逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

暗闇は光を理解しなかった

2023-12-26 17:01:17 | 説教要旨
2023年12月24日 逗子第一教会 クリスマス・イブ礼拝宣教
 「暗闇は光を理解しなかった」 ヨハネによる福音書1章1-5節
 今から126年前の1897年9月にアメリカのニューヨークの新聞『ザ・サン』にあてられた8歳の少女の手紙がある。それは次のような内容の手紙であった。「おじさん わたしは8才です。お友だちの中に、サンタ・クロースなんかいないっていう子がいるのです。パパはこう言いました。「『ザ・サン』にそう書いてあればそうだろう」どうか本当のことを教えてください。サンタさんはいるのですか。ヴァージニア・オーハンローンより。」
 さて、この8歳の少女の素朴で純粋な質問の手紙を受け取った「ザ・サン」の新聞社はどう対応しただろうか。なんと返事は新聞の社説に掲載されたのだ。執筆したのは論説委員のフランシス・チャーチ。彼は「この世には、愛や思いやりといった、目には見えないけれども確かに存在するものがある。それと同じように、サンタクロースだって確かに存在する」という内容の社説を書いて答えたのである。“Yes,Virginia,There is a Santa Claus (そうです、ヴァージニア、サンタクロースはいるのです)”という一節のあるこの社説は大きな反響を呼び、以後、『ザ・サン』は毎年クリスマスが近づくとこの社説を掲載したという。
 書き出しの一部を紹介しよう。「ヴァージニア、あなたの友だちはまちがっています。その子たちは疑い深い時代の疑いに影響されているのです。その子たちは見えるものしか信じないのです。その小さな心で分からないことは存在しないと思うのです。ヴァージニア、大人の心も、子どもの心もちっぽけなものです。この大きな宇宙の中にあって、人間はほんの虫けらか、アリンコのようなものです。まわりの果てしない世界に比べれば、その知恵においても、また真理や知識の全体をつかみとる知性においてもそうなのです」。
 確かに私たちもバァージニアのお友だちのように「見えるものしか信じない」者ではないか。そのことを聖書は繰り返し証言している。今日の聖書の箇所の最後のところに「暗闇は光を理解しなかった」と書かれているが、「暗闇」とは「この世」のことであり「暗闇」に住む我々人間のことでもある。「光」とは「神」であり、ここでは「神の独り子イエス」のことである。暗闇に住む人間は、光である「神の独り子であるイエス」を理解しなかったというのである。
 また、旧約聖書の詩編の115編の2節には「彼らの神はどこにいる」とある。これは、ユダヤの人々に向かって、周りの国々の人々が言った侮蔑の言葉である。「唯一の神だとか、天地を造った神だとか言うが、お前たちの国はいつも脅かされているではないか、生活も苦しいではないか、神があるのなら守られるはずではないか。」「お前たちの神はどこにいるのか」。これは敵だけではなく、私たち自身の中にもある思いではないか。
 主イエスが十字架につけられた時、群衆は主イエスに向かって「もし神の子なら十字架から降りてこい」と言っている。これは嘲りの言葉ではあるが、ある意味では人間の本質的な叫びではないか。「黙って殺されていったのではなんにもならないじゃないか。どこにも神の業は見られないじゃないか。それではいくら神の子だと言っても信じられないじゃないか」という思いから出ている、痛切な叫びでもあったと言えるのではないか。これが私たち人間の本質、本音であり、真実が見えない、理解し得ない限界のある存在だということを示唆している。
 先に紹介した「ザ・サン」の論説委員のチャーチも言うように「大人の心も、子どもの心もちっぽけなものです。この大きな宇宙の中にあって、人間はほんの虫けらか、アリンコのようなものです。まわりの果てしない世界に比べれば、その知恵においても、また真理や知識の全体をつかみとる知性においてもそうなのです。」と書いてるとおりだ。そういう存在なのだ。
 今日の聖書個所に「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」とある。命、光、それは主イエスのことである、命は見えない。見えないが確かにある。誰も否定はしないだろう。「この世には、愛や思いやりといった、目には見えないけれども確かに存在するものがある」とチャーチは書いている。これも誰も否定しないだろう。あとは、そのことを信じるか信じないかだ。信じる者は救われる。単純だが、真実である。主イエスは言われた。「見ないのに信じる人は、幸いである」。

