逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

私は何者か

2021-09-28 11:37:54 | 説教要旨
2021年9月26日 主日礼拝宣教
「私は何者か」ヨハネの手紙一3章1-3節
 人は誰でも自分の生き方が分からなくなり、「どう生きたらよいか」「私は何者か」と自問する時がある。「論語」に「四十にして惑わず」とあるが、四十を過ぎても惑うことばかりで、それが現実の人間の姿ではないか。それは「アイデンティティの問い」と言われ、それが分からないと、自分自身が分からず、自己喪失に陥ってしまう。自分を見失ってしまうのだ。
 今日の聖書箇所は、この問いに見事に答えている。「私は何者か」の問いに、「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子です」(2節)と答える。私たちには挫折の時があり、迷ったり、背いたり、無力だったり、病んだり、疲れていることもある。そしていつも神にふさわしくない自分を見る。しかし聖書は、「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子です」と言う。この御言葉をそのままに受け止めなければならない。なぜなら、この御言葉には十分な根拠があるからだ。それは「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」(1節)である。
 聖書がここで「考えなさい」と言っているのは、実は「見なさい」という言葉である。何と大きな愛を神が私たちに下さったかを見なさい、と言うのである。ぼんやり考えていてはいけない。思い煩っていてはいけない。「見なさい、神が与えてくださった愛が何と大きいかを」と言っているのだ。具体的にはイエス・キリストを見なさいということである。キリストを見て、キリストとその生涯、そしてその十字架の出来事を見て、何と大きな神の愛が与えられたことかと知るのだ。キリストから目をそらし、自分自身を見つめ出したら、私たちはいよいよ自分が分からなくなる。しかしキリストを見ると、何と驚くべきこと、大きな喜びの奇跡が与えられていることを発見する。思いもよらぬことだが、私たちは神にとってかけがえのないもの、大切なものとされ、独り子を犠牲にしても慈しむものとされているのだ。そのことが分かってくるのだ。それが絶対者に対しての「相対化」の結果である。
 一方、絶対的な他者がいなくて、自分自身を見つめても堂々巡りをするだけで、訳が分からなくなる。結果、虚無的になったり、無気力になったりする。また、絶対者でない他の人間と見比べてみても、相対化は相対化でも、それはしょせん比較しているだけで、優越感を持つか、劣等感を持つか、うらやむか、自慢するかであって、あるいはその比較の中でどの位置にいるのかがわかるだけで、周りの状況や立場が違ってくるとそれも変わる。結局、自分というものは一体何だったのだろうかという話にもなるわけである。私たちはそういうことに毎日振り回されながら生きているということだ。
 さて、ここで聖書が「私たちは、今既に神の子です」と言われるのだが、そう言われても、頭では分かっても、事実そうなっているということを実感をもって受け取ることが出来ない。なぜなら、私たちは手で触れたり、目で見たりするようなことから現実を見てしまいがちだからだ。しかし、信仰はそういうところから現実を見たり、自分を見ていくのではなくて、イエス・キリストから現実を見ていくことである。それが信仰の根本である。自己の相対化。自分を神に照らして相対化して見ていくときに、本当の己の姿が立ち現れてくる。
 ふつう私たち人間は、自分本位、自分中心だから、罪を赦されたと言われても何もうれしいことはない、神の子とせられても、そのことによって何も得することはないと考えがちだ。やはり毎日毎日食べることに汲々としておらねばならないではないか、というように現実からものを見ていくわけだ。これに対して、信仰というものは神の御言葉から現実を見ていく。自分は神の子とせられているのだからというふうに見ていく。金がたまったからうれしいとか、何やらができたからどうしたというような、こちらから見ていくのではなくて、神のみ言葉から現実を見ていくことが信仰の姿である。この視点を持っているということが人生をしたたかに、同時にしなやかに力強く生きていける秘訣である。
 この逆転の立場と言っていい人生観、世界観というものがクリスチャンの生き方である。これをしっかり身につけていただきたい。そうすれば信仰は両刃の剣のようなもので、どんな難しい問題がやって来ても、どんな悩みの中にあっても、「たとい私は死の陰の谷を歩むとも、災いを恐れません」(詩編23編)と、すべてのことをえり分けていくことができるのである。

