逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

信仰は聴くことから

2021-08-31 11:04:02 | 説教要旨
2021年8月29日 主日礼拝宣教
「信仰は聴くことから」 申命記6章4-5節
 人から話を聞いてもらっている時、こちらの思いを十分にくみ取ってもらったと感じると、思わず「そーなんです」という言葉が出てしまう。自分の思いが相手に伝わって、ひとりで悩んでいた自分のかたわらに、同じ悩みを共有する存在をもったかのような思いが湧いてきて、気持ちが軽くなるのを感じるだろう。
 気持ちを理解してもらえたというステップを踏んだ者は、次のステップに向かって歩み出す。今までの自分と違う、新しい自分の姿を発見するのだ。そうなると、それまでの生き方と違う何かが生まれてくる。その瞬間「あっ、そうか」と言うだろう。今まで考えてもいなかった世界が自分の中にあることを発見した驚きである。「そうか。こういう生き方もあるのだ」と同じ自分の世界でありながら、今まで見えていなかったものが見えてくるのだ。
 信仰のありようもこれによく似ている。話を聞いてもらう相手は神さまである。何でも話せる。話す手段はお祈り。祈りは神さまとの対話だから、話すだけではない。神さまからの声を聴く時でもある。雑音にじゃまされずに「耳を澄ませて」聴かなければならない。
 神の声を聴く時は、祈ってる時だけではない。突然向こうからやってくる感じ。聖書を読んでる時、メッセージを聴いてる時、讃美してる時、いや道を歩いてる時や仕事や家事をしている時、突然「あっ、そうか」という神さまからの声を聴くことがある。なんだか嬉しくなったり、胸が熱くなってきたり、ほっとした軽い心持ちになったりもする。思わず「神さま、感謝します」という祈りがでる。そして、新しい自分の姿をそこに発見したり、それまでの生き方と違う何かが生まれてくる。そのように聴くということは大事なこと。
 聖書でも、私たちに「聞け、イスラエルよ」と呼びかけている。私たちは全身を耳にして向こう側から響いてくる声に耳を傾け、一心に聞かなければならない。「傾聴」、耳を澄ませて聞くのだ。主イエスも「聞く耳のある者は聞きなさい」と繰り返し言われている(マコ4:9,23等)。ヨハネの黙示録にも「耳ある者は、‟霊"が諸教会に告げることを聞くがよい」(2:7等)と書かれている。
 そのように神とのコミュニケーションにおいて傾聴することが最重要であることが教えられる。祈りにおいても、説教の準備においても、牧会、伝道、様々な奉仕においても、一番重要なことは語ることでも考えることでもなく、まず聴くことだと思う。虚心坦懐になって、ただ無心に向こう側から響いてくるものに耳を澄ませる。どのような喧騒と混沌の中にあっても私たち信仰者にはそのような姿勢が求められている。
 なによりも信仰は聴くことから始まるからだ。パウロも、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ロマ10:17)と語っている。しかし、私たちは聞くことの鈍いものである。黙して聞いているようでも、頭の中であれこれ考えていて案外聞いてないことがある。まして、言葉にならない思いを聞くことなどそうたやすいものではないことは生活体験の中で思い知らされている。相手の気持ちに焦点を合わせて一生懸命聴くということは決して楽なことではない。言葉を慎み、無となって相手の心に耳を傾けるよう心がけたいものだ。
 神の御言葉を聴くことも同様である。そのためには心のアンテナを神に向けなくてはならない。次に心のダイヤルを神に合わせなくてはならない。しかしそれだけでは、神の言葉は入ってこない。私たちの心の耳を開かなくてはならない。心の耳を開くという決断だ。スイッチを入れる決断。これが難しい。私たちは自分大事さに心を閉ざしがちだ。心の奥底をのぞかれたくないからである。
 しかし、心の耳は開かれなければ救い(自由と解放)はない。主イエス・キリストがその息を吹きかけてくださることを通して、私たちの心の耳を開いてくださるよう祈ろう。主は命じられている。「エッファタ(開け)!」と(マコ7:34)。声をかけるのは息(聖霊)を吹きかけるのと同じ。神の霊によって開かれるのだ。
 今朝、主イエスによって心を開いていただき、御言葉を聴こう。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。

