逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

兄たちを探す

2020-09-29 11:46:54 | 説教要旨

2020年9月27日 主日礼拝宣教
「兄たちを探す」 創世記 37章12-24節
 創世記に記されている壮大なドラマ、ヨセフ物語には印象的な場面がいくつかあるが、その一つが今日の聖書箇所、ヨセフが兄弟たちに穴に落とされ、結果的にエジプトに売られた話。
 その話の中で非常に印象的な一言がある。それは「兄たちを探しているのです」というヨセフの言葉(創世記37章16節)。父であるイスラエル、ヤコブのことだが、そのヤコブからヨセフは荒野のシケムで羊の群れを飼っている兄たちのところへ行って、様子を見てきて欲しいと頼まれる。出かけたヨセフが野原をさまよっているときに出会った一人の旅人に「何を探しているのかね」と尋ねられた時に答えた言葉である。
 「何を探しているのかね」と尋ねられて、「兄たちを」というのは印象的である。ヨセフにとって兄たちはどういう存在だったのだろうか。37章の2節に「ヨセフは兄たちのことを父に告げ口をした」とある。また、どの兄たちよりもヨセフは父からかわいがられていた。そのことで兄たちはヨセフを憎んだが、ヨセフはそのようなことにまったく無頓着と言うか能天気な感じである。彼にとってお兄さんたちとはそういう存在でしかなかったのだろう。その兄たちをそれでも父の言いつけだから一生懸命探し続けたというところだろうか。
 ところで、あなたにとって「兄弟」とは誰だろうか。その問いは「あなたにとって隣人とは誰か」ということになるのではないだろうか。その隣人を探す。そして他人に過ぎない隣人を兄弟姉妹として受け入れ、信頼し、共に生きていく、そのような人間関係の構築が結果として、伝道へとつながっていくのではないだろうか。
 あの時、ヨセフは兄弟に嫌われ、穴に落とされた。そして結果的に銀20枚で売りとばされた。それでも兄弟といえるのかという劣悪な関係に堕ちていく。しかしヨセフはその後も「兄たちを探しているのです」といって求めつつ生きた。それは、後の兄弟たちとの再会の場面でよくわかる。
 兄弟姉妹と呼び難い者を兄弟姉妹としていくところに伝道の精神は息づいているように思う。そうするのは、ヘブライ書の2章11節にあるように、敵であるような私たちを「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」といって私たちを迎え入れてくださった主の愛を受け取っているからである。
 日本の社会は、ますます同調志向が強くなり、異質な者を排除していくような傾向にある。自分と異質なものを受け容れ、共に生きていこうとする精神に欠けた社会の現実にあって「兄たちを探しているのです」という姿勢は困難を予想させますが、貴重な証しに通じていくはずである。
 19世紀末から20世紀にかけて活躍したオーストリアの詩人のリルケに次のような短い詩がある。「いまどこかで泣いている/世界の中でわけもなく泣いている者/その人は/ぼくのことを泣いているのだ」(リルケ「厳粛な時」)。「今どこかで泣いている/世界の中でわけもなく泣いている者」「その人」とはだれだろう。思うに主イエスではないかと私は解釈している。「いまどこかで泣いている」、そう、目には見えないけれども、今も主イエスは私たちのために十字架の上で泣いておられるのだ。この十字架の贖い、十字架に示された主の愛をしっかり受け止めて、神を賛美しつつ、隣人を愛する生活へと押し出されていこう。

