要旨
2022年1月23日 主日礼拝宣教
「祈りは信仰生活の生命線」マタイによる福音書6章5~13節
 信仰生活について、いろいろな言い方ができる。私は勝手に次のように言っている。祈りは呼吸。血となり肉となる食べ物(霊の糧だが)は聖書の御言葉。そして実践は聖霊の導きによる。少し乱暴な言い方だがそのように譬えて信仰生活を送っている。
 さて、今日は生きていく上で最も大事な呼吸、祈りについて、御言葉から教えられたいと思う。キリスト教の中心は何と言っても祈りにあると言われている。私たちの信仰生活は、いつも祈りに始まり祈りに終わる。もちろん他宗教でも祈りをする。また神を信じない人でも「ご健康をお祈りします」など、手紙の最後に書いたりする。では、それらとキリスト教の祈りはどこが違うのだろうか。
 それは困った時の神頼みで祈り、願い、拝んで、喉元過ぎれば熱さ忘れるで終わってしまうのとは違う。キリスト教の祈りは、生ける神に聴き、神と対話する。それを私は「呼吸」と譬えている。私たちの祈りはまず、自分から神に「主よ、神よ」と呼びかける。「呼吸」の「呼」である。そして、神の声なき声を聞く。「呼吸」の「吸」である。こちらからの一方的な祈りではないということ。神との対話である。神と共にあろうとする魂の不断の方向である。磁石がいつも北を向いている如く、いつも心が神に向き、心を開いていくのが祈りだろう。
 それと主イエスの名によって祈るのが決定的な違いである。キリストの執り成しがあるから祈れるのだ。そうすると、自分の祈りが自分の祈りに終始せず、主イエスを通して神の祈りとなっていくのではないかと考えている。だから、必ずしも自分の願いが自分の思うようにならないことがあっても、そこにイエス・キリストを通して(執り成し)与えられる神の計画、神の配慮、神の愛があると考える。そのことを受け入れるのが私たちの信仰ではないだろうか。
 今朝の聖書箇所では、いわゆる「密室の祈り」ということが勧められている。6節に「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」とある。これは自分だけの心の秘密部屋を連想させる。この秘密部屋なら、誰にも言えないことをおもいっきり心を開いて神に祈ることができる。ダニエル書9:19にあるように「主よ、聞いて下さい。主よ、お赦しください。主よ、耳を傾けて、お計らいください」と激しく迫り、思いをぶつけることができるのだ。 
 さらに今日の御言葉は、先ほど言ったことに関連して、祈りは他人に見せるために行うものではないことも言っている。イエスが生きていた時代、ユダヤ教徒の中には、自分がいかに神に対して忠実であるかを見せるために、街頭で大声で祈りを捧げている者がいた。イエスは、そのような他人に見せるための祈りは欺瞞であると断罪する。そして、この「主の祈り」を提示したのだ。
 その「主の祈り」では、主語は「わたしたち(我ら)」になっている。複数形である。従って、教会で共同で祈ることを前提とした祈りとも言える。共に祈るのだ。その「共に」が生命線。それは「共に生きる」ことにつながり、さらに「隣人を愛しなさい」につながるのではないだろうか。「わたしたち」に力点が置かれている。だから、主の祈りは、共同体的、礼拝的、終末的という三つの性格を持っていると言われている。現在もこの祈りは、カトリック教会、プロテスト教会、正教会の礼拝で必ず唱えられている。もっとも、教会以外の場所での祈りをキリスト者は行ってはいけないということではない。祈祷会で、家庭で、また個人での祈りをキリスト教は奨励している。
 さらに、「主の祈り」の内容に注視していくと、日々の食糧も心の平安もすべて神に頼るほかないという現実を自覚させられる。それは祈りによって、人間は自らの限界を知らされるということだろう。そして、イエス・キリストを通して神の愛を実感するのだ。それは、祈り続けることによって、状況よりも、祈る人自身が変えられていくからこそ、神の愛を実感として受け取ることができるようになるのだ。
 この聖書箇所で、主イエスは、「主の祈り」を教えられるにあたって、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。だから、こう祈りなさい」と言われた。祈りはすでに聞かれているという意味がここにある。もしそうであるなら、もはや祈る必要はないではないかと訝しむことがあるかもしれない。しかし、主イエスは聞かれているからこそ、祈るのだと言われているのだ。キリスト者詩人の八木重吉は、「祈りの種は天に蒔かれ、さかさまに生え、地上に至りて実を結ぶ」と詠んだ。祈る時は、すでに祈った結果を手にしているという意味がここにある。
 しかし、私たちは注意しておかねばならない。先ほども述べたが、祈りが聞かれるとは、願い通りに祈りが聞かれることとは違う。真剣に祈っても、願ったとおりにならないこともあるだろう。結果が、意図しないことであったり、場合によっては願いとまったく逆のことであったかもしれない。けれども最も必要なものをご存知であると信じて祈った結果がそこにある。結果はどうであれ、私にとって最も必要なものが与えられる、それこそ信仰による祈りである。
