逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

友なき者の友イエス

2022-02-28 12:40:26 | 説教要旨
2022年2月27日 主日礼拝宣教
「友なき者の友」ルカによる福音書19章1-10節
 朝日新聞(2022年2月16日)にたまたま「関係性」について二人の方の言葉が紹介されていた。作家・ドリアン助川氏「どんな人も他者や周囲の何かと関係を結んで初めて『自分』が成立する。」もう一人はミュージシャン・後藤正文氏「バンドを始めたころは、表現における一切合切が自分のなかだけにあって、音楽と孤独に向き合うことだけが、素晴らしい楽曲を作るための唯一の方法だと思っていた。しかし、やればやるほど、音楽は自分の内側には存在せず、むしろ他者との関係のなかにあると感じるようになった。」
 今日のザアカイの話は大変有名で、いろいろな切り口から説教されているが、今日は「他者との関係」、この場合は「イエスとの関係」だが、イエスとの関係が結ばれて、はじめて「救い」に与かり、解放されたという切り口で見てみたいと思う。
ザアカイは、「徴税人の頭」と「金持ち」というレッテルを貼られていた。どちらも、この男は強欲な者であることを表わしている。当時は、徴税人は不正なやり方で富を得、また、仕事上異邦人であるローマの当局者と接触するので汚れた者としてみられ、さらに自分たちを支配しているローマの手先のように思われて、誰からも忌み嫌われ、軽蔑されていた。本来ならば、「徴税人の頭」であるから、いうなれば組織の長、リーダーであり、「金持ち」なので、うらやましがられる存在であるはずなのにそうではない。ザアカイはさぞかし寂しさや孤独を感じていたのではないだろうか。
このザアカイが、町にイエスという男が来たことを知って、ぜひ一度会ってみたいと思ったので、イエスのところへ駆けつけてみたが、イエスはもう大勢の群衆に囲まれて、背の低かったザアカイは見ることができなかった。イエスを取り囲んでいた群衆は誰もザアカイのことなど気にも留めない。背が低いので群衆をかき分けて前に行きたいのだが、だれも入れてくれない。そこで、ザアカイは仕方なく、先回りして、いちじく桑の木に登って待ったのだった。
人だかりの中心にイエスはおられた。「ああこの人か」、そう思った時、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」、とイエスから言われた。どうして私の名前を?どうして初対面なのに、自分の家に泊まりたいなんて言うのだろう。そんなことをあれこれ考えるよりも彼は喜びのあまり、即座に木から降りてきて、イエスを迎えたのだった。
 イエス・キリストを迎えるという行為、言うなれば、イエスの愛の呼びかけに応答したということだ。ここに彼の新しい人生の一歩があった。もちろん、その前にイエスご自身が罪人呼ばわりされていたこの男を受け入れるという事柄がある。イエスが、はじめにザアカイの存在に目を止めておられたのである。そして、ザアカイの方もイエスの出会いを執拗に求めた。そのこと自体が、彼の悔い改めだったのだ。
 その時、ザアカイはイエスに言った。「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰かから何かだまし取っていたら、それを4倍にして返します」。財産の半分を貧しい者たちに施すというのは、彼の中に憐れみの心が生じたしるしだった。4倍にして返すというのも、律法では強盗をした場合に4倍か5倍の賠償額を支払うことになっていたので、自分の行為を強盗と同じと見ているザアカイの自己への厳しい反省の思いが感じられる。
 彼が悔い改めに至った契機は何だったのだろうか。それは、生活自体は何不自由なかったのだが、共同体からつまはじきされ、関係を断たれ、寂しさをいつも感じていた彼に、イエスは周囲が驚くほどの異なる対応をされたからだ。人々のいる面前で、彼の家に泊まろう、つまり、彼の友になる宣言をされたのだ。彼は、出会いを求めていたイエスから、受け入れられたのだ。このことが、彼の悔い改めのきっかけになった。罪の悔い改めにはイエス・キリストの愛が先行している。
 ザアカイの応答の後、イエスは、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」と言われ、彼も救いの中に置かれている存在であることを伝えた。そして、このことは、「この人もアブラハムの子」と言われたことで、共同体からはじき出されていたザアカイが、その社会に復帰できる人間関係を取り戻す出来事にもなった。それまでザアカイは、神からは「失われていたもの」だった。神から離れて遠いところに行っていた。神に背いて歩んでいた。その彼が、イエスとの出会いによって、神のみもとに立ち返ったのである。
 そこには、まずイエスのザアカイに対する愛の呼びかけがあり、それに応答するザアカイ、悔い改めに導かれるザアカイがいた。私たちも主の呼びかけに応答するものとされて、神との関係、イエスとの関係の中に入れられたいと思う。

