逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

出来事となった神の言葉

2022-12-26 12:02:49 | 説教要旨
2022年12月25日 クリスマス礼拝宣教
「出来事となった神の言葉」ルカによる福音書2章8~21節
 メシアの誕生は最初に羊飼いたちに告げられた。神殿の大祭司や祭司、宮殿の王侯貴族たちではなかった。羊飼いたちは仕事上、町には住まないで、いつも荒野や草原などを移動していたから、住民登録の必要もなく、よって納税の対象でもなかった。要は住民として数えられていなかったということ。その意味で、羊飼いたちは周辺に追いやられた者、いと小さき者、貧しき者の代表といってもいいだろう。そのような羊飼いを神の使いは選んだのだ。神の選びは不思議な、そして神の自由な選択である。社会的な地位や宗教的身分の高さゆえに、神の選びがあるわけではないし、逆に弱さや貧しさの故に、神が選んだのでもない。強さも弱さも選びの条件ではない。それはあくまで神の自由な選択である。しかし、これが不思議なことだが、神は弱い者、貧しい者、いと小さき者である羊飼いを選んだのである。この不思議さは人間の判断によって合理化されて説明されてはならない。そのまま受け入れるしかない。しかし、この事実は私たちにとって、なんという慰め、また励ましではないだろうか。
 今朝の聖書個所では、羊飼いたちに大きな喜びを伝えるために御使いが「近づき」(9節)と記されている。「近づき」だから、遠くの空中に天使がいるのではない。文字通りには「近くに立つ」という意味。だから、羊飼いたちはこの喜びの知らせを遠くに聞くのではなく、まさにその知らせにぶつかるように出会うのである。大きな喜びが羊飼いたちにぶつかってくるのである。この言葉には「アタックする」という意味もある。この知らせに圧倒され、何より突き動かされる。じっとしていられないほど。羊飼いたちの反応がそれを示している。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」(2:15)。御使いの知らせにぶつかって、じっとしていられない羊飼いたちは主イエスが生まれた家畜小屋の飼葉桶へと急ぐ。 
 ところで、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」(2:15)という、この「出来事」と訳されている言葉だが、丁寧に言うと、「実際に出来事として起こった言葉」である。出来事となった神の言葉である。この福音書を書いたルカが第2巻として書いた使徒言行録で、ペテロがこんな言葉を語っている。「神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です」(10:36-37)。神からすべての人に与えられた平和のメッセージは、イエス・キリストによって伝えられたが、実はまた一つの出来事であった。ペテロはそのように言って、さらに、主イエスが人々を愛して生き、十字架につけられて殺され、よみがえられた出来事を語る。主イエス・キリストこそ、出来事となった神の言葉である。羊飼いたち、そして私たちは、クリスマスにこの出来事にあずかるのである。
 クリスマスこそ平和を告げる神の言葉である。平和のメッセージである。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(2:14)。この神の御言葉が出来事となっていく。イエス・キリストを通して、神の言葉が出来事となっていくのである。クリスマスにこの出来事に与る私たちは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰を通して、平和のメッセージを受け取り、そして平和のために働く者へと突き動かされていく。主の平和にために祈りを合わせよう。   