 私の祈りが、願いが、主イエスの名によって祈ることで、私の祈りが神の祈りとなっていき、主イエスの執り成しによって、神の配慮、神の計画、神の愛がなされていくのである。そのことを感謝と信仰を持って受け取っていこう。

使命・懸命・運命

2022-01-17 12:01:44 | 説教要旨
2022年1月16日 主日礼拝宣教
「使命・懸命・運命」マタイによる福音書6章25~34節
 この数か月の間に親しくしていた方々5名が天に召された。立て続けに召天された方々を思うにつけ、改めて生きるとは、死ぬとはということを考えた。『使命を生きるということ』(柏木哲夫・樋野興夫著 青海社 2012)という本に3人の方々の言葉が紹介してある。改めて読んで、その言葉からいろいろと考えたり、教えられたりした。少し長いが、引用して紹介したい。
 最初は三浦綾子さん。「三浦綾子さんはかつてNHKのインタビュー番組で『使命っていうのは、命を使うと書きますよね』と話された。続けて、三浦さんは『私の使命は小説を書くことだとずっと思ってきました。体が弱ってから小説を1冊書き上げると、もうくたくたになるんです。あー、命を使ったなあって思うんです』と語られている。実感のこもったすごい言葉だと思う。『命を削る』とはこのようなことだと思わされた。」とある。皆さん「命を使った」などという実感を味わったことありますか。
 次は、瀬戸内海の小さな島の診療所でずっと診療を続けてこられた老医師の言葉。「最初はそれほど使命感に燃えていたわけではないけれど、困っている人の助けになるならと、島の診療所に奥さんと一緒に赴任した。初めは次の医師が見つかるまで1、2年いて、自分も都会に帰ろうと思っていた。ところが島の住民が素朴な、いい人たちで、医師がいなくなったらその人たちが困るだろうと、一人きりの診療所で『とにかく懸命に働いてきました』と言われる。『懸命』とは『命を懸ける』と書く。この老医師は命を懸けてきたとは意識しておられないふうであるが、確かにこの老医師は命を懸けてこられた。懸命に生きてこられた。」と紹介されている。さあ、私たちはどうでしょう。懸命に、命を懸けて、生きてるだろうか。
 最後は、東日本大震災で夫も子どもも亡くされて、ひとり仮設住宅に暮らしている40代のクリスチャンの女性の言葉。「つらい体験を話された後、『これも私の運命だと思います』と言われた。その言い方は、決してネガティブではなく、起こったことすべてを受け止めた『運命』だと思わされたそうだ。『運命』とは『命を運ぶ』と書く。聖書の中に『神のなさることは、その時々にかなって美しい』という御言葉があるが、キリスト者は、すべてのことには、何らかの神の意思があり、意味があると考える。だから、どんなつらい状況でも、それが神によって命を運ばれたと受け止める信仰の強さというものをその女性の言葉から感じる」と書かれて私はすぐ、世すぐ、世ブ記1章21節の「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」の御言葉を思い出した。以上3人の方々の言葉から、あらためて主から与えられた命を十全に生きているだろうかと問われた次第である。
 今日与えられた聖書箇所、マタイ福音書の6章25節以下に次のようにある。「だから言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」「思い悩むな」である。なぜ「思い悩むな」というのか。それは「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切」だから、まずその命、体のことを思い、大事にしろということだろう。でも、人間は、当たり前だが、食べること、着ることなくして生きていくことはできない。だから、自分が努力して食べ物と衣服などを含む生活のために必要とされるものを確保しなければならないと、無意識のうちに考えている。当然である。それは悪いことではない。
 しかし、このような発想には、重大な欠陥、落とし穴がある。それは、現在置かれている自分の状況に感謝するよりも、自分の力によって、よりよい食べ物、衣服などを確保するという欲望に支配される危険。食べ物や衣服は生きていくための手段であって、目的ではない。主イエスはここで、手段と目的が逆転してしまう危険を指摘しているのだ。よくあること、本末転倒。生活の糧を得るために仕事をしていたのだが、いつしか仕事のために生活や家族を犠牲にして、場合によっては健康さえも犠牲にして働いている。そのうち、自分は一体何のために忙しく苦労して働いているのだろうと疑問がわいてくる。もっと言うならば、何のために生きているのか、と考え込んでしまうだろう。目的と手段の逆転、いや、そもそも目的、人生を生きる目的が明確でなかったのではないだろうか。 