礼拝から始まる生活

2022-02-14 12:06:00 | 説教要旨
2022年2月13日 主日礼拝宣教
「礼拝から始まる生活」ローマの信徒への手紙12章1-8節
 皆さん、横須賀海軍カレーはご存知ですか。今では全国的に有名です。それは戦前の海軍で金曜日にはカレーライスを食べたことから始まる。今の海上自衛隊でも続けられているそうだ。ではなぜ、金曜日にカレーを食べるのかというと、航海に出て船の中で生活していると曜日感覚がなくなって、今日が何曜日だかわからなくなるので、金曜日にはカレーを食べさせて、ああ今日は金曜日かと確認させるためだったそうだ。金曜日はカレー、それと同じく、日曜は教会で礼拝。神様を忘れないように。
 さて、私たちは日曜日を「主の日(主日)」と呼ぶ。その「主の日」は、もともと聖書では、歴史の終末の日のことだ。主イエスが、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と宣教を始められた時から、すでに神の国が始まり、主イエスの復活の出来事において終末の日に起こるべきことが先取りされた。復活されたのは日曜日の朝早くの時だったので、「主の復活の日」(日曜日)はまさしく「終末の日」を覚える日でもある。日曜日に礼拝することによって、私たちは、この日に復活された主イエスを記念し、またこの主イエスが終末の時に再び来られるという約束を待ち望む、という日であるわけだ。
 ところで、「礼拝」という言葉、「拝む」という字が入っている。誰を、何を拝むのだろうか。それは主なる神を拝むのである。だから、自己崇拝者や拝金主義者は教会の礼拝に来ない。そして、私たちは「礼拝」と言う時、その後に、「捧げる」とか「守る」とかよく言う。「礼拝を捧げる」とか「礼拝を守る」などと言う。それは、御言葉により恵みを受けて、祈りと賛美と献金とを「捧げる」からである。別の言い方で言うと、お金と時間と労力を捧げると言ってもいいだろうし、自分の生活の一部を捧げると言ってもいいだろう。そして、「守る」というのは、神を第一とする生き方から引き離そうとする悪しき力(サタンの力)の中で礼拝を「守る」からである。次のような言い方がある。「礼拝を守るあなたが守られる」。的を得た、うまい言い方だと感心する。逆に言うと、礼拝から離れるとあなたは守られないということになる。礼拝が私を守る、のである。
 また、礼拝に欠かせないことは、神に栄光を帰することである。つまり神に最高の価値をお返しすること。そして神への献身を新たにすること。さらに目に見えない世界(天)に根差し、見える世界(地)に派遣されることである。
 ヨハネ福音書4章23節に、「霊と真理をもって父を礼拝する」とある。そのことによって、礼拝で生ける神の存在を実感し、主と出会うのである。私たちの生活は主の日の礼拝から始まるということが大切である。私たちの生活全体はその出発点において、神からの祝福された生活である。どんなに困った、つらい生活であっても、神は私たちと一緒に、このつらさを味わって下さるのである。それによって、私たちがこれ以上、困難の中にとどまるところがないように、である。また、生活の中で喜んでいたら、神も一緒に喜んで下さる。私たちがこの世の喜び以上のものを知るようにと、神はそうして下さるのである。
だから、私たちの生活は、「キリストを証しつつ、隣人と祝福を分かち労苦を共にする」という点に、根本的な意味がある。パウロは、第一コリント5章の9節10節で、「わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書いたが、それは、この世の不品行な者……と全然交際してはいけないと、言ったのではない。もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かねばならないことになる」と言っている。ここにキリスト者の社会との関係が示されている。私たちは社会の中で、キリストを証しつつ、社会の問題と取り組み、奉仕するようにと、押し出されていくのである。私たちの生活は、礼拝において、神によって進むべく祝福されて、この世へと遣わされていくのである。
 私たちは神によって遣わされるのである。教会から遣わされるのである。礼拝から遣わされるのである。その時、共に神がいてくださる。どこへ、誰のところへ?それは私たちの生活のただ中へ。現実の社会のただ中へ、である。特に、「わたしは失われた者を尋ね求め、追われた者を連れ戻し、傷ついた者を包み、弱った者を強くする」(エゼキエル書34:16)と言われたように、失われた者、追われた者、傷ついた者、弱った者のところへ、である。そこで私たちは共に生きるのである。それが福音宣教の働きである。それは礼拝から始まるドラマである。

