逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

あなたはどこにいるのか

2020-07-27 12:38:54 | 説教要旨

2020年7月26日 主日礼拝宣教
「あなたはどこにいるのか」創世記3章8-13節
 創世記3章には、アダムとエバが食べてはならないと禁じられていた木の実を食べた後のことが描かれている。神の方からアダムとエバのところに近づいて来られた。アダムとエバをご自身の下に呼び寄せるためだ。しかし、アダムとエバは、主なる神の顔を避け、園の木の間に隠れたと、書いてある。すると、神が「どこにいるのか」と問われた。アダムは答える。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」。知恵の木の実を食べて、彼らは目が開けて、賢くなった。そして、目が開けて、これまで全く見えなかったものが見えた。あるいは、これまで全く気がつかなかったことに気がついたわけである。
 神が恐ろしくなった。神に対して丸裸。すべてが見られている存在と気づく。自分たちが神に対して逆らった行為がすべてばれていると気づく。とがめられるに違いない。今までは、彼らは神が近づいてきたら、おそらくそのもとに駆け寄ったと思う。ちょうど、子どもが、母親が帰ってきたら、母親の下に駆け寄るように。しかし、目が開けて、彼らは神のように賢くなって、そして、神が恐るべき存在だということが、わかるようになった。
 神のように賢くなったということは、神と対等、あるいは神の知恵と対抗できるくらいに賢くなったという意味である。今まで、神の知恵に守られ、神の知恵の下で生きてきた人間が、自分の知恵で生きるようになった。神が「こうしなさい」と言うと、人は「いや、自分はこういうふうに思うんだけども」と答え、神に「こちらに行きなさい」と言われると、人は「いや、あちらだっていいのではないか」と答える。それは、たとえて言えばこういうこと。親は自分の子どもについて、「こうしちゃいけないよ」と教える。「あっちに行ってはいけないよ」「ここは走ってはいけないよ」と。それは、子どもが心配だからだ。つまり、子どもの命を守るために禁じるわけである。あるいは「こちらへ行きなさい」と言う時には、子どもが正しく育っていくためにその道を示すわけである。
 創造された人間、神によって造られた人間は、いわば神の前には子どものような存在である。しかし、賢くなった人間は抗うのである。「そうは言うけれども、こっちの道を選んだ方がいいのではないか」「神はそういうけれども、こちらの道だっていいのではないか」「神のおっしゃることよりも、自分の考えの方が合理的ではないか」。そういうように、神と並び、そして神に対抗するようになると、神は恐ろしい存在になる。時に敵になり、嫌な存在になる。自分のしたいことをさせてくれない。だから、神が近づいたときに隠れたのである。自分が追及されるのではないかと恐れたのである。
 神に見られたくない、知られたくない。それが罪の罪たるゆえんなのだろう。罪の本質は、間違えたことをするというよりも、神に対して自分を隠すということである。つまずくこともあるし、失敗することもある。してはいけないことをすることもある。人を傷つけることもある。とっさに嘘をついてしまうこともある。それは誰にでもある。あるけれども、それを隠す。ごまかす。それが罪。間違いや過ち、それを認めない。間違いや過ちを抱いたままで、逃げ続ける、そして、逃げ続けることによって、その罪が人間を追い詰めていく。人間は自分の罪によって追い詰められて、行き詰ってしまう。
 キリストは言われた。「すべて疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)。私たちは逃げて疲れている。言い訳して、自分を正当化し続けて、疲れてしまっている。重荷にあえいでいる。イエス・キリストは、その私たちの荷を負う救い主として、この世に来られた。私たちの罪をその体に背負い、十字架につけられ、そして私たちを受け入れ、赦す。そういうメシア、救い主。だから、何もかも打ち明けていいのだ。罪を告白してもいいのだ。その時に、神は私たちを受け入れてくださる。その時に、真っ暗いところに光が差し込む。イエスは言われた。「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)。
 逃げ続けて、そして落ち続けていた人間が、その時初めて生きるようになる。立ち上がる。つまり、光を受けて初めて、人は生き始める。自分のことを神の前にさらして、自分が神の光に照らし出されて、初めて人はそこから生き始める。人が生きるということは、そこからしか始まらない。光をこの身に受けるというところからしか、私たちは生き始めることはできないのである。パウロは言う。「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」(ローマ13:12)