イエスさまの目線

2021-09-21 10:36:42 | 説教要旨
2021年9月19日 主日礼拝宣教
「イエスさまの目線」ルカによる福音書19章1-10節
 今日の「徴税人ザアカイ」の物語は、ザアカイが金持ちであり、人から疎外されるような生活をしていたこと、また主イエスに出会って、全く新しい人間に変えられたことが読み取れるが、ここで聖書が私たちに教えようとしていることの一つが、ザアカイという一人の人を見る神の目についてである。
 ザアカイは人々から嫌われ罪人扱いされていた。それは人々の偏見や金持ちであることへのやっかみもあったと思うが、ザアカイにも人に理解されない性格や行いなどの人間的な欠点や弱さがあり、それがザアカイ自身の問題を作り出していたと思われる。彼自身も「だれかから何かだまし取っていたら…」などと告白している。私たちがそういう人と付き合っていると、いろいろな誹謗中傷を受けたり苦しんだりするので、そのような人は避けて、できるだけ無難な人との付き合いを求めるようになる。しかし、主イエスはザアカイを愛された。それは彼の中に価値を見出されたからではなく、彼も「アブラハムの子である」と見られたからである。それが神の人を見る目だと思う。「アブラハムの子」とは、救いが約束されている民という意味。
 つきあって何の役にも立たない、かえって損になるような人、いやな人、またどんな性格の人であっても、その中にアブラハムの子であるというものを見出していくところに、主イエスが来られた意味がある。本来はアブラハムの子であるから、素晴らしい信仰生活をしていなければならないはずだ。しかし、そういうものを失ってしまっている人に、もう一度自分がアブラハムの子であることを分からせるために、主イエスは来られたのだ。
 人間関係は信頼するということが一番大切だと思う。人から信頼されると、私たちはそれを裏切らないように心掛ける。信頼していくということは、結局は勝利だと思うが、同時に非常に難しいことである。信頼を裏切っていく者をなお信頼していくところに、主イエスが生きられた道、語られた教えがある。人を本当に立ち返らせていく力というものは、人の非や欠点、短所を突くことではなく、その人を肯定し、信頼していくことである。それはあらゆる世界において言えることではないかと思う。
 ザアカイという一人の失われた者が、新しく正しい生き方に自分から進んで出ていったのは、主イエスが彼を信頼されたからである。先に声をかけられたのは主イエスである。主イエスは私たちに対しても、アブラハムの子である、神から愛されている者であるというまなざしで見ていかれるのだ。
 ところで、その主イエスの愛のまなざしはどのような目線であったのだろうか。主イエスは木に登ったザアカイの下に来られた。「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた」(5節)と書かれている。救いというと、救い上げるという言葉をなんとなく思い浮かべる。上にいる、天にいる神が、私たちに救いの手を差し伸べて、救い上げてくださると考える。でも、救い主イエスは、ザアカイよりも下に来たと聖書は語っている。そしてさらに、主イエスはその後、ザアカイの家にまで出かけてくださり、客となられた。客となるということは、心を許す友となるということだ。主イエスはザアカイの友となられたのだ。
 徴税人の頭ザアカイの物語の最後にこう書いてある。「イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである』」。私たちに与えられた福音は、この失われたもの、失われた魂の救いである。木から降ろしていただき、しっかりと救い主に受け止めていただく経験である。そこに悔い改めが起こる。そして新しい人生が始まる。今日もまた、主イエスは私たちに言われる。「急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」。

