2020 年10月25日 主日礼拝宣教
「将来から現在を見る」 ローマの信徒への手紙8章18-25節
今日の聖書個所は、「将来の栄光」、すなわち神の約束によって将来、被造物には救いがもたらされる、ということが示されている。ここでのパウロの視点は、現在と将来について考えた時に、救いの完成、被造物が救われる、贖われる将来を確信し、その将来から現在を見ている。
普通我々は、現在から過去や将来を見ている。しかし、パウロは、現在を将来の視点から見ている。このようなまなざしの転換、ものの見方の転換がここでは非常に生き生きと述べられている。被造物は今ここでうめき、産みの苦しみを味わっている。しかし、被造物だけでなく、「霊」の初穂をいただいている私たちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを心の中でうめきながら待ち望んでいる。将来から見て、希望によって救われる、と語っている。それは肉眼では見えないが、信仰の目によって見ている。
このように信仰は、現在から将来を見るのではなく、救われるという確信の将来から現在を見るということである。現在から暗中模索して将来を問い尋ねるのではなくて、将来から現在を見る。これは因果応報論の反対である。因果応報の考えというものは、「人の善悪の行いに応じて、その報いが、必ずあるということ」。これもものの見方の一つであるが、私たちの信仰は、現在から未来を見るのではなく、救われるという確信の将来から現在を見るということであるということを今一度しっかり押さえておく必要があろう。実はキリスト教の強さは、このような価値観の転換、ものの見方の転換にある。いつの日か、キリスト教徒は、再臨したキリストの審判によって救われるという確信を持っていて、救われるという将来の現実から、現在を見ることによって、試練や苦難に積極的な意味を見出すことができるからである。
このように将来の現実から現在を見ることによって、試練や苦難に積極的な意味を見出していくというとらえ方は、実は他の分野でも、特にスポーツの世界ではよく用いられているイメージトレーニングという方法の一つである。例えば、オリンピックで金メダルを取り、表彰台に上がっている自分をイメージし、それを確信する。何度も表彰台に上がっている自分をイメージし確信する。そうなればいいなあ、という程度ではダメ。そのうえで、そのためにはどんなトレーニングをいつ、どのような練習をどのくらいするのか逆算してトレーニング計画を立てる。それがどんなにつらい、過酷なものであってもやり抜こうとするモチベーションが、表彰台の自分を思い描くことによって保てるのである。ただ思い描くだけでは空手形で、空想でしかない。確信できるかどうか、そこがポイント。そのために試練、困難、時には危険を伴うこともあるかもしれないが、それを乗り越えていくことができるというわけである。
その一つと言っていいだろうか、次のような話がある。それは「請求書の祈りから、領収書の祈りへ」という話である。何のことかと言うと、かつてアサヒビールの会長さんだった樋口廣太郎さんが、ある本の中で書いていた話である。樋口さんはクリスチャンである。彼は神に祈る時に、「~してください」「~をください」というお願いの祈りを一度もしたことがないそうだ。聖書には、祈りは祈った時に神によって必ずかなうと書かれている(ヨハネ一3章22節、5章14節参照)。樋口さんはその神の約束を確信し、ただ感謝の祈りをしたそうである。いわゆる「~してください」という「請求書」の祈りではなく、「ありがとうございます」という「領収書」の祈りである。「お願い」の祈りではなく「感謝」の祈りである。
樋口さんがアサヒビールに来た時、市場でのシェアは一ケタで、会社は潰れる寸前だったそうである。そこで、取引銀行から再建のために送られてきたのが樋口さんだった。その時、彼がどう祈ったか。「神さま、どうか私をライオンにしてください。なぜなら、キリンを食い殺したいからです」とは祈らなかった。彼は次のように祈ったそうだ。「神さま、シェアが一番になりました。これで従業員もその家族も喜び、またそれを飲んでくれる人も喜んでくれます。ありがとうございました」と「領収書」の祈りをし続けたという。私なら「シェアを一番にしてください」と祈るところだが。
なかなかできることではないが、信仰の根幹にかかわる真実を表わしているように思う。領収書の祈りは、主イエスもされている。死んだラザロをよみがえらせた時の祈りである。主イエスは墓の前に立ち、「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します」(ヨハネ福音書11章41節)。願い事が本当にかなう前に感謝しているのである。