 聖書は繰り返し私たちに言っている。人間の目的は、「永遠の命」を得て「神の国」に入ることであると。33節「何よりも、神の国と神の義を求めなさい」にある通り。この一点をぶれずに持ち続けることが大切だ。このために、現在、地上で生きている一人ひとりの人間に何が必要であるかということを、神はよくわかっておられる。先ほどのヨブ記のみ言葉にあるように、私たちの命と体は神によって与えられたもの。だからこそ、かけがいのない命であり体なのだ。その体と命を使って、使命に生き、懸命に生き、運命に生きているだろうか。
「ま ず神の国と神の義を求めよ」であり、そのことを生活の根幹に据えて、与えられた命を十全に精一杯生きているならば、34節「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」という御言葉も納得がいくだろう。使命に生き、懸命に生き、運命に生きる。神にゆだねて感謝と希望をもって生きていこう。

人生の棚卸し

2022-01-11 11:12:00 | 説教要旨
2022年1月9日 主日礼拝宣教
「人生の棚卸し」 詩編34編1-11節
 試練の時こそ、自らの歩みを振り返るチャンスである。でも、そんなことを言っても実際は試練の時に余裕なんかない。だから振り返る気持ちにもなれない。途方に暮れる、恨む、嘆く、悲しむ、そして歩みが止まり、その場に立ち尽くす。だからあえて、逆説的に「ピンチはチャンス」ととらえてチャレンジすることをお勧めする。人は、順風満帆の時には自らを振り返ることをしない。イケイケどんどんである。ところが、逆風が吹いてくるとそうはいかなくなる。そういう時こそ、ちょっと立ち止まって、日常の生活や仕事を今一度吟味し、振り返ることは有効ではないだろうか。これを「人生の棚卸し」と私は勝手に言っている。その棚卸しには、物質的な側面と霊的(精神的)側面とがある。ムダはなかったか、ムリをしなかったか、将来に向けて備えをしているかなど、点検する必要がある。これらのことをしっかりと点検するならば、驚くほどに生活が整理され、簡素化されるはず。さらに、霊的(精神的)な点検もしてみよう。自分の心がどこにあったのか、天(神)に向いていたか地(世間)に向いていたか、お金や地位や名誉やメンツにこだわっていなかったか、日々聖書を読み、祈ることを習慣としていたかなど、点検してみるといいだろう。
コロナ禍で、多くのアーティストたちが、仕事がまったくなくなり(彼らにとっては大きな試練)、外出自粛でおうち時間が増えたりして、家中を片付けたとか、今までの仕事を見直してみたとかという話をよく聞く。これも人生の棚卸しの一つだろう。片づけをしながら、今までの生活や仕事、人間関係などを見直したことだろう。
 また、試練の時は、感謝することを忘れがちである。感謝は、感情から自然に生まれるものもあるが、多くは意志によって選び取るものである。すべてがうまくいっている時には、だれでも感謝の思いがわいてくる。しかし、真の感謝とはいかなる時にも意志をもって選び取る行為なのである。今朝の聖書箇所で、ダビデは、「どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う」(詩編34:1)と告白をしている。この時のダビデの状況をこの詩編の前書きはこう解説している。「ダビデの詩。ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに」と書かれている。この背景は、サムエル記上18章から21章にかけて書かれているが、ダビデは自分の人生を呪ってもおかしくないような状況の中で、神をほめたたえることを選び取っている。
 使徒パウロも、次のように勧めている。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(第一テサロニケ5:16-18)。喜ぶこと、祈ること、感謝することは、すべて意志の力によってなすものである。感謝することをどんな小さなことでも些細なことでもいいので、一つ一つ取り上げていくと、無尽蔵の恵みが湧き出してくる。そして最後には、生かされていること自体が、どれほどの恵みであるかに目が開かれるだろう。何でもないように生きていること自体が奇跡にも思える。神は私のような者を生かし、愛していてくださる。なんと有り難いことか。こういう心境になれたなら、自分を取り巻く状況が今までとは違ったものに見え始めるはず。
 今まで話したように、試練の時こそ、自分を振り返り、すべてに感謝し、新しい道を求める時である。ヘブル書の12章11節に「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」とある。また、ロマ書5章3,4節には、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」とパウロは書いている。苦難は苦難で終わらないということ。時に人生の棚卸しをし、いつも感謝を持って歩もう。必ず平和に満ちた実を主は結ばせてくださる。神の約束。