感謝と祈りの包囲網

2021-08-23 11:24:51 | 説教要旨
2021年8月22日 主日礼拝宣教
「感謝と祈りの包囲網」フィリピの信徒への手紙1章3-11節 
 今朝の聖書個所はパウロの感謝と祈りが書かれている。3節に「感謝する」とあるが、それはフィリピの信徒たちが「福音にあずかっている」(5節)からだ。世には多くの感謝するべきことがあるが、パウロにとって人々が福音にあずかることほど、大きな感謝はなかったのだ。
 私たちも同じである。バプテスマを受ける人が起こされ、バプテスマ式の恵みに共に与ることほど、喜びと感謝なことはない。また、礼拝で多くの人と共に福音のメッセージを聞くことの恵みも感謝としか言い表せない。
 ところで、「継続は力なり」とよく言われるが、何でも一つのことを続けることは大切なことだが、簡単なことではない。むしろ続けるには大きなエネルギーが必要だ。「あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっている」ということも、決して容易ではない。「福音にあずかる」とは十字架によって罪が赦され、滅びから救われることだ。それは「恵みにあずかる」(7節)ことに他ならない。
 この「あずかる」と訳されている言葉はギリシア語の「コイノーニア」が使われている。「コイノーニア」は普通、「交わり」と訳される言葉だ。「交わり」はキリスト教の中心、生命線だが、教会で「交わり」という時、人と人との交わり(横のつながり)、神と人との交わり(縦の関係)のことを意味する。さらにそこに「霊の交わり」(2:1)があるかどうかがキーポイントになる。
 今、私たちはコロナ禍でこの交わりをなすことの難しさを経験している。感染防止のために接触を避けるよう言われているからだ。直接的な人と人との交わりが制限され、ZOOMなどのオンラインでの礼拝や集会、会議が多くなった。教会の奉仕や諸活動も自粛せざるを得ない。
 このように今回のコロナ禍の経験を通して思わされることは、私たちが福音にあずかるということは、決して自明のことではなく、一つの奇跡でさえあると言えるのではないかということである。私たちはいつ信仰を失っても不思議でないほどに弱く、この世には多くの誘惑があり、問題があり、今回のコロナ禍のような障壁もある。このような現実の中で、福音にあずかれるということは、人間の力や業では全く不可能である。ただただ祈りによって、むしろ、祈りを通して生きて働かれる神の恵みと「善い業」(6節)、まさに十字架の愛のエネルギーによってのみ可能となるのではないだろうか。だからパウロは「わたしの神に感謝する」と言い、感謝が泉のようにわきあがるのである。
 同時にパウロは「あなたがたのことを思い起こす」と言っている。「思い起こす」とは単なる想起ではなく、相手の名を呼んで、とりなし祈ることだ。だから4節では「あなたがた一同のために祈る」と言っている。教会のために、人のために祈る人がいる。教会やキリスト者の背後には、祈る人がいるのだ。私たちも今日もそうだが、報告の後で、短い祈りの時を持つ。具体的に名前を挙げて祈る。そのことは私たちも同時に多くの人々や教会から祈られているということを覚えるべきだろう。感謝なことだ。
 さて、ここで「一同」(7,8節)という言葉が繰り返されているが、一人の例外もなく祈りの対象なのだ。しかもこの世の誰も、祈りや愛の対象から除外されている人はいないはずである。先ほども言ったが、私のために祈ってくれる人がいて、そのようなとりなしの祈りによって、私の信仰が支えられていることを覚えたいと思う。しかもそれだけではなく、聖書には、霊によるとりなしがあり、イエスによるとりなしがあるのだと書かれている(ロマ書8:26-27,34)。
 私たちは多くの力強い執り成しの祈りによって包囲されているのだ。実際、多くの問題や危険に包囲されているが、何よりも力強い祈りの包囲網の中に存在し、それによって守られているのである。このような祈りの包囲網、愛の包囲網(8節)を発見する時、私たちに生きる勇気が生まれる。励ましを受ける。それが「継続は力なり」という時の力となる。そのことを忘れないで、これからも主と共に歩む信仰生活に励もう。