癒しをなさる方キリスト

2020-07-21 17:12:19 | 説教要旨

2020年7月19日 主日礼拝宣教
「癒しをなさる方キリスト」マタイによる福音書8章14-17節
 今日の聖書箇所8章は、三つの癒しの出来事を伝えている。はじめは、「重い皮膚病を患っている人」の癒しである。「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。」(8:3)とある。二番目は、ある百人隊長の僕で、中風でひどく苦しんでいる。「ただ、ひと言おっしゃって下さい」というその百人隊長の信仰に対して、主イエスは、「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」と言われ、「ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた」と記されている(8:5—13)。主は、ある時には、手を伸べ、触りつつ、またある時は、そのみ言葉の力によって、つまり、その御手とみ言葉をもって、癒しをなされたのである。
 今日の聖書箇所は、最後の三つ目の癒しの物語として記されているわけで、そうした癒しをなさる主イエスのことをまとめて表現した言葉だといってよいと思う。そこには、ペテロのしゅうとめの熱を手に触れられて癒し、「悪霊に取りつかれた大勢の者」が「言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた」とある。主イエスの御手、そして特にそのみ言葉には、癒しの力が働いているのである。そして、さらにここで注意すべきことは、17節によると、その癒しが「主の僕」の歌、「苦難の僕」の歌と結び合わされているということである。ここにイザヤ書53章4節の言葉が引用されている。「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。』」と。
 苦難の僕の歌は、初代教会が、主イエスの受難と十字架の生涯を理解し、解釈する際に欠くことのできない旧約聖書の預言書の一節として重大視していたものである。その預言に導かれて、教会は、主イエスの御苦しみと特にその十字架が私たちの身代わりのものであり、罪の贖いのための犠牲であると理解した。イザヤ書にはまた、「その打たれた傷によって、わたしたちは癒された」ともある。その罪の贖いのため私たちに代わって苦しむ主イエスの生涯と十字架は、ここでは、癒しと結びつけられている。主のご受難は、私たちの癒しのためだったというのである。
 キリストの福音は、第一義的には「罪の赦し」の福音である。そして、罪の赦しの福音であることによって、それはまた、「病の癒し」の福音でもある。主イエスの御手に触れられ、また主イエスのみ言葉を聞く。そのことは、赦しを受ける経験であり、また癒しを受ける経験なのだ。それはまた、悔い改めの経験であり、同時に健やかさの回復の経験なのだ。