私たちの信仰生活は感謝する祈りが大切である。すでに恵みをいただいているのだから(恵みの先行)、まず感謝しよう。そうした祈りを重ねていくと、きっと違った景色が見えてくるはず。不安や悩みの中にあっても喜びと希望がわいてくる。神の約束、神の希望に生きる者となろう。「請求書」の祈りから、「領収書」の祈りへ、感謝の祈りを始めよう。
2020年10月18日 主日礼拝宣教
「喜ばしき交換」 マタイによる福音書11章28-30節
今日の聖書の御言葉は、今までどれほど多くの人を生かし、励まし、慰めてきたことだろう。この御言葉になぜそれほどの力があるのだろうか。まず、この御言葉を丁寧に読んでみると、28節は「招き」と「約束」から成っていることがわかる。「だれでもわたしのもとに来なさい」と主イエスが招いておられる。そして「休ませてあげよう」と約束されている。
さて、最初の招きだが、「疲れた者」と「重荷を負う者」は「だれでも」、すなわちすべての者が招かれている。徳川家康は「人の一生は、重い荷を負うて、遠き道を行くがごとし」という有名な言葉を残している。また、女流作家で「放浪記」で有名な林芙美子は詩の一節に「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」と詠っている。それでも、自分の人生に重荷なんか感じないという方もおられるかもしれない。しかし、感じないのは今だけで、まだ疲れていないからにすぎない。こんなことわざがある。「最後の藁一本が、ラクダの背骨を折る」。ギリギリまで踏ん張って、ある日突然に倒れる。燃え尽き症候群と言われている。家康は人生は長い旅だと言う。ということは、そのうちに必ず疲れてくる。今疲れていない人も、単に時間の問題にすぎない。そう考えると、主イエスの招きはみんなに当てはまることではないだろうか。
では、この招きの内容について考えてみよう。疲れた者を休ませるぐらいお安い御用だ。公園のベンチだって果たせる務めだ。それは足の疲れならベンチで十分。全身お疲れだと、温泉やマッサージ、あるいは寝ることがいいかもしれない。だが、心の疲れ、魂の疲れは、どうしたらいいのだろうか。生きるのに疲れたと感じるほどのストレスの重圧に、心身ともへとへとになった人を休ませてくれるのはなんだろう。人生の重荷をもはや背負い続けることができないほど疲れた人を休ませるものは、温泉やマッサージ、寝ることぐらいではとても間に合わない。
「休ませてあげよう」とは、ただ単にノンビリさせてあげるぐらいの内容ではない。体の疲れはノンビリすればとれるかもしれないが、心の疲れ、人生の重荷は、そもそも人間をノンビリさせない。いくら休ませても、そういうときは、ますます心の疲れや重荷は悪化するばかりである。忙しく体を動かしている方が、まだしも気が紛れていいということもある。でもそれで解決するわけではない。
主イエスは心の疲れの、その根本原因を処置して取り除き、心身ともリフレッシュしてくださる。人生に疲れ、生きるのに疲れたあなたに、真の休息を与え、その結果、創造的に生きる力をもたらし、実り豊かな人生を与えてくださる。その休息を「わたし」が与えると約束されている。
その約束は空手形ではない。では、どのようにして……。28節の御言葉の後に、29節、30節に「わたしの軛を負い、私に学びなさい。……わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」とある。私たちは、うっかりすると救い主のところへ行けば、辛いことや悲しいことはすっかりなくなってしまうと単純に受け止めがち。しかし、主イエスは、信仰さえあれば、幸福と健康を手にすることができると単純に考えてはおいでにならない。主イエスは言われる。あなたの軛は、実は私の軛なのだと。背中の軛が主イエスの軛と成り代わっているので、背負い得る者となっている。そこに、なおもって生きる勇気の源泉を発見するのである。
ルターは、キリストを信じる時、喜ばしい交換が起こると言う。キリストのものが私のものとなり、私のものをキリストが引き受けてくださる、そこにこそ信仰による慰めがあるというのである。その結果、私たちは疲労困憊の最中にあろうと、重荷で押しつぶされそうになっていようと、なおしたたかに生きている自分の姿を見るのである。私の重荷を主イエスに預ける。そして、主イエスの軛を担う。それは主イエスにすべてをゆだねて、主イエスに従って歩むということ。その時、重荷は重荷でなくなり、苦しみは苦しみでなくなるのである。いや、それ以上に生きる希望、勇気、力、慰めが与えられるのである。主イエスの招きに応え、主イエスのもとに行こう。そして重荷を下ろし、「わたしの軛を負い、私に学びなさい」と言われる主イエスに従って行こう。