和解による平和

2021-08-17 10:29:53 | 説教要旨
2021年8月15日 主日礼拝宣教
「和解による平和」マタイによる福音書5章21-26節
 茅ヶ崎の有名人と言えば、昔、加山雄三、今、サザンの桑田佳祐。この人気バンドの楽曲に「ピースとハイライト」というタイトルの歌がある。ピースとハイライトと言えば、今は懐かしいタバコの銘柄。なんでピースとハイライトなのかというと、作詞者の桑田佳祐いわく、「ピース」には「平和」、「ハイライト」には「もっと日の当たる場所」という意味を込めたと言うのだ。
 この歌は「平和への願い」を歌詞のテーマに据えており、特に東アジア情勢を照らし合わせて、お互いの歴史を知ることで助け合ってほしい、という内容である。9年前に発表された歌。歌詞の一部を紹介しよう。「何気なく観たニュースでお隣の人が怒ってた/今までどんなに対話(はな)してもそれぞれの主張は変わらない/教科書は現代史をやる前に時間切れ/そこが一番しりたいのに何でそうなっちゃうの?/希望の苗を植えていこうよ/地上に愛を育てようよ/未来に平和の花咲くまでは....憂鬱(Blue)……」
 今日は終戦記念日。毎年の全国戦没者追悼式での最近の首相の式辞は、アジア諸国に対する加害者責任には触れず、「不戦の誓い」もない。もっぱら国内向けの戦没者に向けた追悼の思いだけだ。他の国々との関係を忘れた、あるいはないことにするというような内向きな思考に終始している。これでは外交の幅を狭め、自縄自縛の狭くて険しい道に迷い込むだけだ。
 そんな政権が続く中だからこそ、サザンよ、桑田よ、歌いまくってくれ!と私たちも応援したくなる。いやいや、私たちも共に「希望の苗を植えていこう」。時の権力者に警鐘を鳴らそう。歌でも文章でも漫画でもデモなどの行動でもいい。平和への道のりは険しいが、もう二度と戦争はしてはいけない、その意思を発信し続けていこう。平和憲法に生きる国民として。
 では今度は、聖書から「平和」について考えてみたいと思う。どの宗教にも重要な戒律がある。ユダヤ教は、「十戒」(出エジプト記20:2-17)を中心とした「律法」である。似たような戒律はイスラームにもあるし、仏教にもある。紀元前18世紀に作られた人類最古の成文法と言われている「ハムラビ法典」にも共通の部分がある。その意味では、「十戒」は人類に普遍的な「道徳律」と言えるかもしれない。
 しかし、ユダヤ教徒にとってはそれは単なる「道徳」を超えた、特別の意味を持っていた。つまり、彼らはそれを「神の」命令として受け止めたのだ。さらに、その律法について、主イエスご自身は山上の説教で、自分が来たのは律法(十戒)を「廃止するためではなく、完成するため」であると言われ、その「一点一画も消え去ることはない」(マタイ5:17-18)と明言している。しかし、その重要性を最大限認めながら、同時に十戒の条文を「原理主義的に」守ろうともしなかった。むしろ、律法の中で「最も重要な掟」は「神への愛」と「隣人への愛」であるという洞察(マタイ22:37以下)に基づいて、「十戒」を新しく解釈し直したのだ(マタイ5:21以下)。私たちが「十戒」を読むとき大切なのは、主イエスが示されたこの道ではないか。
