逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

深い淵から

2021-06-24 11:16:49 | 説教要旨
2021年6月20日 主日礼拝宣教
「深い淵から」詩編130編1-8節
 1節に「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます」とあるが、「淵」とは、川、沼、湖などの水が淀んでいるところだ。この詩編の作者は、今、その淵にはまってしまったのだ。もちろん、「深い淵」は、ここでは比喩的に使われている。浮かび上がることができない境遇、状況を表している。この詩編には、詩編作者が、なぜ「深い淵」にはまっているのか、どういう境遇にあるから「深い淵」と表現しているのか、何も説明はない。説明がないということは、この詩編作者のきわめて個人的な体験というよりは、個々の私たち一人ひとりが、自らの体験を「深い淵」として、ここに当てはめて、詩編130編を自分の嘆きの詩編にすることができるということだ。自らのつらい体験と重ね合わせて読むことができるのだ。
 確かに人は、時に、「深い淵」に陥ることを経験する。にっちもさっちもいかなくなる、あるいは自分ではどうしようない状況に置かれる、そんな経験をされたことはないだろうか。「深い淵」にある者は、どうして自分はこうなってしまったのか、などということを理性的にあれこれ分析しても究極的には、なかなか納得できるものではない。境遇、その置かれた状況というのは、自分だけではどうにもならない、説明できない巨大な力学というか、途方もない大きなものに巻き込まれている、そのようなものではないだろうか。
 さて、私たちが注目しなければならないことは、この詩編作者が、「深い淵」から神に「主よ」と呼び掛けて、神に叫び声を上げている、祈っているということだ。これは何を意味しているのだろうか。それは、人が「深い淵」に陥ったときは、遠慮なく、神に呼びかけ祈っていいということだ。いや、もっと積極的に言うならば、何をおいても神に祈るべき、神に叫び声を上げるべきであると、肯定的に促しているようである。神に嘆くこと、神に呼ばわること、そのこと自体がかけがえのない信仰の行為である。遠慮なく、神を呼び求めていいのだ。なぜなら、神への嘆きには、究極的に、神が人の嘆きを聞いて下さる、という信仰があるからである。日本人はよく神も仏もないと嘆く。また、苦しい時の神頼み、ということわざもある。それは何か特定の神仏があって、それへの信仰心(信頼)があっての嘆きだろうか。漂泊の歌人・西行法師が伊勢神宮に参拝した折に詠んだ歌に、「なにごとの おはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」がある。これこそまさに日本人の信心そのもの。叫ぶ、祈る対象はどうでもいい、よくわからない。祈ること自体が大事。そこに神仏に対する確たる信頼(信仰)はない。
 次に、この詩編には、次のような作者の心情が読み取れる。それは、この詩編作者が、「深い淵」にあって、何にもまして不安に思っていることは、自分と神との間には「深い淵」が出来てしまっているのではないか。自分は神に見捨てられているのではないかという不安である。古代イスラエルにあって、神と自分との間を隔てていると思われていたことの一つは「罪」(不義)だった。その罪は、自覚的、無自覚的な罪も含む。この詩編作者は、その罪を最終的に赦すことのできるのは、神のみであることを知っている。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。」(3-4節)。ここには、詩編作者と神の間の隔ての淵に橋を渡して下さるのは、神であると信じる信仰が脈打っている。
 さて、この詩編作者のような人が罪赦されたと知る。あるいは、自分の罪から逃げ出さず、それと真に向き合うようになる。それは、どのようにしてだろうか。もちろん、自らの心の中に神からの示しを受けて、あるいは受け入れて確信する場合もあるだろう。それに加えて、もう一つの場合もあると思う。それは、そのような人が、その犯した罪にも関わらず、他の人から、最大限、人としての敬意をもって遇された時だと思う。詩編130編に従えば、神と共に、「深い淵」にある人の叫びが他者によって聞いてもらえる時である。人を愛するということは、その人の深みに「共なる」ということであり、共感することである。
私たちすでに信仰の恵みに与っている者は、悲哀と低みにおいて人と出会うことは、それは、そのような人と共におられる私たちの主イエス・キリストと出会うことでもある。だから、そのことを大切にしながら伝道・牧会活動に励んでいきたいと思う。それは、苦難と恥の生涯を送られ、復活され、今も生きて働きたもう主イエス・キリストの体なる教会に連なる証しでもある。 

金曜日を減らせ??