主はすぐ近くにおられる

2020-09-21 12:15:24 | 説教要旨

2020年9月20日 主日礼拝宣教
「主はすぐ近くにおられる」フィリピの信徒への手紙4章2-9節
 ここでパウロは、「主において常に喜びなさい」(4節)と言っている。「常に」といっても……。人生いつもうれしいこと、喜ぶことばかりではない。むしろ悲しい、つらい、悔しいことなどの方が多いのに……。さらに6節で「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」とも勧めている。しかし、私たちの日常生活は、教会のことにしても、仕事や健康、家族のこと、さらにお金のこと、人間関係と実にさまざまな事柄に思い悩む日々である。「どんなことでも」と言われると、一層難しさが増す。
 思い煩っているとき、私たちはどういう状態にあるか。そういう時、問題を自分の中に抱え込んでいないか。自分の中に抱え込んで、誰にも打ち明けることができない。思い煩っているとき、多くの場合、孤独である。親しい人にも打ち明けられない。辛い状態なのに神にも打ち明けない。しかし、聖書は「思い煩いをやめなさい」という御言葉の後に、「何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と言われている。思い煩っているときの私たちは、思い悩んでいるそのことを感謝を込めて祈れないでいるからだ。問題を自分ひとりで抱え込んでいるということは、感謝をもって祈り、そして神に願い、打ち明けることをしていない。つまり、まるで神などいないように振舞っているわけだ。これが思い煩いの正体。自分にとって神がいなくなっている、忘れている。自分が自分の主になっている。自分の未来も自分でどうにかしなければならないと思っている。本人は大変苦しい状態なのだが、結局それは神を否定して、まるで自分が神の役を演じているかのようだ。神を神としていない。そういう思い煩いをやめなさいと聖書は言うだ。
 「常に」とか「どんなことでも」というのは、問題はその人の気分の問題ではないし、性格や気質によることでもない。だからと言ってなぜ、「常に喜びなさい」と言い、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」と言うのだろうか。その理由として語られているのは、「主はすぐ近くにおられます」という事実である。主イエス・キリストの近き存在に理由を持っているのである。そのことは「主において常に喜びなさい」という「主において」という言葉と響きあう。さらに、7節の「あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」という言葉とも響きあう。これらの御言葉をしっかり受け取っていく必要がある。「常に」とか「どんなことでも」の文言にとらわれないで、「主はすぐ近くにおられます」、「主において」「キリスト・イエスによって守るでしょう」の御言葉により信頼していくことが大事である。
 このように繰り返し「主において」とか「キリスト・イエスによって」と言われている。キリストが共におられるのだから、常に喜びなさい、思い煩うのをやめなさいと言われている。私たちはもう既にイエス・キリストの贖いの力、執り成しの力、そして裁き、赦す力、主イエス・キリストの恵みの力の中に生かされている。キリストの力の圏内に生かされている。神の国に入れられている。神の愛の支配に入れられている。そこから、あなたは愛されている、というメッセージがでてくるのではないか。だから、「常に喜びなさい」であり、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」という勧めがなされていくのだ。「主はすぐ近くにおられます」、だから「何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」なのである。
 ルターが愛唱した詩編46篇に「神は私たちの避けどころ、私たちの砦。苦難の時、必ずそこにいまして助けてくださる」(2節)とある。口語訳では「神はわれらの避けどころまた力である。悩める時のいと近き助けである」と訳されている。神は「いと近き助け」なのだ。だから恐れるな。私たちの避けどころであり、私たちの砦となって下さり、苦難の時、必ず近くにいて助けてくださる神なんだ、とこの詩人は告白している。だから、そのあとの11節で「静まって、私こそ神であることを知れ」と言っている。そのような神であることを知れ。言い換えるならば、そのような神を神とし、神を信頼しろ、ゆだねよ、私たちの思い煩いをすべて神にゆだねて、平安を得よ、喜びを得よ、と呼びかけられているのだ。そして感謝して励めよと私たちに勧めている。
 今日もこの力強いみ言葉に押し出されて、出ていこう。一週間の歩みを感謝と喜びの中で歩んでいこう。





18歳と81歳の違い

2020-09-14 14:19:10 | コラム

18歳と81歳の違い
 世の中には面白いことを考える人がいるもんだと改めて思ったのが、この「18才と81才の違い」というユーモアのある文章だ(矢頭美世子コラム「次世代へのことづて」)。 
◎道路を暴走するのが18才、逆走するのが81才。
◎心がもろいのが18才、骨がもろいのが81才。
◎偏差値が気になるのが18才、血糖値が気になるのが81才。
◎受験戦争を戦っているのが18才、アメリカと戦ったのが81才。
◎恋に溺れるのが18才、風呂で溺れるのが81才。
◎自分探しの旅をしているのが18才、出掛けたまま分からなくなって皆が探しているのが81才。
◎「嵐」というと松本潤を思い出すのが18才、鞍馬天狗の嵐寛寿郎を思い出すのが81才。
 以上です。ちょっとブラックユーモアのようなものもあるが、どれもこれも痛快に高齢人生を笑い飛ばして底抜けに明るい。調子に乗って、私も作ってみた。
◎選挙に行かないのが18才、杖をついても選挙に行くのが81才。
◎親のすねをかじっているのが18才、自分のすねをかじっているのが81才。
◎テレビ離れが18才、テレビ漬けが81才。