光の中を歩む

2023-12-25 15:20:30 | 説教要旨
2023年12月24日 逗子第一教会 クリスマス礼拝宣教
 「光の中を歩む」ヨハネによる福音書8章12-20節
 世界で最初のクリスマスは、ライトアップされたツリーの輝きやネオンの光ではなく、主の栄光の輝きの中にあった。イエスはご自分を「わたしは、世の光です」と言われた。また、ヨハネの福音書1章ではイエスを「言」としている。「初めに言があった」言葉の中には命がある。その命は人間を照らす光だと聖書では語られている。
 私たちは言葉であるイエスの光に照らされなければ闇の中にいる。そしてヨハネの福音書1章9節では「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた」とある。闇を消し去る光がこの地上に来た。その光であるイエスの誕生をお祝いするのがクリスマスである。
 しかし、光であるイエスを受け入れることができない人々もいる。ヨハネ1章5節に「闇はこれに打ち勝たなかった」とあるが、「闇はこれを悟らなかった」と訳すこともできる。つまり暗闇は光を理解できない。神の存在や働きは、人間の理性や常識を超えたもの。神の救いというものは人が理解できない方法でやって来る。
 今日の聖書個所は、イエスを受け入れることのできないファリサイ派の人々とイエスのやり取りが語られている。彼らはどうにかしてイエスを逮捕できないかと考えている。なぜそのように考えたのだろうか。それは自分たちを差し置いて、イエスが群衆に聖書を教え、自分は救い主だと発言したからだ。イエスの発言に対して彼らは「あなたの証言は真実ではない」と言う。これは律法を元にしたもっともな意見である。
 しかし、イエスは「もしこのわたしが自分のことを証言するなら、その証言は真実です」と語られる。イエスは自分が何者であるかを知っている。しかし、私たちは自分がどこから来て、どこへ行くのかを知らない。だから、私たちがどこから来て、どこへ行くのかを知る必要がある。そのためには、私たちを造ってくださった聖書の神を知ることだ。
 神の子であるイエスは神の心をよく知っている。私たちはイエスを通して父なる神の心を知ることができる。そのイエスが教えていることは、私たちは神に造られ愛され、イエスを信じるなら神のもとへ行けるということだ。
 イエスは光である。クリスマスに全世界の人々へその光がプレゼントされた。光を受け取った者は闇の中から救い出される。イエスが来られたのは世を裁くためではなく救うためである。
 闇の中にいる私たちが、この救い主イエスの光に照らされるとき、そこに浮かび上がるのは良くも悪くも正直な自分の姿である。暗闇で気付かなかったものがすべて光に照らされる。それは神を神とせず、言葉によって人を傷つけ、人を赦さず、悲しみと怒りに満ちた姿かもしれない。
 しかし、その私たちの罪を照らす光は、同時にその罪の赦しを与えてくださる。イエスはあなたが滅びるのを決して望んではおられない。イエスは言われる。「神に愛され、わたしに愛され、天へとつながる永遠の命を受けてほしい」と。光であるイエスはあなたの心にそのように直接語りかけている。
 イエスの救いを信じ受け入れるとき、神は私たちを神の子としてくださる。そして聖霊によってイエスと一つになり、神と共に生きる新しい永遠の命に生かされる。私たちの行き着く先は喜びに満ちた神の国。だから、喜びと希望をもって生きることができる。
 天(ヘブン)を見上げてごらん。私たちの上にはイエスが光り輝いている。私たちの上にはイエスが光り輝いている。光であるイエスが私たちの歩みを一歩一歩と導き、人生のすべてをまことの光で照らしている。
 クリスマスに、イエスはこの世の光として来てくださった。12節に「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」とある(ヨハネ8:12)。
 世の光として来られたイエス・キリストを心にお迎えするなら、決して闇の中を歩むことがなく、命の光を持つ。神の約束です。
 このクリスマスにすべての人々に与えられた神からの愛のプレゼントを、あなたも受け取ってください。それはイエス・キリストによって与えられている恵みです。イエスの光に照らされ光の中を歩んでまいりましょう。