2021-06-17 11:05:42 | コラム
  • 金曜日を減らせ??
    毎日、新聞を読んでいて、時に考えさせる話題、励まされる記事、改めて知る内容、そして素敵な言葉に出会う。かなり前になるが某日の新聞から拾い読み。「もう少し『金』曜日を減らし意識して自然と触れ合ったほうがいいんじゃないか」(本田亮「折々のことば」)。何のことかと首をひねった。「曜日の名はもっと自然に触れ合えと伝えている」と続く。なるほど、確かにそうだ。「月を見る、火をおこす、水と遊ぶ、木に触れる、土を踏む、陽光を浴びる」。「『金』を稼ぐばかりだと、心が乾いてしまうよと」忠告。その通りだとうなずく。
    同じ日の「天声人語」に「あせらず、あわてず、あきらめず」は経営やスポーツの哲学としてしばしば聞く心構え、とあった。教会形成や牧会にも当てはまると思った。とにかく「あせる」が禁物。2千年の教会の歴史の中で今の現状を見つめる余裕を持ちたいと思った。

積極的な祈り

2021-06-17 11:00:19 | 説教要旨
2021年6月13日 主日礼拝宣教
「積極的な祈り」 使徒言行録4章23-31節 
 今日のテーマは祈りについてである。祈りはキリスト者の信仰生活にとって中心にあると言われている。祈りに始まり祈りに終わる日々の生活。祈りこそ、生活の真ん中にある。でも、他宗教でも祈る。また神を信じない人だって「ご健康を祈ります」など手紙の最後に書いたりする。キリスト教の祈りとどこが違うのか。キリスト教の祈りは、困った時の神頼みで祈り、願い、拝み、のど元過ぎれば熱さ忘れるで終わってしまうのとは違って、生ける神に聴き、神と対話するものだ。
 宗教改革者であるカルヴァンは『キリスト教綱要』で次のように書いている。「祈りの目的は私たちの心が神へと向けて高められ、その栄光を願い求め、神への賛美を公にし、困苦の中では助けを乞い求めることにある。……すなわち神と対話しつつ神の向かうことである」。「神に向かうこと」とあるが、それは神と共にあろうとする魂の不断の方向で、磁石がいつも北を向いているように、いつも心が神に向き、神に聴くのが祈りである。だから「神との対話」となるのだ。
 さて、以上のようなことを頭に入れながら、今日の聖書箇所から祈りについて深く教えられたいと思う。
 今日の聖書箇所は、伝道を行なったため捕らえられたペテロとヨハネが、釈放された後、仲間のもとに帰り、起こった出来事の一切を報告したところから始まる。そして「これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて」祈ったのだ。「心を一つにし、神に向かって声をあげる」ことのできる、それこそが教会と言うべきだろう。彼らの祈りには、深刻な事態にも関わらず悲壮感はうかがわれない。「脅迫などないように」という哀願もない。むしろ、彼らは「脅しに目を留め」(4:29)という言葉が示すように現実をしっかりと受け止め、そこで「思い切って、大胆に、御言葉を語ることができるようにしてください」と祈り願ったのだった。世が神にどれだけ逆らっても、天地万物の創造者にして、歴史の真の支配者である神の救いのご計画が揺らぐことはないという確信に立った信仰で祈っている。
 彼らがこの困難な中で祈った祈りには、いくつかの特徴がある。第一に彼らは、この苦難の中で主イエスの十字架を見上げて祈っている(4:27-28)。十字架は苦難であるが、同時にそれは神の勝利でもあるのだ。なぜなら、十字架に復活の喜びが続くからである。復活を仰ぐ時、十字架は喜びと力の泉となる。私たちは苦難のない信仰を求めてはならないだろう。なぜなら苦難をとおして、必ず勝利のあることを知っているからだ。ダビデを通して預言されているように、たとい周りがどんなに騒いでも、空しいことを計っているにすぎないのだ(4:25)。だから、私たちは、主イエスはすでに復活において世に勝利されているという信仰に立って祈ることが大事ではないだろうか。
 祈りの第二の特徴は、神の定め、予定の信仰である。「実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです」(4:28)と祈っているように、彼らはこの予定の信仰にもとづいて祈り求めたのだ。ここに信仰の秘儀がある。神が与えてくださるものは、死であれ、生命であれ、悲しみであれ、喜びであれ、良きものとして受けようとしたのだ。予定とは、運命ではない。運命には計画がない。愛も希望もない。予定とは神の愛のご計画。上からのご計画にほかならない。人間の罪が荒れ狂う、その場所にも、神の愛の計画が厳然として存在しているのだ。私たちは、このような不思議な神の定めを信じているだろうか。難しいことだ。しかし、「聖霊によって」(25節)とあり、「聖霊に満たされて」(31節)とあるように、それは聖霊の助け、聖霊の働きなしにはできないことだから、私たちは。聖霊の働きを祈り求めることが求められている。
 第三に、彼らは祈りの中で決して敵を攻撃していないこと。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」(4:29)。こう祈っただけだ。ここで、「どうか神に背く者らを、滅ぼしてください」とは祈っていない。その必要はない。というのは、神が彼らを守る手段を知っておられるからだ。祈りには、求める面と任せる面とがなくてはならない。信仰者を守ること、それは神がしてくださること。それについては、神に任せきることが大切である。しかし、その中で反対に、積極的なことを求めてゆかなくてはならない。彼らが積極的に求めたのは、み言葉の遂行。「僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」という祈りだ。私たちに求められているのは、御言葉に固く立って、御言葉に教えられ導かれ、励まされていくこと。そして、最善をなしてくださる主のみ手に委ねつつ、積極的にみ言葉を宣べ伝えることが求められている。それにはまず積極的な祈りから始めよう。