イエスとの交流体感

2021-09-13 11:59:48 | 説教要旨
2021年9月12日 主日礼拝宣教
「イエスとの交流体感」マルコによる福音書5章25-34節
 「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた」(25節)とマルコ福音書は書いている。レビ記の規定(12章、15章など)から言えば、彼女は十二年間も出血が止まらず、したがって十二年間もの長い間、不浄な者、汚れた者とみなされてきたことになる。この女性が何歳くらいの人であったかは不明だが、十二年間という年月から推測すれば、彼女の青春の日々は出血の苦しみに加え、穢れている者として社会生活からも排除された孤独なものであったと想像できる。マルコ福音書もそうした彼女の人生を思ってか、同情を込めて描いている。「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」(26節)。これが彼女の十二年間の人生だったのだ。
 マルコ福音書はこの病気の女性の側からイエスを描いている。そして同時にイエスの側からも書いている。イエスとこの女性の両方からの視線で書いているのがこの物語である。その点を少し詳しく見ていくと、まず彼女は「病気がいやされたことを体に感じ」ている。一方、それに呼応するようにイエスは「自分の内から力が出て行ったことに気づいて」いる。二人はほぼ同時にお互いの体で感じ合っているのが分かる。彼女が病気を癒されたこと、イエスの体から力が出て行ったことをお互いの体でそれぞれに感じ取っていることがここで起こっている。このイエスとの相互の体感、交流体感と言ってもよいが、それこそがイエスとの出会いであり、ここでは病気の癒しとなって起こっているのである。こういうことって、皆さんの生活体験の中でないだろうか。お互い、ピィ、ピィと感じ合うものを感じた、というようなことが。
 さて、その時、イエスはさらに次のように言われた。「群衆の中で振り返り、『わたしの服に触れたのはだれか』」(30節)。これは不思議な行動に見える。彼女はすでに癒されているのだから、余分な行為にも思える。しかしここに大切な意味があるように思う。もっとも、弟子たちにはイエスのその行為の意味は分からなかったようだ。「そこで、弟子たちは言った。群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた」(31-32節)。
 交流体感とはお互いに相手を認識し、触れ合い、心を通い合わせることによって起こるもの。イエスの後ろから服に触ったこの女性は、出血は癒されたが、しかしそのままでは以前と同じように蔑視と差別の中を生きていかなければならない。それでは癒しとは言えない。肉体的に癒されることは治癒であっても、それは癒しではない。彼女の生活を含めて全生活が回復されないと癒されたことにはならないからである。
 「わたしの服に触れたのはだれか」、イエスはこの女性を見出そうとされる。イエスは女性と人格的に向き合おうとされる。その時、彼女はイエスの言葉に、「自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてありのまま話した」(33節)とある。ここでの「恐ろしくなり、震えながら」という表現は、復活の出来事に出会った女性たちが示した姿と同じである(マルコ16章8節)。これは偶然の一致だろうか。そうではなく、ここでマルコ福音書の著者は、この彼女の体験は、あの復活の出来事の体験と同じものであったと言っているように思われる。そうであれば、イエスはここでは復活のイエスとして彼女と出会っておられる、と理解できるのではないだろうか。この物語は病気の癒しの物語であるとともに、復活の体験の物語でもあるのではないだろうか。復活の体験、それは新生、新しく生まれ変わった体験と言ってもいいだろう。だから、イエスは彼女に、「安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」と言って励まして送り出している。
 この女性のその後の人生については何も語られてはいない。しかし、自分の身に起こったあのこと、復活のイエスと出会ったその共同体感、すなわち新生の経験をその後も彼女は生き生きと語り続けていたのだろう。マルコ福音書の著者はじかにその話を聞いて、その言葉の端々に彼女の経験したあの体感を同じように感じたのではないだろうか。私たちも今日、聖霊の助けをいただきながら、改めて、このマルコ福音書のみ言葉から同じようなイエスとの交流体感、そして新生の経験、そして生きる希望を受け取っていきたいと思う。