イエスの言葉にとどまる

2023-12-12 11:57:27 | 説教要旨
2023年12月10日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
 「イエスの言葉にとどまる」ヨハネによる福音書8章31-38節
 今朝の聖書箇所は、イエスの弟子とはどのような人であるかを明らかに示す。それはイエスの言葉を聞いて、その言葉のうちにとどまる人のこと。主はイエスを信じたというユダヤ人に対して、イエスを信じるとは、彼の言葉を聞くだけではなく、その言葉のうちにとどまる必要があると指摘している。そうすれば、その人たちは、イエスの弟子である、というのである(31節)。
 私たちは、人が語ることを聞いている。しかし、自分に関心がない言葉であれば、聞き流してしまう。あるいは、聞いていたとしても、自分なりの解釈を加えて、相手の語ることをまともに受け止めようとはしないこともある。そのような場合には、相手との間に生きた関係を築きあげることはできない。
 この場面でもそのことがあらわにされている。イエスが「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(32節)とユダヤ人たちに言われると、彼らは「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか」と反論する。彼らは「あなたたちを自由にする」と言われて、反発する。自由になれるということは今は奴隷状態だということだから、彼らは「だれかの奴隷になったことはない」と怒りを込めて反発する。イエスは「真理はあなたたちを自由にする」と言ってるだけで、その人の先祖や過去を問題にしているわけではない。真理とはイエスの言葉であり、イエス自身のことである。ユダヤ人たちはどこまでも現実の世界の中でしか、イエスの言葉を理解しないのだ。そのすれ違いがここによく表れている。言葉を聞くことがいかに難しいかを思い知らされる。ましてイエスの言葉を聞くということは私たちの経験や知識では難しい。聖霊の助けが必要である。
 さて、イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われる(14:6)。イエスの語る言葉は、私たちの中に命を与える。しかも、一時的なものではなく永遠の命である。そのような命の言葉を聞き流すわけにはいかない。私たちはしっかりと、イエスの言葉を聞き、その言葉の中にとどまっていたいと思う。しかし、イエスの言葉にとどまるとは、どのようなことなのか。イエスは「神からきた者は神の言葉に聞き従う」(47節)と言っている。だから、イエスの言葉にとどまるとは、イエスの語られたことを聞き、さらにその言葉に従うこととなる。
 イエスの言葉が、その言葉を聞く人の中に命をもたらすのは、その人がイエスの語られる言葉を受け止め、文字通り、その言葉に従う時である。イエスは、私たちに、永遠の命に至る言葉を語りかけている。この言葉に聞き従うことによって、私たちの中に、喜びの命がわきあふれてくる。そのためには、私たちのもっている先入観で、先ほど言った経験や知識でイエスの言葉に耳をふさがないことが大切である。次に大切なことは、イエスの語る言葉は、自分の中に確かな命をもたらしてくれるものであると信頼すること。そして、第三にイエスの言われる通りに実行してみること。この三つの段階を経ていくことが、イエスの言葉を聞くというであり、また、その言葉に従うということなのである。
 イエスの言葉に聞き従う人は、イエスの示す真理によって、自由を得ることが約束されている(32節)。しかし、イエスの言葉を聞くだけで、その言葉に従わなかったユダヤ人たちは、イエスの与える真理と自由が何であるかわからなかった。彼らは自分たちがアブラハムの子孫であり、奴隷になったことはないと言って自由を政治的な意味、この世的な事柄に限定していた(33節)。しかしイエスの言う自由は、政治的な意味で奴隷になっている状態から解放するということに限定されてはいない。イエスの言われる自由は精神的な意味での解放(罪からの解放)を意味している。
 イエスは、イエスに聞き従わないことを罪の奴隷であるとも表現している(34節)。罪の奴隷であるとは、イエスの言葉に聞き従うことによって、大きな喜びと、人を愛する心が生み出されることを知らないことなのだ。私たちは、聖霊の助けをいただいて、イエスの語る言葉に信頼し、さらに、イエスの勧めを実行していきたいと思う。そのことによって、神の働きを担っていくことが、どのように深い喜びをもたらすものであるかを経験できるからである。この喜びを経験していこう。

男性更年期障害

2023-12-05 11:19:10 | コラム
 ある日、新聞に次のような文章を目にした。「中高年男性のみなさんは、何をするにもおっくうだ、なんとなく気力が衰えた気がする、イライラしやすくなった、などの症状を感じたことはありませんか。これは加齢によって男性ホルモンが減ることで生じる『男性更年期障害』かもしれません。40~60代に発症することが多いとされ、うつ症状の原因にもなるそうです。」
 まさに今の私にピッタリ当てはまる。これに何かというと「疲れた」という口ぐせが加わる。2~3年前ごろからその症状がしっかりと自覚されるようになった。しかし、男性にも更年期障害があることは聞いてはいたが、まさか70代で「更年期障害」とは。ただの高齢による、だれにでもなる症状だと受け取っていたのだ。さて、どうやってこれを克服するか、軽減するか。挑戦してみます。