学びのないところに成長なし

2021-06-07 16:21:43 | 説教要旨
2021年6月6日 主日礼拝宣教
「学びのないところに成長なし」テサロニケの信徒への手紙一1章5-8節
 教会は礼拝するところでもあるが同時に学ぶところでもある。テストはないが卒業もない。それだけに自分の責任できちんと自分にふさわしい仕方で学ぶことが求められる。では、教会で学ぶとは、どういう意味を持っているのか。そのことをテサロニケの教会の姿から見ていこう。 
 テサロニケの教会は多くの苦しみの中で、神の霊による喜びに生きていた(6節)。そして何をしているのかというと、ひとつはみ言葉を受け入れているのである。神の言葉として受け入れるということは、きちんとその言葉を理解しなければ成り立たない。なにも理解せず、なにも分からないけど信じますでは、それは妄信であり、それが洗脳ということにつながりかねない。
 言葉というものは一つには意味を伝える。もう一つは、そのように伝える意味するところが、きちんと一つの筋道を持っていること。論理性である。よく言われる「言語明瞭、意味不明」では、言葉は言葉の働きをなしていない。最近の政治家や官僚の発言なんかにも時折みられる。 
 神の救いというのは、きちんと筋道が通ったことである。ただし、私たち人間が考えるような筋道とは違う。それは神の真理、神の論理としての筋道である。神の救いについて、その内容(意味)をきちんと理解するということ、その神の救いが持っている筋道を良くわきまえるということ、この二つのことが、み言葉を学ぶという時に大切なことである。これが良くわかり、納得でき、自分の知識と論理となる、その時に初めて私たちはみ言葉を受け入れたと言えるようになる。教会は、そのようにして神のみ言葉について学ぶところである。
 しかし、テサロニケの信徒への手紙一は、そのことだけを語ってはいない。「み言葉を受け入れ、私たちに倣う者、そして主に倣う者となり」(6節)と語られている。「倣う」はまねること、模倣すること。「学ぶ」は「まねぶ」、つまり「真似をすること」だということはよく知られている。だから学ぶということはただ言葉を覚え、それを理解するだけではないのです。真似をするとは、言葉だけではなく、言い換えれば知識だけではなく、体を動かさねばならない。手足を動かし、あるいは口も動かす。言葉も態度も生活もひっくるめて真似をすること。言葉と生き方が一つになるような学び方をしなければならない。そして変わること。学ぶということは変わるということ。
 続けて読んで行くと、「マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです」(7節)とある。ちょうどテサロニケの教会の人たちがパウロや主イエスの真似をした。それと同じように、今度はマケドニヤとかアカイアとか他の地方にいる人たちがテサロニケの教会の人たちを手本にしてその真似をすることによって、信仰とは何か、み言葉とは何か、そのみ言葉によって生きるとはどういうことかが身に着く形で学べた。そう言っているのだ。ここに、真似をされ、真似する人たちが作る系列がつながっている。私たちもあの人のようになりたいと思い、その生き方を真似ようとする。
 キリスト者の場合、その真似(学び)の原点は主イエス・キリスト。そこから始まる真似(学び)の流れのなかで、結局何が起こっているのでか。「主の言葉が響き渡った」(8節)のである。パウロはこのテサロニケの教会をあらゆる教会に先立って形作ったとき、このような意味で「学ぶ教会」を作ったのである。根本のところに座っておられる元の元は主イエス・キリストである。教会の根拠となり、常に教会形成の力となるのは、神の言葉である。そして、その主イエスの真似(学び)をしながら、神のみ言葉に聴き続ける、学び続ける、そこに教会があり、教会の成長があり、一人ひとりの信仰の成長があるのだ。