 たとえば、第6戒の「殺してはならない」。確かに私たちはこの戒めを知っている。しかし、私たちはどこかで「正当な殺し」を模索していないか。「もし侵略されたら、もし愛する者が襲われたら、そんな時には相手を殺しても仕方がない」と思う。確かにそんな「極限状態」に見舞われた時、この戒めを守ることができるかどうか正直心もとない。戦争やテロが現に起こっている今日、なおさら私たちの思いは「正当な軍備」「正当な防衛」「正当な報復」へと傾いていく。
 しかし、神はただ「殺してはならない」と言われたのだ。そこには状況に対する説明も、条件も何一つ語られてはいない。すなわち「こんな場合は、殺してもよい」とは言われていない。どんなに大変な状況であったとしても私たちが殺すなら、この戒めによって私たちは問われるのである。
 では、「殺す」とは何を意味しているのか。それは命を奪うこと。相手の「存在を否定すること」ではないか。主イエスはこう語られた。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。怒りや敵意、さげすみは、相手の存在を否定することであり、殺すことと同じだと、主イエスは言われるのだ。「殺すな」は、命を奪うことだけではなく、それに通じるあらゆる道を問うている。 
 戦争は、どんな理屈を言っても相手を殺すことだ。あるいは物を破壊することだ。私たちは、そんな戦争を否定する。同時にそのための備えも、それに対する協力も拒否する。なぜなら軍備の必要性は、敵を想定することによって正当化されるからである。ミサイルを発射させ得るのは私たちの持つ敵意である。暴力の肯定、軍備、有事体制などを正当化するのは、すべて敵意から生まれる。主イエスは、この敵意と殺しを同じことだと言われているのだ。御言葉に生きる私たちは、敵意や軍備そのものを否定する。
 キリストは、「敵意という隔ての壁」(エペソ2:14)を取り除かれた。これが私たちの希望である。すでに主は勝利されており、敵意の問題は解決している。この希望を信じる私たちは、地上から敵意がなくなるように努力するだけだ。
 戦争のために「正当化の理由」を探すのではなく、敵意を取り除くというキリストの業に参与することによって、地上から戦争の備えと戦争そのものを無くすのである。殺すなという戒めは、単に命を奪わないということのみならず、この世界から敵意を取り除くというキリスト者の使命を指し示している。これが和解による平和の構築。これがキリスト者の使命。
 こんなことを言うとすぐ、そんなのは理想主義だと言われる。現実を見ろと言われる。しかし、現実を冷静に見るからこそ見えてくるものがある。それが人間の内にある敵意(罪)という壁。だから、それを取り除こうという働きをしていこうとしているだけだ。そのために具体的などんな働きがあるか。いろいろあると思うが、中村哲医師のアフガニスタンでの働きはまさにそういう働きではないか。具体的な働きを通して信頼関係を作っていく。時間はかかるかもしれないが、急がば回れ。忍耐と努力が求められる。キリスト者は「敵意という隔ての壁」を取り除かれたキリストに倣い、そのために祈り、働く。