キリストに根ざす

2022-01-04 15:32:42 | 説教要旨
2022年1月2日 新年礼拝宣教
「キリストに根ざす」 コロサイの信徒への手紙2章6-7節
 コロサイの信徒への手紙は、パウロがコロサイの教会の伝道の困難に直面していることを聞いて書かれたものと言われている。コロサイは現在のトルコ西部の町で、東西交通の要衝にあたり、異教的な影響の強い土地だった。だからコロサイの教会にはそれこそ様々な人種・階級の人たちがいた。ギリシア人に、ユダヤ人、奴隷もいれば自由な身分の者もいるといった状態だった(3:11)。その上、グノーシスと称される異端まで教会の中に入り込んで、混乱を起こしていたらしい(2:8)。そのような状況に対して、パウロは福音の真理とは何かを正面から明らかにしようとしているのだ。そのキーワードが「御子はその体である教会の頭」(1:18)であり、「キリストの体である教会」だった。
 パウロにとって、「教会はキリストの体」は大前提。しかしながらコロサイの教会は種々雑多な人々の集まりで、中にはキリストの体にしっかりと結びついていない者も多くいた(2:19)。だからキリストの体にしっかり結びつくようにと、いろいろと言葉を変えて、諭し、勧め、励ましている。今日の聖書箇所の6節の「キリストに結ばれ」とか「キリストに根を下ろし」がそれである。コロサイの教会のようなことは、異教の地にあり、小さな群れである日本の教会やクリスチャンでも起こり得ることである。サタンは巧妙にやってくる。今一度、信仰生活のあり方、キリストに堅く結びついた生活の有り様について今日与えられたみ言葉から考え、整えられていきたいと思う。
 信仰生活というものは、一度主イエス・キリストを受け入れたら、それでもういいのではない。バプテスマを受けたから、もう天国に行けるというわけでもない。むしろ、信仰生活のスタートである。それから成長していかなければならない。その時、キリストに堅く結びついた歩みが大切である。それは具体的に「キリストの体である教会」に堅く結びついた信仰である。「歩み」とは「生活」のことであるから、キリストに堅く結びついた信仰生活が、私たちを天の父なる神にいたらせる道である。
 キリストにある生活とは、「キリストに根を下ろした」生活である。キリストの大地に深く根をはり、キリストから霊的栄養分である命と力を受け取ることである。そうすることによって「あらゆる善い業を行って実を結ぶ」(1:10)ことが出来る。種蒔きのたとえにある通り。道端、石の上、茨の中にまかれた種は、いずれも根を深く張ることが出来ずに実を結ぶことができなかった。
 また私たちは、キリストにあって「造り上げられる」(7節)必要がある。キリストという土台の上にしっかりと建て上げるのだ。基礎はキリストである。これもマタイ福音書7章24節以下にある、岩の上に家を建てるたとえにある通り。岩の上に建てられた家は、「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れな」い(マタイ7:25)。さらに「教えられたとおりの信仰をしっかり守る」(7節)必要がある。「しっかり守る」とは信仰を深め強化していくことである。
 そのためにはしっかりと深く、そして静かに神からの呼びかけを聞くことである。そのことは静的で受け身であり派手さはないが、そのことを主体的に、自覚的に、能動的に行うことが大切である。言われたからとか、みんながやっているからではなく、毎日の生活の中で、祈りとみ言葉の傾聴と黙想を主体的に、自覚的に、能動的に行うことが大事である。
 生き生きとした信仰生活を送るためにはこの主体的、自覚的、能動的な祈りとみ言葉の傾聴と黙想が極めて大事。そこから始まる。それと正比例して生き生きとした信仰の歩みがあり、信仰の確立があり、感謝が湧き出てくる。だから「あふれるばかりに感謝しなさい」(7節)と勧められている。一日のうち5分でも10分でもいい。できたら同じ時間で行い習慣化しよう。一日一章、そして短く祈る。そこから始めよう。今までの経験から言うと朝がいい。
 キリストにしっかりと根ざし、そしてキリストからしっかりと生命と力の栄養をいただこう。そのことによって、一人ひとりが成長させられ、やがてその一人ひとりが肢体である教会が成長させられていく。私たちの救い主イエス・キリストによって、それはなされていく。それは神の約束である。
 今年度の標語は「キリストに向かって成長しよう」。聖句は「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます」(コロサイ2:7)。どこに向かっていくかは極めて大事。目標である。その目標に達成するには、キリストに根を張って、命の源である、生きる力をキリストからいただかなくてはならない。キリストに根ざして成長していこう。私たち自身も教会も。