逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

種には命がある

2021-05-24 10:50:08 | 説教要旨
2021年5月23日 ペンテコステ礼拝宣教
「種には命がある」 マタイによる福音書13章31-33節
 13章は主イエスがもたらされた福音(神の国)を譬えで話されたところである。種まきの譬えに始まり、毒麦、からし種、パンの譬え、次いで毒麦の譬えの説明、次には宝を隠している畑、真珠、海、海におろされた網などが語られている。これらの物語の核心をつかまえないと、主イエスがそこで何を語ろうとされているのかを見逃してしまうだろう。
 まず種の譬えだが、種には命があるということだ。種、それは御言葉のこと。御言葉には命があるということである。私たちがそれをしっかり受け止めていったならば、ヤコブの手紙1章21節に「この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」とあるように、私たちの生活を変えてしまう力が起きてくる。いや、昔も今も、私たちの歴史を通して、私たちの生活のただ中で起きているのだ。御言葉をただ聞き流したり、読み飛ばしたりでは、そこからは何も起きてこないだろう。それをどのように受け止めていくかが私たちの責任になってくる。
 マタイ福音書には、「悟る」という言葉がよく出てくるが、マルコ福音書には、これは「受ける」「受け入れる」となっている。御言葉を受け入れることが悟るということである。私たちはそんなことは信じられないとか、そんなことをしていては大変だとか言って、常識などによって御言葉を軽く料理してしまいがちだが、逆である。御言葉によって私たちが料理されるのが、聖書の言う「受け入れる」ということである。これをしたら儲かるのにとか、これをしたら人から拍手喝采を受けるのにと思っても、聖書がそれを禁じているならそれをしないのが受け入れるということでもある。そのように受け入れなければ、土の中に受け入れられない種と同じことであって、命を発揮することはできない。種をどんなに観察してもそこから命を見ることはできない。種を受け入れた時に「ああ命があるんだ」ということを実感することができるのである。
 同じように聖書の御言葉がどんなに素晴らしいものであるかは、ただ座って観察しているだけではわからない。聖書の知識は増えても、自分と聖書の関わりを見出すことはできない。受け入れた時に、はじめて種の持っている命に触れることができるのである。
 からし種は小さなものの象徴。ちなみに黒からし種は1ミリほどのごく小さい種だが、成長すると3メートルほどに大きくなるそうだ。それは今はごく小さいが、大きく育つ命がすでに種の中に秘められていることを意味する。従って現在の小ささに失望することはない。むしろ大きく育った未来を想像して、現在を見ていくことを教えられ、励まされる。それは私たちの人生において、小さな努力に過ぎないと思っていても、それを続けているうちに大きな成果を生み出すことがあることを教えてくれる。本当に励みになる。
 次のパン種の話は、微量のパン種(イースト)とそれが粉全体を大きくふくらませる結果との大小の対比から、最初は人目につかないほどの存在であっても、それはやがて全体を変え、大きなものとなるという話。それは主イエスの神の国も同様であることの譬えである。
 種には命があるという譬えから、命は見えないが、それを受け入れた時から、そのことがいずれ明らかになってくる。それは隠されているものが明らかになっていくことであり、小さなものが大きく成長し、やがて実を結ぶ、という結果を生み出すのだということを私たちに示している。そこに希望を見ることができるのだ。