関係性の回復

2021-08-10 11:31:34 | 説教要旨
2021年8月8日 主日礼拝宣教
「関係性の回復」 エゼキエル書34章11-16節
 某飲料メーカーに「お~い、お茶」という、皆さんよくご存じの商品名のお茶がありますが、私は最初、あまりにそのものずばりのネーミングにびっくりしましたが、今では私の好きな緑茶飲料であります。
 ところで、皆さんはこの「お~い、お茶」という言葉が、「お茶を入れて持ってきてくれ」と言われているように聞こえますか。それとも、「お茶を入れて持ってきてくれ」と言っている自分の言葉として聞こえますか。どちらとも取れますね。いつもサービスを与える側にいる人なら、「お茶を持って来てくれ」と言われているように聞こえるし、いつもサービスを受ける側にいる人なら、「お茶を持って来てくれ」と頼んでいる自分の声に聞こえるでしょう。その立場の違いでしょう。「お茶を入れて持ってきてくれ」といつも言っている人は、たまにはお茶を入れてあげないと愛想つかされますよ。聖書にも「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒言行録20:35)とありますからね。
 でも、どちらの立場にあっても、「お~い、お茶」と呼んだり、呼ばれたりする相手がいることは幸せです。サービスを受ける喜び、サービスを与える喜びがこのさりげない日常会話にはあります。お茶を介してお互いの信頼関係の確認。これがコーヒーでもいいですよね。いずれにしてもささやかな幸せ。これって、大事ですよね。
 先日の新聞に次のようなショッキングなことが書いてありました(朝日新聞Reライフ2021・7・31)。「国立社会保障・人口問題研究所は4年前の調査で独居男性高齢者の7人に1人は『2週間のうち一度も会話をしていない』という調査結果を発表しました」。この記事を読んで、教会で何か出会いと交わりの場が提供できないかなと思った次第です。「お~い、お茶」と呼ぶ相手のいない人の寂しさを考えるとそういう人の相手になってあげたいと思います。教会がそういう交わりの場にもっともっとなったらいいと思います。「お茶でも飲もうよ」と気楽に声をかけあう場が欲しいですね。
私たちの教会でもできないでしょうか。祈っていきたいと思います。
 というのも愛は関係性のないところでは成り立たないからです。愛は相手があって成り立ちます。だから出会わないと始まらないのです。「お~い」と呼ぶことから始まるといっていいでしょう。かつて、平塚で行っていたホームレス支援の夜のパトロールは「こんばんわ」から始まって、「寒くない」「具合はどう」「何か困ったことない」などといった何げない声かけから始まります。それは関係性の回復を目指す第一歩なのです。エゼキエル書34章16節に次のように書かれています。「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」(エゼキエル書34:16)。
 このエゼキエル書34章を読んでみますと、11節で「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」と言われているように、神ご自身が一人の牧者となると言われます。この背景には、南ユダ末期のイスラエルの牧者としての役目を果たすべき指導者(リーダー)たちに対する批判がありました。34章の2節以下に書かれていますように、彼ら指導者は群れを養うことなく、自分自身を養うことに汲々とし、権力で群れを支配したからです。まるで牧者とは何かを明らかにしている反面教師のようです。それに対して神は彼らに代わって自ら牧者となり、群れを養うと宣言されます(34:11)。そして、真の牧者とは、「失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」(34:16)というのです。これこそが牧会であります。牧会と聞くと、外に向かって働きかける伝道の働きに比べるとやや内向きの印象を与えます。しかしここに描かれた牧者の働きには、積極的な面が牧会に隠されていることを教えるものです。まずは養うべき群れを探し求めることから牧会は始まるのであり、群れの一人ひとりに優しい配慮がなされると同時に、牧会を妨げるものを排除する強さも発揮されねばならないのです。まずは相手を探し、関係性を築き、信頼を作り、互いにリスペクト(敬意)を持ちつつ、共に生きていくあり方です。
 ヨハネによる福音書21章15節以下に、主イエスがペテロに「わたしの羊を飼いなさい」と三度言っている場面があります。主イエスがペテロに「わたしを愛しているか」と問われて、ペテロは「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えると、主イエスは言われるのです。「わたしの小羊を飼いなさい」。この問答が三度繰り返されます。この問答は主を愛するなら、羊を愛しなさい。隣人を愛しなさいということを言わんとしています。いつも言っていますように、神を愛することは、隣人を愛することと表裏一体のことなのです。
 そして、私たちが人を愛するのは、その人が素晴らしく好感が持てるから愛するのではなく、その人を神が愛しておられ、神が愛された羊である、というところから出発するのです。この世において全く関わりのない人にも神はその人に「わが羊」と言われた、そこに関わりの原点を見出していくのです。

石を打ち続ける

2021-08-03 14:47:25 | コラム
 俳優の小泉孝太郎が部屋に貼っている言葉が紹介されていた(朝日新聞7/24)。それは作家の伊集院静が新社会人に向けた言葉。「人間は誰でも、体の中に、火を起こす石のかけらを持っている。働くとは、その石を打ち続けることだ。」
 小泉氏は「人生や仕事は自分の気持ち次第だな」と思ったという。皆さんは伊集院氏の言葉からどんな思いを持ちましたか。私もこの言葉からいろいろな思いを持った。前提の「石のかけら」を持っているにもかかわらず、持ってないと思う者が大勢いる。いわゆる自己肯定感が持てない人、競争社会から振り落とされた人たち。その人たちに「持っているよ」と気づかせるにはどうすればいいか?
 「石を打ち続けること」は「継続は力なり」と同意だろう。ここで見落としてはならないのは「かけら」という言葉。小さくて不完全である。働くということはそれを磨くということだろう。人間性を磨くということか。そのように含蓄のある言葉はいろいろと思いを巡らすことができて楽しい。