さて、今日、私が注目したいのは、主がその手に触られたということ。また、み言葉によって、主が病む人と関りを持って、つながってくださっているということである。人々は、主につなげられる、あるいはつながることによって、病から癒されたということである。重い皮膚病を病む人は、一切のつながりから断ち切られていたという。自分から断ち切らざるを得なかったともいう。日本でも、かつてハンセン病におかされた多くの人が、生きながら、戸籍から自分を抹消していったといわれる。そうしなければ、自分だけでなく、家族全体が生きていけなかったのである。つながりをまったく断ち切り、喪失するということは、本当の意味で孤独になることである。孤独になるということは、生きる意味を失うということでもある。それは、いわゆる寂しさとは、はるかに別なことである。
 スウェーデン映画でイングマール・ベルイマン監督の『野いちご』(1957年)という名作がある。一人の老医学者が人生のむなしさと孤独に押しつぶされそうとしている中、様々な人との出会いから、最後にかすかな生きる希望を見出していく物語である。この年老いた学者は、若い時から自ら人との関係を断ち切り、というかうわべだけの関係を持ちつつ、常に上から目線の関係性の中で、自己中心に生きてきた。その結果、妻にも息子にも見放され、親しい友人もおらず、年老いて、生きるしかばねのような孤独な暗闇の世界に生きるはめになってしまった。ただ寂しいというのではない。寂しさは、心理の問題で、それは紛らわすことができる。忘れることができる。しかし、孤独は存在的な問題で、生きる意味の喪失の問題である。だから、この老教授は夢にうなされ、様々な忘れられない回想に振り回されて、まさに生きる意味を見失った生けるしかばねだった。そうした中、信仰について熱心に議論する元気な若者たち、息子の連れ合いが妊娠し産むことを決心したこと(息子は出産に反対)を告白されたり、老いた母親との再会で母親の愛情を再確認させられたり、長年世話になっている家政婦の親切さに触れたりするうちに、生きるということの意味を見出していく。要するにつながる、関係性の中で私たちは生きる意味を見出し、喜びも悲しみも共有して生きる存在なのだということがこの映画のテーマのように思う。
 ひるがえって、私たちは、教会があり、家族があり、親しい友人たちもいる。何気ない様々な人間関係の中で生きている。つまりつながりの中で生きている。そしてそのつながりこそ、生きる意味、そして生き甲斐となるのである。たとえ何もないとしても、主イエスがつながってくださっている。そしてそれゆえに、生きる意味と使命が与えられている。それは孤独ではない。癒しは、この主イエスにつながっていただくことによって、人間存在の根本から起こるのである。「彼は、わたしたちの患いを負い、私たちの病を担った」(8:17)と聖書は告白する。主は、その十字架において、わたしたちとつながってくださっているのである。主の受難と十字架こそは、主が選ばれた、主と私たちとの接点である。このことを思うと、主イエスによって癒されるということ、主イエスによって私たちの病を負っていただくということ、このことがなければ、本当の癒しはないのではないかと思うのである。ここに究極の癒しがあるのではないだろうか。
 主イエスをわが主と信ずる信仰に中で、私たちはこの究極的な癒しをすでに何らかの仕方で経験しているのではないだろうか。主イエスの癒しの力は、私たちの信仰の中ですでに働いているからである。それは私たちに生きる希望と力と使命を与えてくださっているのである。