祝福の源 -断念と約束-

2021-05-18 07:06:59 | 説教要旨
2021年5月16日 主日礼拝宣教
「祝福の源 -断念と約束-」 創世記12章1~4節
 説教題は「祝福の源」としたが、では神の祝福とはなんだろうか。それは命の拡充、高揚、平安、福祉と関係する。祝福は、人々を支配、搾取、抑圧、差別することによっては決して得られない。それは、相手の存在をありのままで肯定することと関係する。それは、共生であり、連帯するところから得られるものだ。そしてその祝福の源には、苦しみ、悲しむ人々、そして貧しい人々と共に神がおられる。
 さて、創世記12章1-3節には、アブラハムの召命と選びが記されている。アブラハムという人は、イスラエルの先祖、神によって選ばれた信仰の父と言われた人だ。アブラハムは神の語りかける言葉を信じて、カルデアのウル、そしてハランを出立した。信仰は、パウロがローマ人への手紙10章17節で「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことよって始まるのです」と書いているように、神の言葉を「聞いて信じる」ところにある。 
 この創世記12章1-3節は、アブラハムから始まり、イエス・キリストを頂点として終末へと向かう救済史の始まりを示す箇所である。しかし、不思議なことに、ここには「救い」という言葉は出てこない。「罪の赦し」も「信仰」という言葉も出てこない。その代り、「祝福」と「呪い」という言葉が出てくる。特に「祝福」という言葉は、この短い箇所に5回も出てくる。ということは、神の救済史の内容は、神の、人々(及び全被造物)に対する祝福を目指す歴史だということだろう。
 1節で、アブラハムの旅立ちに際して、神はまず二つの断念をアブラハムに促している。故郷を断念すること。父の家を断念すること。これは人生における平穏な生活、安全と保証の生活を断念して、寄留者として、異邦人として住むことを意味した。ヘブライ人でありつつ、人として、神の民として生きることだ。神はこの断念の人を通して全世界の人々を祝福されることを願われるのである。
 2節は 、神はアブラハムに二つの断念を促すことに対応して、三つの約束をする。「大いなる国民とする」「祝福する」「名を大きくする」。そして、アブラハムに対する三つの約束の後に、神の「祝福の源となるように」と言われている。「祝福の源になるように」ということの基盤には、インマヌエルの信仰があることは確かなことだと思う。
 さらに3節では、神が呪いについて「あなたを呪う者(軽蔑する者)を私は呪う」と言っている。それはこの世界に対してアブラハムの選びを通して、神が推進しようとしておられる祝福を排除し、否定しようとする者に対する裁きを述べたもので、神の、人への祝福に対する強い 決意表明だと思われる。
 ところで、旧約聖書はそれ自体では完結した書物ではない。未来へと開かれた書物である。すなわち、私たちにとっては、新約聖書へと開かれた書物である。このアブラハムの祝福と断念の線がずっと伸びたその延長線上に、私たちの主イエス・キリストが立っておられる。イエス・キリストも、故郷、父の家を断念した人だった(フィリピ2:6-8参照)。それ故に、ユダヤ人でありつつ、人として、神の民として生を全うされた。だから、創世記12章2節の「祝福の源となるように」という事柄は、約2000年後にイエス・キリストにあってその成就を見た、と言えると思う。
 なぜなら、イエス・キリストは、十字架の死に至るまで、身を切り裂くまでに、祝福の神が人と共にいて下さることを証しされたからである。イエス・キリストは神が共にいて下さる、という出来事そのものだった。「インマヌエル」そのものだ。アブラハムの末から生まれたイエス・キリストがアブラハムの断念を貫徹され、アブラハムの「祝福の源になるように」を成就されたのである。それも、あくまでも僕として、僕の姿に徹して生涯を貫かれたのである。
 私たち教会はどのようにして神の祝福に仕えるのか。祝福の源になり得るのか。模範はイエス・キリストにある。イエス・キリストは断念により、王としてではなく十字架の死に至るまで、命を賭して、僕の姿に徹し切ることにより、すべての人々の祝福の源になられた。
 断念することによって。祝福の約束をされる主なる神、その祝福の源となられたイエス・キリスト。そのイエス・キリストによって祝福の恵みに与ることが許されている私たち教会。私たちに与えられた使命は、その祝福の恵みを分かち合うこと、それは共に生きていくことによってなされていくだろう。
                