安心して行きなさい

2020-09-14 12:20:36 | 説教要旨

2020年9月13日 主日礼拝宣教
「安心して行きなさい」 マルコによる福音書5章25~34節
 今日の聖書箇所の最後の場面で、主イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言われているが、文字通りに理解すれば、彼女自身の信仰によって、彼女自身を救った、ということになる。いわゆる自力本願か。では、本当に彼女は自らを救ったのか。キーワードになる彼女の信仰とは何だろうか。彼女は、「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた」(27節)と記されている。さらに「『この方の服にでも触れれば癒していただける』と思ったからである」(28節)とその動機が記されている。そこに彼女の信仰を見て取れないだろうか。
 彼女の置かれていた状況を見てみよう。彼女は「十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけだった」(25~26節)とある。それ故、「『この方の服にでも触れれば癒していただける』と思った」というのはよく理解できるし、自分だってそうしただろと思う。押さえておきたいのは、彼女は「イエスのことを聞いて」(27節)、決断し、そのような行動を起こしたということである。彼女はあらゆる「迷い」や「ためらい」を越え、あるいは「妨害」を越えて、「イエスの服に触れ」る行為をしたのだ。ここにも彼女の決断、すなわち信仰を見ることができるだろう。
 私たちはこの時、彼女がどれだけ大きな障害、妨害、躊躇、ためらいを越えたかということを知らなくてはならないと思う。信仰とは、まず「聞いて」、そしてあらゆる障害、妨害を越えて決断し、行動していくことだ、ということを教えられる。
 私たちに主イエスにもっと近く触れることを妨げるどんな障害があるだろうか。自分は無資格だ、無価値だ、能力がない、罪深い生活をしている、あるいは周囲の人々が妨害している、身近な人々の無理解がある、将来の不安があるなど言い訳がどんどん出てくる。しかし信仰はそれらのどの障害をも越えて主イエスに接近する。「イエスのことを聞いて」、「『この方の服にでも触ればいやしていただける』と思った」という彼女の主イエスに対する確信、信頼こそ、あらゆる障害をも越えて主イエスに接近させた。逆に言えば、彼女は主イエス・キリストの愛に捉えられたのだ。この主の愛を妨害できるものは何もない。全ての障害は有限なもの。どんな躓きも限りあるもの。しかし主イエスの愛は無限。恵みの愛は無限である。この無限な愛と恵みと救いの力に捉えられて、限りある障害を越えていったのだ。
 信仰は誰にとっても、常に、障害を越えて行かなければならないものだ。信仰生活で試練を受けない生活はない。しかし越えることの出来ない障害は何一つないのも事実。主イエス・キリストの愛に捉えられ、癒しを受け取る信仰にとって、越えることのできない障害は、何一つない。主の愛と癒しの力が、あらゆる障害を越えて、私たちを捉え、生かしてくださるからである。
 このように見てくると、救われた本当の意味で彼女を救ったのは、彼女自身の力ではなく、「主イエスご自身の中に働いている癒しの力」だった、ということがわかる。30節に「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて」とある通りである。29節に「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」とある。この女性は、主イエスの癒しの力をその身に感じた。自分の体、自分の内に、キリストの力の働きを感じ取ることが出来た。彼女は、自分自身の力を感じたのではない。主の力を感じ取ったのだ。それこそ信仰の偉大な能力である。信仰によって主の力が感じ取られ、救いが「私のもの」となったのだ。罪を赦され、神の子とされ、生かされているのを自分のこととして受け取り、感じ取ることができる。それが癒しを受け取る信仰の能力である。
 「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。この主の言葉を受けて、家路につける人は幸いである。その人は喜びを持って生きることが出来る。主の恵みの証人として、前進することが出来る。私たちもこの女性のように、あらゆる障害を越えて、確信を持ち、主に信頼して、安心をもって前進したいと思う。