橋渡しの主イエス

2022-02-08 11:32:20 | 説教要旨
2022年2月6日 主日礼拝宣教
「橋渡しの主イエス」マタイによる福音書22章34-40節
 現代人の抱えている最大の問題は、自分の生きる根拠を見出せないことではないのか、ということがよく言われる。帰属意識の希薄さ。それは関係性の喪失でもある。昔なら、どこそこの出身だとか、こういう家系の生まれだとか、あの学校の卒業生だとか、あの会社の者だとか何らかの関係性を強く意識して生きていた。ところが最近では地縁血縁が薄くなり、様々な共同体も存在感が無くなってきている。都会ではなおさらそうだ。ゆえに根無し草のような一人ふわふわと生きている感じ。気楽でいいという人もいるが、一方で孤独死や孤立した生活困窮者が増えている。現代人の多くはどこに立って生きているのか、生きていけばよいのか。存在することの不安を心の奥深くに抱えているのではないだろうか。
 今日の聖書の箇所で、主イエスは、神との関係、人との関係、この二つこそ最重要な戒めであると断言している。神との関係が、いわば縦の関係とするならば、人間との関係は、横の関係にあると言える。人間は、この二つの座標軸に位置づけられ、縦横に織りなされている。そのどちらかとの関係を失った時、人は宇宙の中に存在位置を見失って、不安と焦燥にかられる。現代人の抱えている問題は、突き詰めれば、まさしくこの問題なのではないか。
 創世記の最初に出て来る人類最初の男女、アダムとエバは、この二つを失ったのだ。神の言葉に背いた時、「神の言葉によって創造された」という縦的な存在の根拠を失った。そして、アダムとエバが共同して罪を犯したことにより、二人は憎みあう仲になり、人間同士の横的関係も失ったのだ。それ以来人間は、存在の根拠を失ったまま、浮き草のような生き方をしてきた、と聖書は言っているのではないか。
 そこで、その失った二つの関係を取り戻すために、主イエスが遣わされたのだ。その主イエスが、神を愛し、人を愛すること、この二つこそ、最重要なものであると教えられたのは、当然と言えば当然なことだったと思う。関係性の再構築とも言える。そのために主イエス自らがそれを実践されたのが十字架への道であった。
 この「愛」を考える時、それは主イエスから始まり、主イエスに終わるもの、主イエスにのみその根拠を置くものではないだろうか。「心全体、魂全体、思い全体」で神を愛すること。「あなた自身を愛する」ように隣人を愛すること。果たして、私たちはそんな愛し方ができるのだろうか。私は自分自身を振り返っていくと、まるで一枚一枚皮が剥がれるかのごとく、私自身の本性が明らかにされていくような気がする。そして、そこで明らかにされた「私の本性」とは、「自分の生活でいっぱいで、神を愛しきれていない自分」だし、「自分自身を愛することでいっぱいで、ましてや、隣人までなんてとてもとても」なのである。
 このように私たちが「愛する」ということにおいて、この二つの教えの前に立つとき、私たちの本性、エゴ、自己中心の姿があらわにされるのである。「神を存在いっぱいで愛し、隣人を自分として愛する」の前に、実は立つことすらできないのが私たちなのではないか。
 しかし、そこに主イエスの言葉、「私は成就するために来た」との言葉が響く。「十字架の光」が差し込む。主イエスは全存在をかけて、「神を愛すること、隣人を愛すること」を私たちにもたらして下さった。十字架の出来事を通して、私たちの根源的な罪、弱さを赦し、贖ってくださった。神の愛の発露である。神の愛の恵みをいただくのだ。この事実を抜きにして、私たちには「愛すること」は行い得ないのである。
 40節に「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」とある。「基づいている」、この言葉は新約では7回使われており、そのうち4回は「(十字架に)かける」で使われている。口語訳聖書では「かかっている」。本来の意味である十字架刑に関わる動詞がここに登場することを見逃したくはない。それは、律法全体と預言者が神を愛し隣人を愛することによって立つ、その根拠を主イエスに見出すからである。この愛が旧約の根底にあり、しっかり支える。もしこの愛がなくなってしまったら、旧約は立つ場を失って崩れ落ちてしまうだろう。「私が来たのは律法や預言者を完成するため」(マタイ5:17)、こう宣言された主イエス自らが「十字架にかかり」、その宣言を愛を持って実現して下さったのだ。神の愛の発露である。私たちが「愛せよ」との命題に取り組む根拠もイエスの十字架に「基づいている」。
 私たちはただ、主イエスが示された「愛の恵み」への応答として、「愛の業」に励むのみである。私たちはどれだけ出来るとか、いつまでできるとか言う以前に、自分にある力をどう用いていたのだろうかと問いたい。そして、主イエスがその全存在をかけて私たちに愛を示されたことにまず自分なりに精一杯の応答をしたいと思う。それは神に向き合い、隣人と向き合うことから始まるだろう。それは神との関係、隣人との関係、その関係性の再構築である。その橋渡しをしてくださる主イエスを信じて、愛の業に励みたいと思う