愛にとどまる礼拝

2021-05-10 10:29:42 | 説教要旨
2021年5月9日 主日礼拝宣教
 「愛にとどまる礼拝」  使徒言行録1章6~14節
 使徒言行録の冒頭において、主イエスが弟子たちに「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)と約束して昇天した後、最初に弟子たちがしたことは二階部屋に集まることだった。そこで彼らが行ったのは、敬虔なる平凡事ともいうべき行為、すなわち「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」のである(使徒1:14)。
 聖霊降臨の力と全世界に対する証人となるという約束が弟子たちを奮起させたのだとすれば、その直後に予期することは、使徒たちがより活動的な形で実際の反応を示すということではないだろうか。主イエスの革命的な活動の証言は、どのような方法で開始するのがふさわしいのだろうか。教会に求められる行動主義とは、たんなる息もつかせぬ忙しさとか激しい人間的な努力といったもの以上のことではないだろうか。主イエスの弟子たちは「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」(ルカ18:1)と教えられた人々であった。祈りは使徒言行録に出てくる教会の主要な活動であり、それは他のすべての活動に優先するものであって、イエス・キリストによってこの世界に生じた出来事を言葉と行動によって証言しようとする教会の力の源泉となるものであった。祈りは、教会のひとつの「活動」というよりも、むしろ教会の生命そのものに関わるものである。
 私たちが神を礼拝するのは、功利的な目的や実用主義的な目的のためではない。そうではなくて、神に愛されているがゆえに私たちは神を礼拝するのだ。神は神であるがゆえに賛美されるべき存在であって、利用されるべき存在ではない。たしかに言葉に表現できないような神の恵みを礼拝の中で往々にして経験することがあるとはいえ、私たちはなにかを獲得するために神を礼拝するわけではない。礼拝は、愛のもとにとどまるという出来事である。ある神学者がキリスト教礼拝のこうした本質について「高貴な時間の浪費」と適切に表現した。かけがえのない祝福に満ちた時間とでもいえるだろう。
 私たちの祈りは、私たちの信仰に先行する。すなわち主日の礼拝行為は、私たちの神学的反省や月曜日以降の私たちの生き方に先立つものなのである。礼拝とは、ギリシア語の原意によれば「人々の仕事」を意味する。教会における私たちの礼拝は、この世界における私たちの仕事に先行するプレリュードであり、その源泉となる。私たちの生活は礼拝に始まって、礼拝に戻ってくる。言い換えるならば、私たちの生活は祈りに始まって、祈りに終わる。その間、いろいろなことがあるだろう。必ずしもよいことばかりではない。悲しいこと悔しいこと苦しいこといやなことなどもあるだろう。しかし、祈りに始まって、祈りに終わる信仰生活においては、すべてのことはこの祈りにはさまれている。祈りによってサンドイッチにされているがゆえに、苦しみは苦しみでなく、悲しみは悲しみで終わらないのである。祈りによって慰められ、励まされ、力を受けるのである。そして、立ち上がり、主のために用いられていくのである。 

ペンテコステってナ~ニ?

2021-05-10 10:26:05 | コラム
★コラム★ ペンテコステってナ~ニ?
 「今年の5月23日はペンテコステの日です」と言っても「それって何?ヘンテコな日?」なんて言われそうです。これはギリシア語の50日目から来る言葉です。何から数えて50日目なのでしょう。旧約聖書では、ユダヤ教の三大祭りの一つである過越祭から数えて50日目。この日、モーセがシナイ山で神から律法を与えられたので、ユダヤ教の誕生日としています。 
 では、新約聖書では50日目は、イエス・キリストの復活から数えて50日目のこと。その日は、聖霊、すなわち目に見えない神の愛の力が、祈っていたイエスの弟子たちに降った日。その後、聖霊の働きによって弟子たちがイエスの復活の証人として立ちあがり、キリスト教会が誕生することになるきっかけになったのです。教会が誕生し、キリスト教が生まれた日と言ってもいいでしょう。