インマヌエル-神は共にいます-

2022-12-26 11:58:39 | 説教要旨
2022年12月24日 イブ礼拝宣教
「インマヌエル-神は共にいます-」マタイによる福音書1章18~25節
 世の中は、クリスマスの時期になると、パーティーだ、プレゼントだ、またクリスマスツリーだといって、にぎやかに過ごしている。最近ではイルミネーションで華やかに飾り付けたりしている。商売ではクリスマスに便乗したセールもしている。それらが悪いとか、いけないとか言うつもりはない。大いに楽しんだらよいと思う。しかし、一方で世界に目をやるとウクライナやミャンマーなど戦争や弾圧によって、命や自由や人権を奪われたり、貧困や飢餓で苦しんでいる大勢の人々がいる。そのことも忘れないでほしいと思う。祈っていきたい。もう一つ、気になることがある。それはクリスマスはサンタさんの誕生日かと思うほどにサンタさんばかり登場して、どこにもイエスとかキリストが登場しないことである。せめて、クリスマスは、イエス・キリストの誕生日をお祝いする日だということぐらいは知ってほしいものである。もっと言うならば、クリスマスの本当の意味は何なのかをぜひ知ってほしいと、教会の牧師としては願うところである。
 今夜はそのことについてお話をしたい。聖書のいう神とは何か。一言でいうと「神は愛です」。「愛」と言われてもそれは非常に抽象的で、神の何が愛なのか、どんな行為が愛なのか、その具体的な行為とかあり方がはっきり示されないとわからない。そのことが端的に書かれているのが、ヨハネ3:16、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」神から私たちに愛する独り子イエスをプレゼントしてくださったということがクリスマス。イエスの誕生なのである。
 このように神は私たちと関係のないところに隠れてはおられない。無関心ではおられない。神は私たちと関係を持とうとされる。そのため独り子イエスを私たちのために贈ってくださった。イエスは神の子でありながら、私たちと同じ人間としてお生まれになった。そして、私たちと共にいて、共に歩んでくださった。それは神の愛の行為。私たちが神の方に接近して共にいるようになったとか、呪術的な儀礼によって神を引き寄せた、というのではない。神の方から私たちのところに来て下さるという、神の愛の行為である。その行為こそ、神の独り子イエス・キリストの誕生である。だから、これら誕生の出来事一切は神から告げられることによって起こっていく。「神われらと共に」とは神の真実な愛の行為であり、イエス・キリストにおいて起こった行為である。
 このイエスの誕生に際して、イザヤの預言が引用されている。23節に「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
名は体を表すと言われる。インマヌエルとは「神は共にいます」という意味だから、救い主は天高くいますお方ではなくて、この地上に私たちと共にいてくださるということである。この救い主の姿は、クリスマスにおいて始まり、世の終わりに至るまでも変わりないことを、このマタイ福音書では最後の最後の28章20節で、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と主イエスが弟子を派遣される際の言葉の中に表明される場面を書き残している。主が共にいてくださることを信じる信仰ほど、人に勇気と慰めを与えるものはない。
 究極の隣人援助は、「共にいる」ことであるとカウンセリングの世界で言われる。人が危機の最中にいればいるほど、共にいてくれる人の存在が重要な意味を持つ。危機を経験した人なら、なまじっか気の利いた言葉を聞くより、だれかが傍らにいてくれるだけで慰めを得、勇気が湧いてきたことを知っているはず。
 救い主は、いついかなる時も共にいてくださることを信じるなら、前途暗澹たる思いに佇む時も決してそのまま捨て置かれることはないとの確信がもてる。生きる勇気と励ましと慰めをいただくことができる。
 インマヌエルの主イエスの誕生を心から待ち望みつつ、感謝をもってクリスマスを迎えよう。