助けて

2020-09-07 11:22:53 | 説教要旨

2020年9月6日 主日礼拝宣教
「助けて」 マタイによる福音書6章9-13節
 今まで少しずつ「主の祈り」について学んできたが、今日は「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」のところ。マタイによる福音書の6章13節では「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と訳してある。
 この祈りは「神さま、試練に合わせないでください」「悪からお助け下さい」という祈りである。「神さま、助けてください」という悲鳴にも似た叫びをあなたの祈りとしなさい、と主イエスは言われているのである。私たちは祈りにおいて、悲鳴をあげてよいのだ。「助けてください、助けて」と叫び、祈っていいのだ。「助けてください」という祈りは、自分の弱さを認めるということ。誘惑にあうとき、試練にあうとき、私は弱くて自分では立てませんと認めること。そこからこの祈りは始まる。
 しかし、私たちはなかなかその弱さを認めない。特に信仰とか宗教とかに関わってくると、「信仰を持つなど弱い者がすることだ」という、考えてみれば何の根拠もない偏見を少なからず持っている。かつての私自身もそうだった。10代の頃、いろいろな悩みを抱えて行き詰まっていても、自分で何とかするしかない、克己、己に克つしかない、信仰に頼るなんで露ほどにも考えてみなかった。一方、今度はキリスト者になってからは「信仰を持つなど弱い者がすることだ」と言われると、「いや、信仰とは逃げ場所ではない。信仰とはむしろ弱さに打ち勝つような力強いものだ」と反論したくなる自分がいる。確かに、これも正しい言い方かもしれないが、信仰に逃げ込む弱さを打ち消そうとし、人から弱いと思われることを嫌だと思っているのかもしれない。そのように私たちはなかなか「自分は、こころみにあうと弱くてダメだ」と素直に認めることができない。それこそが人間の弱さだ、弱さを認めない弱さだ、と言えるかもしれない。人間はそのような矛盾したものを持つ存在ともいえるだろう。「自分は神抜きで生きていける、そういう強い人間なのだ」と言い張ることのほうが、実は弱さの中にあるのでは。
 この祈りは、自分の弱さを神さまに知っていただく祈りでもある。「悪しき者から助け出してください」の「悪しき者」とは、抽象的な悪全般ではなく、具体的な一つひとつの悪のこと。私たちは、主イエスが再び来て、すべての悪から完全に勝利してくださるまで、世界に満ちている悪意に傷つけられたり、裏切られたり、ぐらりと足もとをすくわれることもある。
 さらに、自分の内側の悪の問題も深刻である。私たちは自分の人生を振り返ると、どうしてあんな馬鹿なことをやってしまったんだろう、思わずひどい言葉を口にしたり、やってはいけないことに手を出してしまったり、そんなつもりではなく口にした小さな陰口が、ある人の人生を取り返しのつかない状況に追い込んでしまったり、と後悔することばかり。いずれにしても私たちの弱さが原因で、悪の力のとりこになってしまっている。この自分の弱さをきちんと認めることによって、神に助けを求める祈りの扉が開くのである。
 この祈りは、「弱さを持っている私を助けてください」という祈りである。ここには自分の弱さの告白がある。私たちには神さまに自分の弱さを告白しないところがある。「以前は助けていただきましたが、最近ではもう大丈夫です」。あるいは逆に弱さに対して開き直り、「この弱さはどうにもならない」とあきらめ、神さまの前に祈りを差し出すことすらしない。「祈れない弱さ」とはこういうことだ。もし弱さを祈ることができるならば、それは神の強さに変わる。祈れない人は、強くたつことができない。
 一方、「罪の告白を聞いてください」と求めてくる人に与えられた信仰の強さを思う。犯した罪を自分の内側で隠したままにしていることのほうが、自分のプライドが守られるだろう。周りからもよいクリスチャンだと思われるかもしれない。しかし、自分一人だとまたその罪に陥ってしまうかもしれない。だから「聞いてください。私と一緒に祈ってください」といえる人は、その試みから守られる唯一の道を知っている人だと思う。
 人からどう思われるかよりも、神さまの御心に反した生き方をしたくない、だから助けて欲しい。祈って欲しい。この言葉を言える人は、神の強さの中にすでに歩み始めている人。本当に強い人とは、「助けてください」と言える人だろう。「助けなどいらない。自分のことは自分でやれるんだ」という言葉には、自分の弱さを認めることのできない弱さがある。
 今まで何度でも繰り返してきたように、主の祈りは「我ら」と祈る祈りである。試みにあった時に、私たちは一人で弱さを抱えるのではなく、共に抱えてもらい、祈ってもらう必要がある。私たちは祈られなければ、強くあることはできない。伝道者パウロは、「祈ってください」と言える人だった。フィリピの教会やエフェソの教会に、「こういうことが大変だ。祈ってください」と言うことができた。祈られることこそが大切なこと。祈りとは、「祈り合う」ところへと向かう。執り成しの祈りへ向かう。祈り合うところに神の強さ、神の助けが満ち満ちている。