2024年10月6日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「愛は計算できない」 ルカによる福音書15章1-7節
1~2節に、「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」(1―2節)とある。しかしイエスは、不平を言い出したファリサイ派の人たちや律法学者たちに、端的に語りかけられる。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」(4節)。
このイエスの言葉には、何のためらいも、躊躇もない。ごく自然に、それが当たり前ではないかと言われるのである。考えてみると私たちの行動や考え方には、理屈が多すぎて、人を気にしてためらいが多すぎるのではないだろうか。
ユダヤ人は昔長い間、遊牧の民として生きてきた。貧しい生活を強いられていたユダヤ人にとっては、羊は自分たちの生命のように大切なものであり、その生活を支える大事な物であった。羊飼いは羊の一匹一匹に名前をつけて、名前を呼んで囲いの外に出し、また囲いの中に入れていたと言われている(ヨハネ福音書10:3-5)。また、安息日の規定を厳格に守るユダヤ人であるが、自分の家畜があやまって井戸に落ちた時には、安息日でも助けてもよい、とするほどに自分の羊、家畜は大切であり、自分の生命に等しいものだったのである。
しかしイエスはあえて「九十九匹を野原に残してでも」と言われた。この言葉には、数や損得勘定を越えた深く激しい愛が込められている。愛は計算したり、損得勘定をしたり、数に置き換えられないものだということが分かる。「一匹に」集中して目が注がれている。それはたとえ「九十九匹」を野原に残してでも捜しに行く、大切な「一匹」だと言うのである。
私たちはそれぞれ自分の大切なものを持っている。それは他のものでは代えることの出来ない大事なものである。たとえば賞として貰ったもの、特別な記念の品、愛する人から心を込めて贈られたもの、こうした品は、それ以上に高価なものであっても代えることのできない、自分にとっては最高の価値のあるものである。神の人間への愛、真実な羊飼いの羊への愛はそのようなものだ、とこのたとえ話は語っているのである。
私たちの想像も及ばない程に九十九匹の大切さを知っている人たちの只中で、イエスは、あえて、九十九匹を野原に残してでも、見失った一匹の羊を捜し求めると語られたのである。神の人間への、この愛に圧倒される思いがする。私たちは、神の前に「かげがえのないひとり」だと聖書は語るのである。数や計算では決して計ることのできない価値ある者として、かけがいのない一人として、神は私たちを愛しておられるのである。その愛に応答することが私たちの信仰なのではないだろうか。
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