ヨセフの信仰

2022-12-19 16:34:21 | 説教要旨
2022年12月18日 主日礼拝宣教
「ヨセフの信仰」マタイによる福音書1章18~25節
 昔から「生みの親と育ての親」ということが言われる。生みの父親とは「血のつながった父親」、育ての父親とは「父親の役割」を果たす人。父親の役割とは、母親が安心して子を産み、授乳できる環境を整えることである。女性がいったん妊娠すると、女性にとって必要なのはこの父親の役割を果たす人である。そして、この父親の役割を果たす人はそれを引き受けようとする者ならば誰でも担えるということ。 
 今日の聖書個所に出てくるヨセフはまさに、生みの父親でないにもかかわらず、その「父親の役割」を果たすことを引き受けたといえる。ヨセフは最も寄る辺ない状況におかれたマリアに、「俺が父親を引き受ける。だから安心して子どもを産みなさい」とマリアが安心して子どもを産み、授乳できる環境を整えてやった男なのである。ヨセフがその後も如何に誠実に、いったん引き受けたこの父親の役割を担い続けたかは誕生物語の続きを読むとよく分かる。横暴なヘロデ王が無力な幼子を次々に殺していく中で、ヨセフは幼子を抱えているがゆえに最も助けを必要としている母マリアに、体を張って安全な環境を確保し続けていく。このヨセフの誠実さは、育児中のマリアに身体的な安全ばかりか情緒的安定をもたらしたに違いない。
 ヨセフは明らかに「生みの親」でなかったために、最初から、「育ての親」(父親の役割)を引き受けるかどうか悩んだ。「ひそかに縁を切ろうと決心した。」(19節)とも書いてある。しかし、夢に天使が現れて、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」(20節)というお告げがあり、最終的には自覚的に引き受ける決断をした。だからこそ、彼は本当の意味で「父親」になれたのだと思う。このことは当時、系図がよく聖書に表れてくるように、血のつながりを異常な関心とそれに重要な価値をおいていたユダヤ社会において、「育ての親」(父親の役割)だけを引き受けようとしたヨセフの決断は、これまでないがしろにされてきた価値に光を当てた革命的な人物だとさえ思えてくる。このヨセフの信仰のように、私たちの信仰も最終的には自覚的な決断が迫られ、選び取っていくものである。
 しかし、ヨセフも最初からそのような革命性を帯びていたわけではなかった。やはり初めは血のつながりのある父になることにこだわっていた。だから、血のつながりのない子を宿したマリアを「ひそかに縁を切ろうと決心した」。彼はマリアが身ごもったことにとまどい、混乱し一人で悩んでいた。口語訳では「思いめぐらしていた」(20節)とある。ヨセフのような状態を私たちも日常的に経験することがある。いったんこうと決断してもまだ揺らぎがあり、迷いがある。何か引き留めるものがあったり、こだわりが残っていたりする。なかなか実行に移せない。信仰の決断もそのようなところがある。そんな時、神の言葉が私たちに方向性を与える。信仰の決断も最後はみ言葉によって励まされ背中を押されていくことが多くある。または聖霊の働き、助けによって押し出されることもある。いずれにしても、最後は神の働きによってなされていく。
 ヨセフに新しい境地へと向かわせたのは、「インマヌエル」(神は我々と共におられる)なる神である。「共にいる」というのは、身体的な実感を持った表現である。「寄り添う」とか「息づかいを感じながら」という言葉で表されるような状態ではないだろうか。「インマヌエル」(共にいる神)は、小さい者に寄り添い、小さい者の息づかいを感じながらゆっくり歩む。「血のつながった父」になることではなく、「父親の役割」を引き受けることを選んだヨセフの革命的な行動は、このような「共にいる神」によって引き出されたのである。
 神は私たちと関係のないところに隠れてはおられない。神は私たちと関係を持とうとされる。私たちと共にいて下さる。それは神の愛の行為。私たちが神の方に接近して共にいるようになったとか、呪術的な儀礼によって神を引き寄せた、というのではない。神の方から私たちのところに来て下さるという、神の愛の行為である。だから、ヨセフも決断を促され、父親の役割を担うことができたのである。ヨセフの信仰も「インマヌエル」の神によって励まされていった。私たちもこの「インマヌエル」の神を信頼し、励まされて歩もう。