安息日は人のために

2021-06-01 15:08:22 | 説教要旨
2021 年5月30日 主日礼拝宣教
「安息日は人のために」マルコによる福音書2章23節-3章6節
 今日の聖書箇所は、ともに安息日にかかわる話である。2章23節から始まる最初の話は、弟子たちが安息日に麦の穂を摘み取ったという話。そのことで、イエスがファリサイ派の人々と「安息日」について議論をされる。イエスの弟子たちは、「歩きながら麦の穂を摘み始めた」(2:23)とあるから、空腹に耐えかねて畑の穂を取って食べようとしたのだろう。でも、大人が他人の畑の麦の穂を取って食べれば、それは「盗む」ことになり、十戒の「盗んではならない」という教えに反するものだ。弟子たちの行動を見たファリサイ派の人々が、血相を変えてイエスに迫ってきたのは当然である。彼らはモーセの律法をなによりも重んじていた人々だったからだ。
 しかし、思わぬ展開がここで起こる。ファリサイ派の人々は、弟子たちの「盗んだ」行為ではなく、「なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と、弟子たちが安息日の規定を破る行為をしたと批判したのだ。それは彼らが麦の穂を摘んだことにあり、その行為は律法では労働とみなされていたからである。出エジプト記20章8-10節に「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」とある。この十戒にあるように、安息日に仕事をすることは禁じられていた。にもかかわらず、イエスの弟子たちは麦の穂を摘むという労働をしたことをファリサイ派の人々は批判したのだ。あまりにも律法主義的で、荒唐無稽なことと思われるのだが、しかしユダヤ人たちにとっては、安息日は最も大切なモーセの律法として守らねばならないものだったのだ。
 この批判に対して、イエスは「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と、安息日の本来の意味を問い返している。この安息日に関する規定については、十戒の中だけではなく、他にも書かれている。出エジプト記23章12節には次のように書かれている。「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復すらためである」。この安息日規定が最も古いものとされているのだが、そこでは仕事を休む理由として「あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」となっているのだ。
 ここでの「休む」という言葉は、字義通りには「励ます」とか「元気を出させる」という意味。安息日の規定は、それが律法の掟であるから守らなければならないのではなく、本来は人々を毎日の過酷の労働から解放し、元気を回復させるためにあるということだ。それも律法の民と自負するユダヤ人にではなく、酷使されている牛やろばのために、また激しい労働を課せられている女奴隷の子や寄留者のために安息日はあるということだ。そのように理解すると、安息日の意味が全く変わってくる。「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」とイエスが言われた、ここでの「人」とは、女奴隷の子や寄留者も含まれるのであり、さらに牛やろばも含まれると理解してよいのではないだろうか。
 さて、次の3章1節からは、イエスが手の萎えた人を癒すという話。「イエスは手の萎えた人に、『真ん中に立ちなさい』と言われた」とある。ユダヤ教の会堂の真ん中はラビたちが律法について教える講壇があるところ。この講壇のところに立ちなさい、と言われたことは、会堂に集まっていた人たちにとっては驚きの言葉だったに違いない。なぜなら、当時は体の不自由な人々は律法から最も遠いところにいるとみなされていたからだ。だから、彼はいつも会堂の片隅に隠れるように座っていた。その人に向かってイエスは「真ん中に立ちなさい」と命じられたのだ。会堂の真ん中、そこには聖なる律法の巻物が置かれ、朗読するラビたちがいる、そのところにこの片手の萎えた人が立つのだ。人々は驚き呆れたことだろう。しかしイエスは真ん中に立つことを命じる。律法の巻物に代わって、律法学者やラビたちに代わって、この人こそ会堂の真ん中に立つべき人だったからである。主イエスにとって、安息日こそ、苦しみを持つ人が解放されるのにふさわしいとお考えだったのだ。だから、いまや律法の巻物ではなく、律法から最も遠いとされていた人が真ん中に立つのだ。
 このことはとても大切なことだと思う。学問や技術、文化や思想はもちろんのこと、政治や経済も「人が真ん中」でなければならないのだ。しかし、実際は人が真ん中どころか、隅っこに追いやられているのが現実ではないだろうか。オリンピックは人のためにあるもの、人がオリンピックのためにあるのではない。その「人」とは日本の国民だけではない。全世界の人々を指す。今世界中でコロナ禍のために苦しみ悲しんでいる多くの人々を隅に追いやり、目に入らぬかのように、オリンピック開催に血ナマコになっているIOC、日本政府、都知事以下の関係者。この主イエスのみ言葉に耳を傾けよ。
 「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」というみ言葉がこの会堂の中でも共鳴している。安息日の礼拝において片手の萎えた人が会堂の真ん中に立った時、安息日は人のために定められた、というイエスの言葉が成就するのだ。
 私たちはよく礼拝や集会などでの祈りの時、主イエスが私たちの真ん中にいて下さり導いてくださいとお祈りをする。もちろんそこに主イエスの姿は見えないが、目には見えない主イエスを見上げつつ礼拝や集会を行う。その主イエスは、ときには片手の萎えた人として、ときには病気で苦しむ人として、そして時には教会に来られない人に代わって、会堂の真ん中に立っておられるのではないだろうか。十字架にかけられたイエスとして。