人生の再解釈

2021-09-07 10:44:03 | 説教要旨
2021年9月5日 主日礼拝宣教
「人生の再解釈」 詩編22編2-22節
 詩編22編は人間の苦悩とは何か、一体、信仰者はどういうことに苦しむのかをよく言い表している。それは死の苦しみの呻きだろうか。この詩人は今ひどく不安に襲われている。死の病に取りつかれ、熱と苦痛、そして不安のために身の置き所がないのだ。その上、周囲の人々が、彼を苦しめる。「わたしは虫けら」「人間の屑」「わたしを見る人は皆、私を嘲笑い」とある(7-8節)。彼は苦痛の中にあって、しかも孤独。「助けてくれる者はいないのです」(12節)と嘆いている。
 そのような中にあって、この詩人は苦しめる最大のことは、病の苦痛でもなく、また人間の非難や中傷でもなく、それは「神に見捨てられること」(2節)と語っている。ここで詩人は、何よりも深い苦しみは、神に見捨てられること、神が私たちの嘆きの言葉から身を背け、遠くにいて、身を向けてくれないことだと言うのだ。それが人間を絶望の淵に落とすのだ。
 しかし、この詩人は、その絶望の中でなお「わたしの神、わたしの神」(2節)と呼んでいる。それは、絶望の中で、なお神を信じ、神に信頼を寄せているからではないか。それは、「母がわたしを身ごもった時から 私はあなたにすがってきました。母の胎にある時から、あなたはわたしの神」だからだ(11節)。詩人はここでこれまでの自分の歩みを振り返っている。また自分の先祖の歴史を想い起している(5-6節)。そして、そこに示された神の憐れみを想起している。そのことがこの詩人を支えているのだ。
 この詩人のように、だれでも自分の人生を再解釈することができるのだ。解釈し直して、正しく理解することができるのだ。「わたしを母の胎から取り出し、その乳房にゆだねてくださったのはあなたです」というように、誰でも人生をそう受け取り直すことができるのだ。それは、神と出会い、神の愛を受け入れ、神の救いを信じることから起きてくる。
 では、その救いとは何か。この詩人の場合、病を癒されたのでも、敵がいなくなったのでもない。そこにあるのは、「主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません」「御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださる」(25節)ということだ。苦しむ者の苦しみを軽んじない神がおられる。それが神の救い。病が癒されたか、敵から救いだされたか、それは分からない。しかし分かっていることは、救いに入れられると人間は変わる、人間は救いの中で変えられるということ。「主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれ」ないという方が存在する、言い換えればそのような希望が持てるということだ。「御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださる」方がおられるという希望。苦しむ者の苦しみを軽んじない神がおられるという希望。そのような希望が持てた時、信じられた時、今までの人生の歩みを振り返ってみると、今までの人生での出来事、あり方の意味が再解釈されてくるのだ。それが新しく生まれ変わるということでもある。
 主イエスが十字架の上で、この詩篇22編の祈りをご自分の祈りとされたことが福音書に書かれている。それは、この詩人の苦しみ、そしてこの詩に託されたイスラエルの民とあらゆる人間の苦しみをご自分のものとされたということである。そのことは、苦しむ者の苦しみを神は軽んじないということが、主イエスの十字架によって決定的な証拠をもったということだ。そこに救いがある、希望がある。
 神が御子イエスの受難の中で、苦しむ者に目を向けてくださり、苦しむ者の苦しみまで降りて来られた。それだけではなく、主イエスは苦しむ者、神に見捨てられたと思われる者の身代わりになられた。主イエスは、苦しむ者の傍らにいてくださり、代わってその苦しみを負ってくださった。それは苦しむ者も神に見捨てられていないということ。ここに私たちの救いがあり、希望がある。
 救いとは、あなたの苦しみを神が軽んじないということ。神があなたに恵みをもって全身を向けてくださること。神が愛をもって共におられ、捉えてくださるということ。そのとき、私たちも変えられ、人生の再解釈がなされ、感謝と賛美を歌うことが出来るのだ。