縦糸と横糸

2022-12-13 16:21:40 | 説教要旨
2022年12月11日 主日礼拝宣教
「縦糸と横糸」マタイによる福音書22章34-40節
 新型コロナの世界的規模の感染拡大、急速な地球温暖化、少子高齢化、AI(人工知能)の発達、格差拡大、人間関係の希薄化など、実に私たちを取り巻く環境は大きく、そして急速に変化してきている。企業はもとより学校、行政などもその変化に対応したあり方を必死に模索し、実践をしている。
 ある広報誌に載っていたが、京都にある300年も続く老舗の西陣織の経営者は、今では着物だけではなく、欧米の高級車の内装に使われる織物を手がけているそうだ。そして、その経営者は次のように語っている。改革を進めるときに、縦糸がぶれなければよい。その縦糸とは、伝統、経営理念であり、横糸を時代や状況に合わせて変化させていくことが大切であると。とても示唆に富んだ話だ。
 教会はどうだろう。社会の急速な変化に対応する改革を進めているだろうか。進めるとしたらどのように、また何をしたらよいのか。考えさせられる。そしてすぐ思いついたのが、今日の聖書個所。教会の縦糸は神との関係で、横糸は人間社会との関係。その具体的な教えが、今日の聖書個所の戒め。「神を愛し、隣人を愛せよ」との大切な教えである。神を愛する信仰はぶれることなく、隣人を愛するあり方は時代に即して変化していくし、変化が求められるのではないか。
 そこで、今日改めて、その大切な教えについて、見ていきたいと思う。第一の掟、「主なるあなたの神を愛せよ」というのは、ユダヤ教の大原則。ただし、主イエスにおいては律法を遵守することによってではなく、「心をつくし」「精神をつくし」「思いをつくして」、すなわち、全人格的に神を愛せよと説いている。当時、このような、一人ひとりの信者の人格を重視するという視座は、ユダヤ教においては大変希薄であった。ユダヤ教とキリスト教の、神と人間に関する違いが端的に表れている個所である。神を愛する、という内実、そのあり様が一人一人に問われるというわけだ。個の信仰が問われるわけである。
 たとえば、多くの日本人は、うちの家は浄土真宗の檀家だから、葬式はお坊さんを呼ぶとか、家に仏壇があるから、クリスチャンにはなれませんとか、全く個の信仰、自分自身の信仰のあり方、もっと言うならば自分の人生の生き方、あり方に正面から向き合おうとしない。表面的な付き合いで終わっている。当時の多くのユダヤ人も同じで、ユダヤ人だから当然ユダヤ教で、ユダヤ教では律法を学び、守るのは当然でそう教えられている。だから、神を愛するという教えは耳タコで、当然、神を愛するものだし、愛していると勝手に思っているところがある。そこへ、主イエスは、一人ひとりに、どれだけ、そしてどのようにして「心をつくし」「精神をつくし」「思いをつくして」、神を愛しているかと問い返しているわけだ。それは、私たちにも同じように問いかけられてもいる。
 次に二つ目の教えであるが、ここで重要なのは、主イエスが「無条件で隣人を愛せ」という類の博愛を説いてはいないということ。主イエスが具体的に、「自分を愛するように」と説いていることがポイントである。キリスト教は自己愛を重視する。意外と思われるかもしれないが、裏返して言うならば、自分を愛することができない人は、隣人を愛することもできない、ということである。
 このような自己愛が崩壊している事例の一つにストーカーがある。ストーカーは、相手を過剰に愛しているように見えるが、実際は相手を自分の思い通りに操縦することができないと、自分が崩壊してしまうと焦っているのだ。自分のために相手を徹底的に搾取、収奪することしか考えていない。従って、相手が逃げ出すと、意のままに操ることができなくなるので、ストーカー行為を始め、最悪の場合は相手を殺害したりする。
 まっとうな自己愛を持っていない人が、他者との関係を構築しようとすると大変な悲劇が生じる場合がある。自己愛を大切にしながら、隣人を自分のように愛することが重要なのである。
 聖書の言う「自分を愛する」ということは言い換えると、自分を大切にするということ。自己保身や自己満足のための自己愛ではない。だから、「隣人を自分のように」ということのポイントは、いかに隣人と「共感」できるか、その「共感力」が問われる。そこに共に生きる関係、共に生きる社会を作り上げていくポイントがあるように思う。
 最後に話を最初に戻すと、私たちの信仰の縦糸は神との関係、そして横糸は人間社会との関係だる。その具体的な教えが、今日の聖書個所の戒めである。「神を愛し、隣人を愛せよ」との大切な教えである。神を愛する信仰はぶれることなく、隣人を愛するあり方は時代に即して柔軟に変化させていくことが大切である。どのような教会を立て上げていくのか、どのように自分の信仰生活を成長させていくのか、また幻を祈り求める時、大切な視点である。愛の縦糸と横糸を織りなして、神の愛の福音を証していこう。

クリスマスのご案内

2022-12-10 16:28:24 | 教会行事
イヴ礼拝             クリスマス礼拝
12月24日(土)        12月25日(日)
19:00~20:00     10:30~12:00          
礼拝の中で自由献金があります。
クリスチャンではない方も どうぞお越しください。
お待ちしております。 駐車場有。