わたしは主である

2022-02-01 11:35:35 | 説教要旨
2022年1月30日 主日礼拝宣教
「わたしは主である」レビ記19章1-12節
 主なる神はイスラエルをエジプトから救出された後、シナイ山でモーセを通して律法を授けられた。その目的は、彼らをご自分の民とするためであった。そのために「わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる」という「神との新しい契約」を示す希望に満ちた宣言を繰り返された。だから、この神と民との関係、神との契約に基づいて与えられた律法は、「神の民」とされる喜びの言葉でもある。今日の説教題の「わたしは主である」という宣言も「神との新しい契約」を示す希望に満ちた宣言である。
 しかし、神が「わたしの民」と呼ばれるには、あまりにもイスラエルの民の罪は根深く、汚れと背きに満ちていた。荒れ野での旅の中で、民の罪は次々と露呈されていく。聖書はそのことを隠さず書き留める。きれいごとではない。それは私たちに、汚れと背きに満ちた人間は、自分の努力によって聖なる者になるという考えを断念せざるを得ない、という事実に思い至らせる。しかし、「わたしはあなたたちの神となる」と言われた神は、その断絶の前でたたずむ方ではない。その断絶を打ち破って人々の生活の中に介入し、私たちに聖なる神の聖なる民として生きるよう求められる。それが律法である。
 律法の基本は、「神を愛し、隣人を愛せよ」である。その具体的な戒めが今日の箇所以下に書かれている。その戒めを命じるごとに、「わたしは主である」と繰り返し宣言される。それは、神はそのようにして私たちの生活の中にまで介入して、共に歩んでくださるお方なのだ、ということを示しているのではないか。「わたしはあなたたちの神になる」と言われる神の愛がそこに示されていることを覚えたいと思う。
 ヨハネの黙示録の21章に、「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」と書かれている。この箇所は、ヨハネが見た神の国の幻である。神の国においては、「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」のである。
 その終末の事柄が、今、この現実の世において、先取りのかたちで行われているのだ。恵みの先行である。神は、イスラエルの民たちに「あなたたちの神となる」と言われたのだ。例えば、誰かがあなたに向かって「あなたの友となる、友だちになろう」と言ったとしたら、それは一緒に遊ぼうとか、共に頑張ろう、ということを含んでいる。同じように「あなたたちの神となる」とは、「神が人と共に住み」「神が自ら人と共にいて」、あなたたちの神となることを意味する。共にである。神は遠くどこかにいて、宣言しているのではない。共に住んでおられるお方なのだ。そのことを思う時に、神との契約に基づいて与えられた律法は、「神の民」とされる希望と喜びと励ましの言葉として響いてくるのではないか。
 イスラエルがかつて、十戒を与えられた時のことを見てみよう。モーセがシナイ山頂において十戒を与えられた時、主はまず「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト20:2)とご自身を宣言された。ここに、恵みの先取りが言われている。宣言する前に、命令する前に、いかに主なる神がイスラエルを愛し、憐れんでくださったか。その具体的な出来事として出エジプトというイスラエルのエジプトの国、奴隷の家からの解放の出来事があったのだ。出エジプトの出来事、さらに荒野での40年にわたる旅路をみるときに、まさに「神が人と共に住み」「神が自ら人と共におられ」なければ、なしえないことだったことが分かるだろう。いや、それは、今に至るまで続いている。それは、イエス・キリストと聖霊を私たちのために与えて下さったことによる。インマヌエルなる主イエスを私たちのためにこの地上に送ってくださって、今も聖霊なる神によって導かれ守られている私たちである。神の愛の永遠なることに感謝し、賛美しよう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)。