感謝ととりなしの祈り

2020-07-13 10:52:08 | 説教要旨

2020年7月12日 主日礼拝宣教
「感謝ととりなしの祈り」エフェソの信徒への手紙1章15-23節 
 パウロはここで「祈りの度に」(16節)と言っているように、しばしば祈っていた。恐らくパウロの生活にとって、祈りは呼吸における酸素にもたとえられるほど重要なものであったであろう。信仰は祈りである。祈りは呼吸である。祈りをしないと信仰が窒息死してしまう。
 さて、一般に祈りのことを祈願と言うように、お祈りでは当たり前のように自分の願いごとばかり願ってしまう。こうして下さい、ああしてくださいと、自分の率直な願いを私たちは何と都合の良いようにいろいろと神さまに訴えている。確かに祈りは何を祈ってもいいわけで、自分の願いを祈ることは別に悪いことではないのだが、自分のことしか祈らないというのはいかがなものか。また、ルカによる福音書18章11-12節にある、パリサイ人の祈りは、祈ってはいるのだが、勝手な独り言としか思えない。聖書にはどんな時でも「(口語訳)絶えず祈りと願いをし」(エフェソ6:18)とあるから、祈りは絶えずしていいのだが、問題は何をどう祈るかではないだろうか。
 パウロが「祈りの度に」していることは、「あなたがたのことを思い起し、絶えず感謝して」(16節)いることである。感謝している、だれに?神さまにである。まず神に感謝をささげている。パウロは獄中にあっても、自分がみ言葉を伝えたエフェソ教会の人々のことを気にかけていたが、15節にあるように、今、彼らの情報を手に入れた。そして、気にしていた人のことが分かってうれしいというのではなくて、エフェソの教会の人々の信仰と愛の業、つまり神との関係に生きている人々の様子を聞いて、深く神に感謝している。
 私たちも祈る時、まず15節にあるように「あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していること」を覚えて、感謝の言葉があふれ出るように高められたいものである。まず感謝。
 このパウロの祈りにおいて重要なことは、17節から19節にわたる、とりなしの祈りである。しかし私たちは、それをいつも怠りがちにしている。キリスト者のしなければならない務めはいろいろあると思う。病人を見舞い、弱きを助け、手を使い、足を用いて友を教会に誘うことも大切な務めである。けれど誰でもそれが全部できるというわけにはいかない。賜物の違いもある。特にパウロにように囚われの身になっている時にはなおさらだろう。しかし、どのような場合にも私たちは祈ることが出来る。祈りはキリスト者の武器。
 しかしなぜとりなしの祈りが忘れがちになるのだろうか。それは、これが外にあらわれない、人に見られない、したがって人に褒められない、お礼を言われない、そういう点があるからかもしれない。パウロの仲間の一人エパフラスは、目立ちもしない、話題にもならないような人だったが、コロサイ4:12「彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています」とパウロの報告に記されている。このような祈りが、初代教会には満ちていた。いやこのような祈りがあってこそ、教会が成長したのだと思う。
 それは第一に、あなたがたが正しく神を知って欲しいということである。そして神を認めるためには17節「あなたがたに知恵と啓示との霊」が与えられるようにということである。その神は「われらの父なる神」ではなくて「私たちの主イエス・キリストの神」(17節)とある。キリストのとりなしによって、神はわれらの父になるのである(17節)。
 そのためには、人間の知恵とか探求心などではなく、つまりここには、神とキリストと聖霊の三位一体の働きによって、神の知恵と啓示が与えられるように祈っている。神ご自身が働いて、私たちの内に神の言葉を理解する深い知識を創造される――この神ご自身の働きを、知恵(真理)の聖霊、啓示の霊という。聖霊によらなければ、私たちは神のみ言葉を正しく理解でない。第一コリント12:3にあるように「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言えないのです」とあるとおりである。
 聖霊によって、はじめて私たちは、まことの「神を深く知る」(17節)ことができ、その時はじめて私たちの「心の目」が開かれると言ってもいいだろう(18節)。私たちが神を深く知ることが出来るのは、体の目や学問を通してではなく、キリストと聖霊の働きを通してなのだということをここで教えられる。
 私たちはあふれるばかりの感謝と希望をもって、これからの一日一日を、キリストの体なる教会の一員として、かしらなる主キリストに仕えつつ、教会に連なる多くの人々のために祈っていきたいと思う。

高齢者の老化防止

2020-07-07 14:23:37 | コラム

 前回、前々回と「ボケない小唄」「ボケます小唄」を紹介したが、今回は専門家の意見を紹介したい。この度のコロナ禍で外出自粛が言われ、特に高齢者がウイルス感染を恐れて、極端に外出を避けた結果、ストレスが増加し、物忘れが増えたといわれている。健康政策専門の久野譜也教授(筑波大学大学院)は「人は年を取ると自然に体と心が弱くなっていきます。寝たきりになって介護が必要になる前の、そういう状態をフレイル(虚弱)と呼びます。フレイルから要介護の状態に進まないようにする対策として、食事と運動と社会参加が大切だと言われていて、この三つの要素は互いに影響し合います。」と言われる(朝日新聞6月18日)。この三つが影響し合っているポイントは「おしゃべり」である。もっと広く解釈すると人間関係、互いに向き合って、関わり合って生きていくことが大事だということになる。教会生活はそのどれも満たす素晴らしい場であり、時間であることを感謝して、これからも励みたいものです。